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Nov 29, 2014
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「三河一向一揆」(79章)


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「三河、騒乱」

 そうした情況のなか永禄六年十月下旬に、突然、三河に大事が勃発した。

 その大事とは三河の一向門徒衆が三河一帯に一斉に蜂起した事である。

 この争いは松平家康の家臣と領内を二分した大騒乱となった。

 発端は松平家が、一向門徒の寺院に干渉した事から始まった。

 かって三河は親鸞が北国行脚の途中、矢作の薬師堂で法話を説き、それが

三河一帯に広がり、一向門徒衆を名乗るようになったと言われる。

 三河の一向門徒の寺院は上宮寺、本証寺、勝鬘寺の三ケ寺が寺院を称し、

守護不入を称え、独立国家の体勢をとっていた。

 この守護不入とは、守護が罪人の逮捕や租税徴収などで院内に入ることを

禁じたもので、寺院は勝手にそれを特権として称していた。

 その野寺、本証寺に罪人が居ると家康の足軽が、勝手に寺院に押し入った

事が今回の騒動の始まりであった。

 その足軽達に武田の忍びの河野晋作と小十郎の二人が加わっていたのだ。

 まさに信玄と信虎二人の策が効を奏したのだ。

 現在の安城市、野寺の本證寺第十代の空誓(蓮如の孫)が中心となり真宗門徒

に檄を飛ばし、三河の領主、松平家康に反抗した事が今回の騒動であった。

 この一揆は三河の分国支配を目指す家康に対して、その動きを阻もうと試みた

一向宗勢力が、一族や家康の家臣団を巻き込んで引き起こしたものである。

 その意味では、松平宗家が戦国大名として領国一円の支配を達成する為に、

乗り越えなければならない、一つの関門であったとも言える。 

 三河一帯を統べる家康も、守護不入を称える一向門徒衆をそのままにして

おく考えはなかった。

 家康は今川家の領土を侵略し、万全な備えをした後でと思っていたが、

この騒乱に誘発された格好で彼等との戦いが始まったのだ。

 家康の家臣の門徒衆は、主人と宗門の狭間で悩んだが結局は宗門につき

猛烈に抵抗した。

 更に松平家に対する不満分子の豪族も絡み、目もあてられない様相となった。

「主人とは現世のこと、仏祖如来(ぶっそにょらい)は未来永劫。頼むところは

ご本尊のみ」  

 これが門徒衆の考えで目もあてられない、惨状を呈した。

更に日頃から鬱積した不満分子までが、門徒衆に続々と加勢したため三河一帯は

荒れにあれた。

 天下を取った家康が往時を思いだし、三河一向一揆は、三方ヶ原の戦い、

伊賀越えと並び、わしの三大危機であった、と語っている。

 三方ケ原合戦は武田信玄との合戦で、散々に敗れ馬上で脱糞して逃げ回った

合戦で。伊賀越えは京に遊覧の旅をしていた時、織田信長が明智光秀の謀反で

横死し、逃げ場を失い必死で伊賀越えをした時のことである。

 三河一揆は敵から犬のように忠実と、揶揄され評価された三河家臣団の半数が、

門徒方に与し、家康に宗教の恐ろしさをまざまざと見せつけた事件であった。

 この戦いは家康も家臣たちも、もっとも辛い戦いであった。門徒方に付いた

家臣等は、ご本尊を信じて主君である家康に本気で槍をつける者もいたが、

家康自身が軍勢の先頭に姿を見せると、大方の者は、

「君が渡らせ給うては攻し(こうし)難し」

 と逃げ散る者が多かった。

 家康は反抗した家臣等の将来を思い、

「良いか、家臣同士の戦で生死を賭けてはならぬ」

 と厳しく従った家臣等に言い渡していた。

 何れ、近いうちに蹴りをつける。そうした自信があっての事である。

 信虎は久しぶりに隠居所から駿府城の大広間に向かった。  

「これは珍しい」

 すれ違う者が一様に驚きを示している。

 義元が息災の時には頻繁に登城した信虎も、氏真が当主となってから足が

遠のいていた。 

 併し、三河の一向一揆の騒動を見逃す手はないと勇んでの登城であった。

「爺殿、いかが為された?」  

 氏真が驚き顔で迎えた。

 それほど信虎は溌剌としていた。  

「氏真殿、今が好機にござるぞ」

「何を申されておるのか余には判らぬ」  

 氏真が困惑顔をしている。

「三河の地が内乱じゃ、これを機に三河に軍勢を向け攻略なされ」

 信虎が語調を強め説得するが、駿府城は腰抜けばかりが居座っていた。

 ここに朝比奈泰能や三浦成常の宿老が居たなら事態は一変したであろうが、

彼等は北条対策として前線の城塞につめていた。

「三河の松平家康を滅ぼす絶好の機会にござるぞ」  

 いくらけし掛けても動こうとはしない。

「この時に軍勢を出さずば、今川家は衰亡の一途をたどりますぞ」

 信虎が懸命に説くが、まさに糠に釘である。

「こうまで腑ぬけになられたか」  

 ついに言わでもない事を口走った。

「爺殿と思い多少のことには目を瞑って参ったが、今の言葉は聞きずて難し」  

 氏真が蒼白となり躯を震わせ喚いた。

 信虎は悄然として下城した。

(矢張りうつけ者じゃ)

と、内心で呟いていた。

 こうして今川家は三河一帯を回復する絶好機を失したのだ。

 一方の松平家康が最も恐れたことは、今川家の軍事介入であった。

 併し、氏真の弱腰でこの急場を凌ぐことが出来たのだ。

 家康は難戦につぐ難戦を制し、ついに一向一揆を鎮圧した。

 これは約半年余を要しての苦い勝利であった。

 これは翌年の永禄七年二月のことであった。

 一揆勢は恭順し和解が成立した。

 条件は一揆勢の本領安堵、道場僧俗の現状維持、張本人の助命なとで家康

にとって不満の残るものであった。

 だが家康は老獪な策を取った、和睦と共に三河の門徒寺、道場の破却を命じた。

 これに対し門徒衆から違約であるとの抗議があったが、家康は平然と答えた。

「現状維持と申さば、もともと寺や道場の前は原野であった。もとの原野にする

は誓詞を違えた事にはなるまい」

 と嘯き、この家康がおるかぎり三河には、一向宗を禁ずると厳命した。

 こうして家康は家臣団を掌握し、三河一国の領有を保ったのだ。

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Last updated  Nov 30, 2014 06:56:35 PM
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