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ジージの南からの便り

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2022.05.04
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カテゴリ:島津一族


 上の写真は2022年5月2日の南日本新聞に掲載された歴史作家・桐野作人氏の「かごしま街道見聞記」
高岡筋㉓ 霧島市 「国分様」亀寿の決断 である。
よほど目に自信がある人でないと読めないような小さな文字であるが、最近目がチョボチョボする私でも画面に近づくと何とか読めるので、興味のある方は読んでほしい。

 記事の内容は次のようなものだ。
戦国、織豊時代に生きた島津亀寿(かめじゅ)という女性がいたが、太守・島津義久の三女であった。
従兄弟の島津久保(ひさやす)(義弘の嫡男)と結婚して「御上様」と呼ばれ、父・義久の死後、国分舞鶴城に移ってからは「国分様」とか「国分之御上様」と呼ばれた。義久には男子がなく3人の娘しかいなかった。そのため家督問題が混乱した。長女御平、二女新城が分家に嫁ぐと三女亀寿の婿が次期家督の候補になった。そういう経緯での久保との縁組であったが、久保は朝鮮の役で出征中に病死してしまう。次には豊臣秀吉の命で久保の弟・家久(当時、忠恒)と縁組する。しかし不仲で二人の間に子供はできなかった。家久が家督を確実なものにするためには亀寿との間に男子をもうけることだった。父義久は家久への不信を強め、一時期、垂水家に嫁いだ二女新城の息子・忠仍(ただなお)(のち信久)を新たな家督候補にしたこともあった。慶長16年(1611)1月、義久が国分舞鶴城で逝去すると、看病にかけつけていた亀寿はそのまま国分に居残り、夫・家久と別居する。そして夫妻は決裂同然となる。
一方の家久は義久の権威や束縛から解き放たれる道を探り、大御所・徳川家康を頼った。家久は妻・亀寿が40歳になり、もはや子をなせないので、家康に将軍秀忠の二男・国松(のち忠長)を養子に迎えたいと申し出た。家康はそれを断り、側室を迎えればよいと助言した。
家久は亀寿の実子を期待する義久の手前、側室を持たずにいたが、家康のお墨付きを得て、一挙に3人の側室を迎えた。それぞれ島津忠清(薩州家)、鎌田政重、相良閑栖の娘である。
その一人、忠清の娘は亀寿の上の姉・御平の孫で、かつ義久の曾孫(ひまご)にあたる。慶長17年(1612)大叔母の亀寿はこの娘を国分の呼んで、その人となりを観察した。気に入った彼女(のち慶安夫人)を家久の側室にする決断をする。その後、彼女は元和2年(1616)虎寿丸を生む。後の19代当主で2代藩主・光久である。亀寿は虎寿丸を養子とし、自分の知行一万石と義久から預かっていた家宝を与えた。義久の血筋が島津家当主に受け継がれたことで、実子ではなかったが亀寿は満足したのではなかろうか。
                            記事の内容概略は以上である。

 上の記事を読んで思うことは、次のようなことである。                     島津家の子女で、第25代当主で第8代藩主の重豪の三女・広大院(茂姫)は、一橋徳川家の次期藩主・徳川家斉と婚約し、徳川家一門と縁組をすることで、徳川家と関係を深めた。その家斉は天明元年(1781)に第10代将軍・徳川家治の世継ぎに迎えられ、天明7年(1787)には第11代将軍に就任した。そういうことから広大院は、図らずも将軍の御台所となる。
NHK大河ドラマ「篤姫」で世間に知られるようになった天璋院篤姫もそうである。第13代将軍・徳川家定の御台所となり波乱の中にもその任を全うした。
しかし、私が知る島津家の子女の中で最も波乱にとんだ人生をおくったのは、「亀寿」ではなかったかと思う。記事にあるように義久の三女として生まれ、姉二人が先に嫁いだため家督相続のために縁組した従兄弟の久保に死なれ、その弟・家久(当時・忠恒)と再婚する。しかし、それもうまくいかず、別居。
それでも父・義久の血筋を本家として残すために頭をめぐらし、それを成功させる。

 次に島津家の側室問題である。
そもそも島津家は「側室はNG!」だったという。家久以前、亀寿の曽祖父の日新公(じっしんこう)だけは例外で、薩州家重久の娘・御東を正室に迎え2男3女をなしたが、一人の側室・上本貞時の娘(大仁、桑御前? )が1男1女を生んでいる。
義久、義弘も再婚はしているが、側室の影はないという。
家久(忠恒)は徳川家康からお墨付きをもらって以来、堰を切った様に7人とも8人ともいわれる側室を持ち継室となった慶安夫人と側室の間に33人の子供をなしている。
また後の重豪も妻妾との間に男13人、女13人、合計26人の子供をなして89歳まで生きて元気であった。

 下の写真は鹿児島市立美術館の庭園にある亀寿の石像である。市民から「持明院様」(じめさあ)と呼ばれ親しまれているが、昭和4年(1929)当時市役所の敷地であったこの場所で発見されたという。
この「かごしま街道見聞記」の作者、桐野作人氏は、現在の清水中学校のある稲荷町にあった大乗院跡にあった「白地蔵」ではないかと言っている。その白に因んで現在も年一回、市役所の女子職員によって写真のように化粧が施されている。   (写真は2022年3月撮影)

 参考資料  南日本新聞
       歴史人 「薩摩島津家 最強の真実」
       「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」  川口 素生著    他    





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Last updated  2022.05.04 17:38:03
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