島津家久 急死の謎
10月14日(月)「島津4兄弟の末弟 島津家久の実像に迫る!!」の講演会が開催された。場所は鹿児島市伊敷公民館で主催は「伊敷歴史研究会」。 日頃から、毎月講座開催など活発に動いておられる。今回の講師は永吉島津家発祥の地・日置市吹上町永吉の「永吉南郷会」前会長で現在顧問で「語り部」としてご活躍中の 本田哲郎氏。 1、島津本宗家と永吉島津家の歴史概説 2、島津家久の生涯 3、島津家久の戦いの数々 4、関連事項のまとめ 島津家久は上の写真の系図にもあるように、祖父を忠良(日新)、父を貴久とする島津4兄弟の末弟で兄の義久、義弘、歳久がいる。その辺りのことについては、以前書いたブログ2016年4月4日「日置市吹上町永吉の梅天寺跡を訪ねる」をクリックいただければ。ご覧になれます。 本田氏の講演は上記項目を更に細かく分けて史料も13ページのものにわたる詳細なものだった。当ブログでは、今回本田氏が講演のメインと言われていた家久の謎の死についての部分を書いてみる。 山本博文著「島津義弘の賭け」に当時の情勢を次のように書いてある。島津兄弟が九州制覇を目前にしていた天正15年(1587)正月元日、大阪城の秀吉は、四国攻めに引きつづいて決定された九州遠征の部署を定め、正月25日より宇喜多秀家一万五千人以下総勢二十五万人を順次出発させていた。(引用ここまで) 迎え討つ島津軍の兵力は2万人から5万人である。両軍最後の戦いとなった天正15年(1587)4月17日の根白坂の戦いにおいては、豊臣秀吉軍15万人、島津義久軍3万5千人という戦いで、島津軍は秀吉軍の軍門に下るのである。 ここからは、本田氏の講演の概要である。島津家久は最後の根白坂の戦いに島津軍が敗退して、幾多の戦いから解放された。そして久しぶりに佐土原に帰って、安息のときを迎えていた。豊臣側からの指示・説得により、今までの領地・民の安堵、自身の上洛、それなりの扶持を受けること、さらに今後は豊臣の指示による扱い(豊臣大名)を承認することなどの条件を自分自身の判断で行い、豊臣側に恭順を示した。佐土原に来ていた秀長(秀吉の弟)もこれを良とし、秀吉の了解の上で夕食会が開かれた。家久が恭順を示したことで、秀長に付いて上洛することは、豊臣側から見れば家久を歓迎する意味での夕食会であった。 その夕食会が終わって、家久は激しい腹痛を覚え、嘔吐と腹痛が続いた揚げ句翌日の天正15年6月5日急死してしまう。これまで歴戦の士であり、強健な家久の急死に息子の豊久はじめ周囲から急死に対して疑念が沸き起こった。島津3兄弟などにもすぐに知らされたが義弘からは豊久宛の手紙が届き「今は島津の中で騒ぐ時ではない、冷静に対処して病死として扱いなさい」との叔父としての忠告が書かれていた。豊久はこれに従い領内でもそのように正式に発表した。 死因については、現在でも歴史学者、小説家、歴史愛好家などの間でさまざまな見方がある。しかし、「家久の死」についての定説はない。今回、本田氏は講演に臨むにあたって「島津家久の考えられる死因」を A、食中毒による死亡説 B, 病死説 C, 豊臣方からの毒殺説 D, 島津側からの毒殺説 E, 不明説 の5つに分類し、それぞれの学者や小説家などの説を15に分類されている。 そして、「敢えて自分が採るとする『説』は次の通りである。皆様のご批判を仰ぎたい」として、「島津側からの毒殺説」を採られた。 島津本宗家から見れば、島津家の三州統一から九州制覇に向けての戦略・戦術はもとより、島津家家中を挙げての協力とお館様(義久)の承認と理解の上に立って、その方針や生き様を模索してきた経緯がある。その「島津家の掟」とも言える「島津家としての教え」を今回は家久が義久や義弘への相談もなく独断で豊臣の軍門に下ったことことは兄たちの「怒りと狼狽」には計り知れないものがあったと思われる。つまり、兄たちの我慢の限界を超えたための行動だったと本田氏は言う。 私は本田氏が今回取り上げられた15の分類のうちの幾つしか読んでいないが、私自身もこれからの大きなテーマの一つとして取り組んでいきたい。果たして自説を披瀝できる日が来るだろうか。