「至福至誠」の情を閉ざす者
「至福至誠」の情を閉ざす者心理療法家「まどか研究所」主宰 原田 広美 前回は、『明暗』で、主人公の津田とは経済格差のある小林と、また津田が湯治場に清子を訪ねる前日に延が、津田に示した「至福至誠」の情について述べた。「ただ愛して愛させてみせる」と豪語する延は、津田の吉川夫人に対する癒着と保身に対して、最も前向きに対抗しようとする勢力でもある。延は、偽りのない下手に出て」涙」をこぼして津田の愛を求めた。それにより、津田は初めて延に勝たせてもらい、延を慰撫することができた。そして、それは延にとっても、「夫婦間の勝ち負け」を越えて、初めて「安心できる自然」を感じ得る体験となった。漱石は「至福至誠」の情を『明暗』で初めて扱ったが、それは弟子の森田草平が翻訳したドストエフスキーからの影響である。その文脈では、貧しい者ほど「至福至誠」の情に近く、裕福な者ほど愛や「至福至誠」の情から遠いとされる。『明暗』でも、裕福な実業家の夫を持つ清子、吉川夫人、津田の妹の秀は、夫婦の愛からは遠かった。それで吉川夫人や秀は、津田と延の夫婦間に、水を差した。漱石自身、「至福至誠」の情を開くことは苦手だったわけで、『三四郎』「それから」『門』『彼岸過迄』『行人』『心』と振り返っても、それが得意な主人公は、どこにもいない。だが『明暗』では、裕福に育った延が、小林の影響を得ながらではあるものの、「至福至誠」の情を開いたことを考えても、貧窮に喘ぐものばかりが、「至福至誠」の情に開かれていると捉えるのは、性急だろう。つまり一概に「豊かなものが、それを維持するために保身に走る傾向はない」とは言えないまでも、漱石が「至福至誠」の情を閉ざしがちであった理由には、やはり第一に「実父からの抑圧」を考えるべきである。『それから』の代助、『彼岸過迄』の市蔵、『行人』の一郎などの場合も、成育歴の中に、感情を抑圧した理由や敬意を読み取ることができた。ただし、感情の抑圧を経済的な格差だけに結びつけて考えるのは無理であっても、その視点が、『明暗』という作品の質を著しく高めたことに間違いないと思われる。 【夏目漱石 夢、トラウマ‐32‐】公明新聞2023.2.10