【森の中を歩くように僕は本を読む】
高校時代は「本の虫」と言われるほど、次から次に濫読を繰り返した。
年間百冊を越えたこともあったが、そのジャンルも、ニーチェにフロイト、松本清張に星新一、司馬遼太郎に吉川英治、夏目漱石に三島由紀夫…と多岐に渡る。
それらの大半は学校の図書室や町の図書館で借りたもので、時々本屋に出入りしてはささやかながら自分の小遣いで気に入ったものを買って読んだ。
電車の中で読み、公園のベンチで読み、河辺の堤防に腰を下ろして読み、はてはまたトイレで読んだ。
今思えば、あれだけ活字に触れておきながらよく目を悪くしなかったものだ。ありがたいことに2.0の視力は今もまだ衰えていない。
安上がりな趣味と言われれば実際そうかも知れないが、読書にはそれ以上に様々な魅力が秘められていると思う。
探偵になって殺人犯を見つけたり、王子様になって美しいお姫様と結婚したりすることは、自分の身には実際起こりえないことだけれど、物語の世界ではそれが可能なのだ。
イマジネーションを膨らませれば、僕たちは南極探検にだって行けるし、スペースシャトルで宇宙旅行もできる。
ありふれた日常を非凡なものにするために、活字を目で追いながら、僕たちはしばし現実逃避の旅に出る。
図書館という場所は僕にとって「森」のような存在だった。
うっそうと茂った木々のように、本はずっとそこにあって僕が現れるのを待っている。
そこではいろんな知識が眠り、誰かがページをめくればいつでも物語の始まりを知ることができる。
図書館の静寂に包まれたあの独特の雰囲気が僕は好きだ。
書架と書架の間を走る、人一人がやっと通れる幅の通路に僕は立ち、年代ものの辞典が放つクラシカルな匂いもかぐわしく、気まぐれに取り出した一冊の本を手に取ってみる。
森の中をさまよい歩きながら無作為に選んだ一本の大木に触れるように、何か運命的な出逢いを感じる瞬間、あるいはこれは単に僕の「デ・ジャヴ(既視感)」なのだろうか。
ページをめくるたび、そこには未知の世界が広がっている。
そのような世界に通じる扉をひとつずつ開いていく行為は、僕にとって何よりも贅沢であった。
街の図書館であれ、学校の図書室であれ、僕はこのささやかな贅沢を自分なりに満喫していたものだ。
本を借りるということをしなくなったのは、やはり仕事をするようになってからだろう。
借りてきた本がすごく面白いものであったり、感動するような素晴らしい作品であった時に、その感動までが借り物だというふうに思いたくなかったから、たいていの本は自分の手元に置いておくために、いつしか本屋で買うという習慣がついてしまった。
今は昔ほど濫読するということはない。
ただやみくもに本屋に行っては、目に付く本を買いあさり、
それらが自分の部屋の机に積み重ねられているのを眺めているだけである。
時々僕は、あれらの森のことを考える。
森は深く、木々の一本一本がいつも僕に何かを語りかけていた。
僕はそんな森の中を歩くように本を読むのだ。