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ジージの南からの便り

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島津一族

2020.10.06
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カテゴリ:島津一族


 写真は鹿児島県伊佐市にある新納忠元の墓 右の墓標が忠元 左は妻 (ネットとより借用)

新納忠元 大永6年(1526)~慶長15年(1610) 薩摩大口、肥後御船地頭

 永禄3年(1560)島津本宗家第15代当主・島津貴久(四兄弟の父)の使者となって幕府から復命する。永禄11年(1568)の馬越城攻略戦では貴久の父・忠良から島津家4人衆のひとりに挙げられるほど活躍した。義久・義弘の重臣を務める。

 天正12年(1580)沖田畷(おきたなわて)の戦いで奮戦。天正14年(1586)長宗我部元親軍を戸次川(へつぎがわ)で破った。この合戦で戦死した元親の嫡男・信親の遺骸を受け取りに来た使者に対し、落涙して「信親殿と知っておれば討ちはしなかったものを」と言って遺骸を送り届けたという。
天正15年(1587)、本格的に島津征伐に乗り出した豊臣秀吉への抵抗を叫び、大隅曽木に布陣した秀吉に対し大口地頭として最後まで防戦準備を進めたが、義久・義弘から止められ、更に義弘が豊臣家に降伏したためやむなく自らも秀吉の軍門に降った。
慶長15年(1610)義久・義弘らに惜しまれながら、地頭を務めていた大口で死去。

 なお、伊佐市大口市には忠元公園という日本の「さくら名所100選」に選ばれた桜の名所がある。
明治41年、忠元公300年記念事業として整備された忠元神社から諏訪馬場に通じる桜の道路公園が始まりといわれる。今年こそコロナ禍で中止されたが、毎年盛大な桜まつりが開かれている。
私も義兄が当地の銀行支店に勤務中に2回訪れたが人出の多さに驚いた記憶がある。






Last updated  2020.10.06 11:09:39
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2020.06.28
カテゴリ:島津一族

 写真は伊集院忠棟が一時居城とした「都之城」 (ネットから拝借)

島津義弘没後400年に寄せて

  伊集院忠棟(幸侃)  生年不詳~慶長4年(1599)
 
織豊時代の伊集院氏分家の当主で伊集院忠倉(ただあお)の子。
若くして義久に仕え、永禄9年(1566)義久が第16代当主になると同時に老中に抜擢される。
天正10年(1582)からは肥後や筑前の平定作戦に従事し。天正11年(1583)から天正12年には、肥後の阿蘇氏の討伐にも参加し実績をあげた。各地の地頭を務めたあと、天正15年(1587)豊臣秀吉の九州侵攻の際には徐々に悪化する状況を見て降伏を主張した。

 この年、島津軍が日向根白坂(宮崎県木城町)の戦いで豊臣秀長(秀吉の弟)に敗れると、これを契機に降伏やむなしとなったため、自ら人質となって高野山の木食上人(もくじきしょうにん)の預かり人となって京に運動して降伏に尽力する。義久とともに出家し幸侃と名乗るようになる。

 これらの行動が秀吉に認められ、有力大名の力を削ぐ秀吉の方針により、多大な力を持つと、文禄4年(1595)には庄内に8万石を与えられて義久や義弘と同じくらいの大領主となった。しかし、秀吉の死後の慶長4年(1599)かねてからこれらの忠棟の行為を快く思っていなかった島津忠恒(家久)(義弘の息子であり、義久の娘婿でもあった)に茶の湯と称して伏見の屋敷に呼び出され、忠恒によって手打ちにされた。忠棟は懇意の石田三成と共謀して島津家に代わり薩摩・大隅・日向3ヵ国の守護の地位を得ようと企んだのではとも伝わっている。

 父・忠棟の殺害を受けて、息子・伊集院忠真(ただざね)が庄内の乱を引き起こすのである。

 参考資料  「島津一族」       川口素生著 新紀元社
       「島津家 最強の真実」  KKベストセラーズ
       「島津義弘の賭け」    山本博文著 中公文庫






Last updated  2020.06.28 19:49:34
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2020.06.25
カテゴリ:島津一族

 新納旅庵の墓 鹿児島県姶良市 願成寺墓地(がんじょうじぼち) 島津義弘の足跡をたどるに掲載

 島津義弘没後400年に寄せて

新納旅庵   天文22年(1553)~慶長7年(1602)

 名は長住、号は休閑齋。
肥後八代荘厳寺の住職であったが、島津義久の命で兄が還俗するように説得するが、断り続ける。やっと説得に応じ還俗し、義久から義弘の家老として付けられて、その後、帖佐館造営の現場監督を任されている。

 朝鮮での「文禄の役」や「関ヶ原合戦」で功績を上げ高原・栗野・市来の地頭職を務めた。
「関ヶ原合戦」では手勢を引き連れて義弘のもとに駆けつけた。戦利あらず退却したが、途中で義弘一行とはぐれ鞍馬山に隠れているところを捕らえられ東軍の捕虜となった。この時の捕り方が旧知の山口直友であったため不思議なめぐり合わせだということで降伏したという。この山口直友は、徳川家康の旗本であり、慶長4年(1599)の庄内の乱で忠恒と伊集院忠真との関係修復に奔走した人物であり、その関係で旅庵もよく見知っていたのだ。大阪に連行され旅庵の赦免を、義弘はやむなく家康に敵対したのだと家康に嘆願してくれた。

 翌年には家康の使者とともに薩摩へ赴き、以後上方との間を何度も往復して島津家の保全のために尽力した。慶長7年(1602)大阪にて50歳で死去。
忠恒が上洛し、島津家が本領を安堵されたのを見届けた直後の死であった。

 参考資料  「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会編
       「島津義弘の足跡をたどる」        姶良市歴史民俗資料館編
       「薩摩島津家 最強の真実」        KKベストセラーズ






Last updated  2020.06.25 18:31:56
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2020.06.23
カテゴリ:島津一族


 長寿院盛淳墓標 岐阜県大垣市上石津町 琳光寺 (写真はネットより借用)

島津義弘没後400年に寄せて

   長寿院盛淳 天文17年(1548)~慶長5年9月15日(1600年10月21日)

 畠山頼国の子として誕生。父・頼国が薩摩半島坊津に移り住みできた子だという。
盛淳は当初大乗院で仏門に入り、大乗院盛久法印の弟子となった。その後、根来寺で8年間、高野山で3年間修行したが安養院住持になって鹿児島に戻ると、還俗し奏者に抜擢される。
蒲生地頭。島津氏の九州統一で活躍をみせたが、天正14年(1586)義久の命により秀吉への使者を務めた。その後、秀吉の九州の征伐で島津氏の旗色が悪くなると和睦を主張した。
天正16年(1588)頃には義久の家老となり、石田三成と連絡をとりながら豊臣政権下の大名・島津家を安定させるべく手を尽くした。

 盛淳は筆頭老中であった伊集院忠棟(幸侃)とともに太閤検地に立ち会い、三成と相談しつつ家臣団の知行配分に携わった。こんため減知や所替えを命じられた多くの家臣たちの激しい敵意の矢面に立ち国人層からは怨嗟の対象となった。盛淳は穏健派で忠棟は急進派であったため、二人の関係は悪化し義久も心配するほどだった。

 後に義弘の家老となるが、文禄2年(1593)には朝鮮出役の義弘から留守中の仕置について細かく指示を受けている。
 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦では、義弘の兄・義久が中央の動きにできるだけ関与するまいという意向を示していて、義弘の元に駆けつける軍勢は少なかった。義弘の子・忠恒(家久)は岳父義久の意向に逆らうことはできず、上洛することはできなかった。
そういう中でも、義弘の要請に応じて薩摩勢が三々五々到着した。

9月7日の忠恒宛義弘書状によれば、前々日に薩摩から駆けつけた人数は、富隈方(義久)が45人、鹿児島方(忠恒)が22人、帖佐方を合わせて都合287人であった。
義弘の家老で蒲生地頭の長寿院盛淳が蒲生衆・帖佐衆70人を率いて到着したのは、義弘が大垣にいる9月30日のことであった。

 長寿院の到着を知った義弘は、陣の外まで出てきて、「長寿か、一番目に到着するのは其の方と思っていた。予想通りだ」と盛淳の手をとり、大喜びであった。(井上主膳覚書)石田三成も喜んで盛淳に軍配と団扇を贈った。(新納忠元勲功記)
その厚誼に感激した盛淳は合戦当日義弘の身代わりとなって「島津兵庫頭(義弘) 死に狂いなり!」と群がる敵勢に大音声で名乗りをあげ、義弘の身代わりとなって戦死を遂げたのである。

 参考資料  「島津義弘の賭け」   山本 博文著  中公文庫
       「wikipedia」
       「薩摩島津家 最強の真実」  KKベストセラーズ







Last updated  2020.06.24 05:49:32
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2020.06.19
カテゴリ:島津一族

 上は島津忠長の眠るさつま町宮之城の宗功寺跡墓地(2014年2月撮影)

島津義弘没後400年に寄せて

 島津忠長  天文20年(1551)~慶長15年(1610)
  祖父は島津忠良(日新公)で父は宮之城島津家初代・尚久。島津家15代当主・貴久は日新公の長男なので忠長の叔父にあたる。有名な義久、義弘、歳久、家久の四兄弟とは従兄弟同志。

 忠長は、天正元年(1573)大隅国のでの肝属兼亮(かねあき)との戦いでは、南薩摩の兵を率いて攻めてくる敵を側面から迎撃してこれを破った。翌年の大隅牛根城攻めでも落城させた。
天正11年(1583)10月、島津の分家としてはただひとり義久、義弘を補佐する老中に任じられ天正15年(1587)まで務めている。

 天正14年(1586)には筑前の進出した豊後の戦国大名・大友宗麟が守る太宰府の岩屋城を陥れ、宗麟の有力武将の高橋紹運を討ち取った。
しかし、このあと、大友宗麟の援軍要請に応じて九州制覇を目指した豊臣秀吉に屈した島津義久は剃髪し川内泰平寺で秀吉と和睦する。

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後の慶長7年(1602)島津家の使者として徳川家康に拝謁し、関ヶ原の戦いにおいては、やむを得ず豊臣方に加担したことを強調する。忠長の言葉が効果的だったのか、家康は島津家の領地を安堵した。

 参考資料  「薩摩島津家 最強の真実」        KKベストセラーズ
       「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」   川口素生  新紀元社 ほか






Last updated  2020.06.19 17:03:34
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2020.06.11
カテゴリ:島津一族
島津義弘没後400年に寄せて

 永禄9年(1566)~文禄2年(1593)

 島津本宗家に反抗し続けた薩州家最後の将・島津忠辰(ただとき)は戦国時代~安土桃山時代にかけての武将で薩州家7代(最後)当主。母は義久の長女。すなわち貴久の孫である。

 父・義虎のあと薩州家の家督を継いで薩摩出水亀ヶ城を居城とし約32000石の領主となる。
天正15年(1587)4月19日豊臣秀吉は肥後八代まで兵を進めていた。島津忠辰は肥後国の高田(こうだ・現在の肥後高田駅周辺)の守備を任せられたが、肥前国島原の有馬晴信の裏切りにより、27日には抵抗も見せず本領の出水に引き揚げた。5月3日豊臣秀吉は泰平寺に入り、ここで剃髪した龍伯(義久)が秀吉に拝謁し、正式に軍門に下ったのだった。ここに島津氏の九州制覇の夢は終わったのである。文禄2年(1593)朝鮮出兵の文禄の役にも従ったが、義弘の配下としての出陣に難色を示したが、やむを得ず朝鮮半島に渡った。しかし、仮病を言い立てて上陸しなかった。この行動が秀吉の怒りをかい、同年5月1日、肥後宇土城主の小西行長に身柄を預けられ幽閉された上で改易(お取り潰し)を申し渡された。忠辰の領地は豊臣直轄領とされ細川幽斎と石田三成が代官となった。その後、小西行長の陣所に預けられ朝鮮の加徳島で病死したという。 享年28歳

 弟の島津忠隣(たたちか)、忠清、入来院重高(頴娃久秀)らが他家を継いだため、島津用久(もちひさ)に始まる薩州家は断絶してしまう。
 系図の写真は南日本新聞から借用した

 参考資料     「薩摩島津家 最強の真実」   KKベストセラーズ
           wikipedia 「島津忠辰」
          「島津一族」          川口素生
          「南日本新聞」






Last updated  2020.06.11 21:18:25
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2020.05.22
カテゴリ:島津一族


 島津義弘没後400年に寄せて

亀寿 元亀2年(1571)~寛永7年(1630)

 島津義久の三女で島津久保(島津義弘の二男)の正室だったが久保が第一次朝鮮戦役(文禄の役)の途中病没したため、その弟の忠恒(家久)(義弘の三男)(島津家第18代当主で薩摩藩初代藩主)の正室となる。いずれも従弟妹同志の結婚であった。久保と亀寿、忠恒と亀寿の縁組は、義久と義弘の兄弟間での家督争いに終止符を打つためのものであったろう。
久保とは仲睦まじい夫婦であったという。しかし、忠恒(家久)とは仲が悪く、二人の間に実子は生まれなかった。


 のちに亀寿は天下を獲った豊臣秀吉の人質として大阪城下の島津邸に住んでいたが、関ヶ原の合戦後、義弘の大阪からの撤退に呼応し大阪から逃げ出すことができた。

 なお亀寿には美貌に恵まれていなかったという説もあり、真偽不明の話が残されている。
現在、鹿児島市立美術館の前庭に持明院(じみょういん)様とよばれる柔和な顔立ちの石像がある。(一番上の写真) 「じめさあ」は年に一回、亀寿の命日である10月5日に化粧直しが行われている。

 下の写真は福昌寺跡墓地にある亀寿の墓標。「持明彭想庵主」とある。



 参考資料   wikipedia 亀寿
       「島津一族」    川口素生著
       「薩摩島津家 最強の真実」  KKベストセラーズ






Last updated  2020.05.22 16:40:19
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2020.05.19
カテゴリ:島津一族



 ブロ友・本〇どんは鹿児島県日置市の吹上町永吉地区にある「永吉南郷会」の会長を歴任されて、現在も「永吉島津家」の墓地・天昌寺などを守りながら「語り部」としてご活躍中である。
(これらのことは、当ブログにも過去書いたとおりである)

 その永吉島津家は永吉郷(現在の日置市吹上町永吉)を領した分家で初代家久(島津四兄弟の末弟で中務大舗)、二代豊久と繋いできた。

 天正7年(1579)家久は耳川の戦いで戦功があり長兄の義久から日向国守護代として佐土原城を任される。その後、家久は「釣り野伏せ」と呼ばれる高等な戦術で天正12年(1584)沖田畷の合戦で肥前の戦国大名龍造寺隆信を、その2年後の天正14年には戸次川の合戦で土佐の長宗我部信親、讃岐の十河存保を討ち取った。
二代豊久も優れた武将で初陣の沖田畷の合戦以来数々の合戦に参戦した。父家久の死後は豊臣秀吉により佐渡原三万石を与えられ、その後の小田原征伐や朝鮮出兵、さらに庄内の乱にも参加した。
合戦に次ぐ合戦であった豊久の最後は関ヶ原の合戦であった。「島津の退き口」と呼ばれる退却戦で叔父・義弘の身代わりとなって討ち死にしたのである。結果守られた義弘は薩摩へ帰還できた。

 豊久亡き後の居城・佐渡原城は徳川幕府に没収され遺臣となった佐渡原城下士は、藩の落ち着き先として薩摩の永吉に入り、後に3代忠栄(ただひで)以降永吉島津家として認めらるのである。
永吉に入る途中、宮崎県小林市の温水地区などに住み着く家臣、家族があった。
この温水地区には約120家族が「永吉島津家飛び地」として400年近く居住し、後に佐土原にもあった「提村」と称して「提共志会」が組織され小学校なども設立され、幾多の人材も輩出した。

 下の石碑は明治32年に関ヶ原合戦300年を記念して地元の提村の方々によって建立されたものだ。



 今回、昨年の島津義弘没後400年であったこともあり、上記 永吉南郷会の本〇どんが中心となり、「小林提地区との所縁(ゆかり)」を永く地区民の方々の記憶に留めていただくため、小林市と交渉、小林市もこれを快く受け入れられて、案内板の設置に至ったとのことである。
歴史ファンとして大変嬉しいことである。小林市と永吉南郷会の永遠の絆を願う。



 参考資料  「鹿児島古寺巡礼」  川田達也著
       上記案内版など
       3枚の写真は本〇どんよりいただいたものです。







Last updated  2020.05.20 09:27:42
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2020.05.10
カテゴリ:島津一族
島津義久没後400年に寄せて

 猛将・義弘と苦楽をともにした妻・宰相殿(さいしょうどの) 生年不詳~慶長12年(1607)
実窓婦人とも呼ばれる。園田清左衛門の娘で、広瀬助宗の養女、島津義弘の正室。島津久保、島津忠恒(家久)(薩摩守)らの生母。但し、最初の妻は北郷忠孝の娘、その後、人吉(球磨)の相良氏の娘が継室・亀徳となる。


 宰相殿と呼ばれたのは、夫の義弘が参議などの官職に補任されて、参議の唐名(中国名)を宰相ということから周囲に宰相殿と呼ばれたのではないかと言われている。
永禄7年(1564)、北原氏を滅ぼし日向真幸(宮崎市えびの市)の領主となった義弘は、飯野城や加久藤城(二つともえびの市)などの築城、修復を行った。そして宰相殿を加久藤城に住まわせた。
天文元年(1573)にここで二男・久保(文禄の役に出征し韓国唐島で病死)天正4年(1576)三男・忠恒(18代当主、のち家久で初代藩主)などが誕生した。

 加久藤城が元亀3年(1572)に島津氏の宿敵・伊東方からの攻撃を受ける。当時飯野城を守る義弘にはわずか300人の手勢しかなく、加久藤城も50人余り。眼前の伊東氏の軍勢3000人が迫り苦しい戦いとなった。勢力を広げていた伊東し当主・義佑はこの機を逃さず相良氏とも結び、真幸領内の3000人が押し寄せた。木崎原合戦の始まりだった。この戦いで島津軍の奮闘で伊東軍は川内川と池島川に挟まれた近くの木崎原(えびの市池島)まで退いた。この戦いで戦上手の義弘は敵将・伊東新次郎を討ち取るなど、相手は総崩れとなった。宰相殿は天正18年(1590)まで加久藤城に住んで、久保や忠恒(家久)などを育てた。

 宰相殿は義弘との夫婦仲がよく、二人の間では義弘朝鮮への出征時にも手紙が交わされていて、お互いの愛情の深さを窺うことができる。

 関ヶ原の戦いで諸々のいきさつがあって豊臣側についた義弘軍だったが、時に利あらず敗走することになった義弘に大きな課題が残されていた。息子である忠恒(家久)の妻で兄・義久の娘である亀寿が大阪城に人質として残されていたので、それを救出し薩摩に連れ帰ることが、忠恒に家督を継がせる絶対条件と考えていたのだ。人質は亀寿だけではなかった。義弘夫人・宰相殿、義弘の甥・豊久の姉らもそうだった。幸いにして知恵を絞った末に幾多の苦難を乗り越えて薩摩に帰りつくことができた。

 そんな宰相殿は、慶長12年(1607)義弘より先に病没したというが、義弘は芳真軒という寺院を建てて菩提を弔った。遺骸は妙円寺(鹿児島県日置市伊集院)に埋葬されたが、明治維新後に島津家の菩提寺 福昌寺跡に埋葬された。

  参考資料    「島津義弘公の概要」 加治木郷土館編集
          「戦国武将 島津義弘 史跡ガイドブック」 姶良市教育委員会
          「島津義弘 没後400年」  南日本新聞連載記事から
          「島津一族 無敵を誇った南九州の雄」  川口 素生 著






Last updated  2020.05.12 20:29:52
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2020.04.27
カテゴリ:島津一族




島津忠恒(のち家久)第18代島津家当主にして初代薩摩藩藩主・薩摩守
   天正4年(1576)~寛永15年(1638)

 忠恒は島津義弘の三男として誕生する。長男は夭折し、次男・久保が豊臣秀吉の九州征討後に後継者に決定していた。しか、その久保が文禄元年(1592)の朝鮮での「文禄の役」に出陣し、21歳の若さで朝鮮で病没する。そこで次期後継者に躍り出たのが三男・忠恒である。ところがその忠恒はそれまでの忠恒は酒食と蹴鞠に溺れ、放蕩三昧の生活をおくっていたといわれる。そのことで父・義弘からも厳しく叱責されていたような状態だった。そのようなことで、久保の死後の島津本宗家の後継者をめぐる地位は微妙であった。

 久保の義父で島津本宗家第16代・義久には男子はなく三女があり、長女の婿は薩州家島津義虎(忠辰の父)、次女の婿は島津彰久(垂水島津家以久の長男)、三女亀寿(持明院様)の婿が久保だった。亀寿と久保は仲睦まじい夫婦だっという。そういう中での久保の死は義久にとっても大きな痛手となったが、久保の弟で義久の同じく甥に当たる忠恒(家久)を世子に迎えた。亀寿は輿入れしたものの夫婦仲は悪く忠恒との間に子供は生まれなかった。
舅の義久は自分の血統を持つ孫を設けられない忠恒に不満であった。義久には娘の於平(御平)の息子・忠辰(ただとき)(弟は忠清)がおり、新城には島津忠仍(ただなお)などの外孫がいた。義久はこれら外孫を自身、又は亀寿、忠棟夫妻の養子に迎えて、家督を譲ることも考えていたという。迷った挙句、鹿児島神宮で籤を引いて、やっと忠棟に家督を譲ったという。 

 家督を譲られた忠恒はそのような事情で子供は無く、次の家督相続人をどうしようかと考えた。
というのも、島津一族は他の大名たちと違って側室を持って子女をもうけるようなことがなかった。
わずかに日新斎忠良(じっしんさいただよし)(義弘の祖父)だけが例外で薩州家重久の娘(御東)を正室に迎え、2男3女を得たほか一人の側室上木貞時の娘(大仁、桑御前?)が1男1女を生んでいる。側室は一人だったと思われる。もちろん側室を亡くし後室を迎えた例は多い。

 忠恒はこのままでは亀寿との間に子供をもうけることは出来ず、かと言って義久の娘を差し置いて島津家の慣習となっている一夫一婦制に縛られて側室を置くこともできない。
そこで後継家督を誰に継がせるか忠恒は考えた。
解決策とし考えたのは外部の権威をもって島津家の不文律を突破することだった。

 慶長15年(1610)忠恒改め家久は駿府で大御所徳川家康と対面した。そこで意外な申し出をする。将軍秀忠の二男国松(のち駿河大納言忠長)を養子にもらい受けたいというのである。
家康は国松が将軍家の跡取りの一人だからと、当然のことながら拒否したが、「家久はまだ若いのだから、側室を置けばよいではないか」と諭したという。家久はその言葉を待っていたのである。つまり、家康のお墨付きにより義久ー亀寿親子の壁を突破することを狙ったのであった。もし、家久が大義名分もなく側室を置き、その間に男子が誕生すれば、義久や亀寿は怒るだろうが、徳川将軍家がそれを認めていれば問題なかろうと考えてのことだった。家久の涙ぐましい苦労が伺える。

 家康のお墨付きにより、家久が選んだ側室が亀寿の長姉於平の孫にあたる娘(慶安夫人)だった。亀寿も慶安夫人と対面して、その美貌に大層喜び話は順調に進んだ。亀寿は彼女が家久との間に男子を生めば、自分の養子として家督に立てると大きな譲歩をした。というのも、慶安夫人は女系ではあるが、義久の曽孫にあたる。彼女が生んだ男子が次の家督になれば、義久の血統が続くことになるからだった。ほどなく彼女が生んだ虎寿丸が後の第二代薩摩藩主・光久である。このようにして、家久の家督継承問題は決着がつけられたのである。



 参考資料 「島津義弘の賭け」 山本 博文 著
      「島津一族」    川口 素生 著
      「薩摩島津家 最強の真実」 桐野 作人 他






Last updated  2020.04.27 08:57:09
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