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テーマ:暮らしを楽しむ(383666)
カテゴリ:ミニマリストになる前は・・・
昨日に引き続き、今日も「服」にまつわるお話です。
似合う、似合わない、のお話です。 何を着たらいいかがわからなくなって、 わたしのこれまでの人生において、ワードローブがもっとも「とっ散らかって」しまったのは、 41〜42歳の頃のことでした。 このスニーカーは 後ろ姿の「星」が好き。 今日の画像は「◯◯が好き!」シリーズです。 ************************************ たとえばです。 20歳の時に似合った服は、23歳になっても ちゃんと似合うと思うのです。 少し背伸びして買ったような「ちょっといい服」であれば、 23歳になった頃の方が、むしろ似合うようになっていることもあるのかもしれません。 もう少し年齢がすすんで。 32歳で似合った服は、35歳でもおそらく大丈夫なのです。 この3年で、見た目や体型って、ふつうに暮らしていたのなら、そんなには変わらない。 35歳で似合った服は、38歳でもギリいける(いけた)と思います。(わたしの経験では) この3年もまた、その人の雰囲気みたいなものは、さほど変わらない。 子育ても一段落、という時期であれば、自分の時間も増え、お出かけの機会も増え、 オシャレがとても楽しい時期の再来、かもしれません。 サラダは「春菊」と「アボカド」が好き! どちらも20代の頃にには苦手な食べ物でした。 **************************************** さて。 次なんですよ。 次の3年。 ここでわたしは大きく路頭に迷うことになります。 38歳で似合った服が、41歳には似合わない。 これまでと同じ「3年後」なのに。 これまでの「3年サイクル」は大丈夫だったのに、41歳になった途端、ずれてくる。 自分で思う自分は、38〜39歳の頃のイメージのまま都合よく止まってしまっていて、 頭の中のイメージの自分と、現実の自分自身の姿とが、微妙に「ずれて」くる。 そこをわからないままで、これまでと同じつもりで買ってしまうから 何を買ってきても似合わない。 なんかおかしい。何を買ったらいいかわからなくなる。 こないだまで似合っていると思えた服やアイテムが、軒並みダメになる。「総・アウト」。 好きなものや好きなテイストって、そんな急に簡単には変えられないものですし、 自分の「全体的な風貌」や「動作」が微妙に変わっていることにも、気づかない。 鏡に映った「真正面からの顔や姿」くらいしか見てない。(わたしはそうでした) 買ってきたものが似合わないことも「たまたまこれがダメだっただけ」と思ってしまう。 39歳の時に好きだったものを、そのままの気持ちで、 「今度こそ!」「「これならどうだ!」「今度こそ似合う!」と、 すごく頑張って買い続けてしまうんですね 。・゜・(ノД`)・゜・。 リップはETVOS の「リッププランパー」が好き! 他のですと「皮むけ」するんです。 ↓ ずっと愛用していたカラー(モーヴピンク)では、顔がぼんやりして参りました。 もう少し発色の良いこちら(イノセントローズ)の方が、49歳の顔に似合いました。 **************************************** あの時に「ミニマルライフ」に開眼できていたなら、と 少し悔しく思います。 買うことを一旦やめて。 似合わなくなったものを全て手放してみたらよかった。 どんどん次々と休みなく買うくせに、ちまちまとしか手放さないから、 ワードーローブの様子はますますまとまりがなく、買えば買うほど錯乱してゆくばかり。 ミニマルライフに目覚めるどころか、どんどん盲目的になってしまって、 自分を見つめることを全くせず、その代わり雑誌やインスタばかりを食い入るように見漁って、 もう本当にわからなくなって、ついには「ミニスカート」とか買っちゃいましたよ(泣) エプロンに合わせるのは 白いブラウスが好き! 漂白できる「白」は、意外と料理向き。 **************************************** 散財は、どんな散財でも悲しいものですけれど。 あの時の散財が、一番悲しいわ。 買っても、買っても、似合わない。 それでも買うことをやめられなくて・・・諦められなくて・・・ バカみたいな話なんですけれど、ものすごくツラかったのです。 そこから「3年」が経って。 44歳になって。 44歳の、あの夏に。 初めてがっつりと捨てた。 今の自分に似合わない服を、1枚残らず、捨てました。 ************************************** 今、49歳ですけれど。 もっと早くに気づいていたならなぁ、と、やっぱり思うことはありますけれど。 気づかないまま行っちゃったらどんなことになってしまっていたのか、と想像すれば、 気づけたことは、とにかく良かった、のです。 「良かった」しかない。 それはないわ、というような、今の自分とずれた、大きくかけ離れた服を、 似合うと信じたまま、ずっとずっと選び続け、自信なく着続けてしまっていたかもしれない。 サンドイッチのパンは、ハード系が好き! はさむのはローストビーフが好き! *************************************** すごく余計なお世話なんですけれど。 「服を買いました!」というフレーズにつられて、どなたかのSNSにお邪魔して、 「あああ。この方なんでこれ買っちゃったかな。これはきっとすぐにいらなくなるぞ。」とか。 「この方のスタイルだったら、もっと細めのパンツの方が絶対に似合うのに〜!」とか。 そういうのが、 ほんと余計なお世話で自分でも嫌になっちゃうんですけれど、 客観的には、とても冷静に分かることがあるんですよね。 自分のことだと、これが、わからない。 「欲しい」とか「素敵!」とか「着てみたい!」という物欲の気持ちの方が、勝ってしまう。 そういう時期がありました。 わたしは、その「闇トンネル」が、長かったと思う。 しつこくしつこく 休みなく買い続けてしまいましたから。 もう無理。駄目だ! 全くわからない! これ以上買うのは、だから一旦ストップだ!!! そういう考え方や情報が、当時にだってちゃんと何処かには存在していたのでしょうけれど、 服やバッグや靴ばっかり探してる愚かなわたしの目、ですからね。 そんな有益情報、見つけられる由も無い 。・゜・(ノД`)・゜・。 ニットは、袖口のリブの長いデザインが好き! 腕が長ーく見えるのです(笑) **************************************** わたし、ずっと昔に、 着ているもので、その人の表情や振る舞い、ひいては「所属するコミュニティ」さえも 変わってくることがある、と 日々感じていたことを どうしても書きたくて、 着ているものに、その人の顔の造作や雰囲気が寄って行く、 服にはその人の「生き方」や「人生観」が表わされている、という趣旨のことを書きたくて、 「ユニクロ顔」とか「しまむら顔」とか、そういうことを書いてしまって (その日記 → ★ ) 「プチプラ好きな人をバカにしてるのか!」「失礼すぎる!!」と、 ものすごく反感とお怒りを買ってしまった過去があるんですけれど、 いまだに恨まれているような節もある、いわば「暗黒歴史」でもあるんですけれど、 あの日記は。 それ以上に、実は「共感」 の お声を。 「ほんとそう!」「それ、私もなんとなくずっと思ってた!」という共感のお気持ちの反応を たくさん、たくさん、ものすごくたくさんいただけた日記でもありました。 あの発言を撤回するつもりは、だからわたしにはないですし、今も変わらず そう思っています。 選ぶ服が変わると、人は、変わる。 自分自身の気持ちはもちろん、 「周りからの扱われ方」や「出会う人」、「起こること」、「未来」さえも、変わる。 自分の着ているものなんて誰も見てなどいないさ、と思う一方で、 誰かと知り合う時、初対面のその人との関係性を「もう一歩」進めてみたい、と思う時、 わたしたちは相手の「服」を 必ず見ています。 この人と仲良くなれそうかな? お話や趣味は合いそうかな? 価値観は合いそうかな? どんなものが好きな人かな? どんな暮らしが好きな人なのかな? いちいち尋ね合わなくとも。 それらが1秒でわかってしまうくらいのパワーを、服は、秘めている。 服は「口ほどに雄弁」です。 服は、会話が始まるその以前からすでに始まっている、 とても大切な「視覚的コミュニケーション」なのです。 最強の武器になることがある。 大きく損をしたり、せっかくのチャンスを掴みそこねる羽目になることもある。 最後! 名古屋市内のDEAN&DELUCAの中では「名城公園店」が一番好き! 公園が好き! ベーカリーとカフェがメイン。豊富なデリ類の扱いはないけれど「静か」で、好きなのです。 *************************************** 今、9着の服で暮らしてみて。 もう何年も「少ない服」で暮らしてみて、 これがわたしにとっては もはや「ふつうのこと」になっているんですけれど、 こんな世界があったんだ、という驚きは・・・ いまもなお どこか「新鮮」なのです。 少ない服ががらーんと美しく掛かったラックを見るたび・・・ 嬉しいのです。 いまだに、嬉しい。 毎日、嬉しい。 これからも、きっと嬉しい。 「買ってきたけれど、なんか違った」という悲しい失敗が、本当に少なくなりました。 上手に選ぶことのできたシーズンであれば、もはや「ゼロ」なのです。 信じられない。 これはね。本当に、嬉しいこと。 ずっとできなかったことが、ようやく出来るようになったのですから。 お子が初めて自転車に乗れた瞬間の心の震えを、いまだにはっきりと覚えているんですけれど、 人間の喜びの本質って、全ての事柄において、そういうことなのかもしれません。 何かを買ってもらったー!とか、なんか得したー!楽できたー!とかそういうことではなくて、 昨日までできなかったことが出来るようになる。 ということ。 この喜びは。 4歳でも、5歳でも、35歳でも、38歳でも、45歳でも・・・ 今の49歳でも。 そしてこの先 何歳のわたしになっても。 自分が諦めてしまわない限り、人生の最後の最後の日まで感じることのできる、 自分で挑戦することのできる、 決して誰にも奪うことのできない「成長の喜び」なんでしょうね ( ´▽`)ノ おわり 今日の日記は、またこんな小憎たらしいこと書いてしまって、 どなたさまからもご賛同はいただけないだろう、と覚悟の上で、一生懸命 書きました。 ↓「黒歴史」をわざわざ自分で掘り返してしまったすずひに、ポチッと本当にありがとう。 にほんブログ村 わたしがブログを好きなのは、多くの賛同を得られないだろうことを、正直に書けるところ。 いい人であらなければ、という八方美人を捨て、どこまでもわたしらしくあろうとできるところ。 そんな日記を。 今日も最後まで、こうしてお読みくださって。 ずっとずっと読者さまでいてくださって・・・本当に、ありがとうございます。 すずひ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.03.17 15:41:18
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