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カテゴリ:Movie
<きのうから続く>
パトリスが案内してくれた城の豪奢さは、貧しい島育ちのナタリーにとっては想像を超えたものだった。高い天井、意匠をこらしたクラシカルな室内装飾、天蓋つきベッド、地下のワインセラー、人の背丈以上あろうかという巨大な暖炉。 ↑ うわべでは伯父とナタリーの相性を心配しているパトリス。だが、どこかに案内するときはいちいちナタリーの腕を取って手をつなぎ、グイグイと引っ張っていく。誰がどこからどう見ても好き好きビームが飛び交っている!(笑) パトリスとナタリーは何をやっていても楽しい。夜のリビングで、静かにくつろぐ「偽」家族を尻目に、大声で笑いながらチェスに興じている。完全に2人の世界に入ってしまい、周囲の目に気づかない。 ゲルトルートは大喜び。万が一マルクに新しい(しかも若く美しい)妻などできれば、自分たちは間違いなく厄介者として追い出されるだろう。マルクには孤独でいてもらわなければならないのだ。パトリスとナタリーがくっつくけば万々歳。伯父の愛情を一身に受けて、なにかと自分たちをのけ者にしたがるパトリス。ナタリーとパトリスが結ばれれば、それはすなわち親密な伯父と甥の間に亀裂が入るということ。ゲルトルートにとっては理想的だ。 ゲルトルートは、「若いっていいわね~ この家が明るくなったわ~」などと盛り上げる。ゲルトルート役のイヴォンヌ・ド・プレの演技力が十二分に発揮される場面。口元では笑いながら眼には皮肉で意地悪な光がある。寛大なオバさんの素直な発言のようでいながら、心の奥には邪悪な計算高さが潜んでいる。 イヴォンヌ・ド・ブレは、マレーがそのオーラに惚れこんだベテランの舞台女優だ。『悲恋(永劫回帰)』への出演について、マレーは「イヴォンヌは彼女らしからぬ端役で出てくれた」と最大限の感謝を捧げている。 息子への限りない情愛、だがそれに溺れない普通の人が普通にもっているモラル、同時に年を重ねた女性に特有の疑い深さや図太さも同時に表現できる稀有な女優だ。彼女が歩く姿はまるで貴婦人のように気高く、息子にキスする姿は溢れんばかりの包容力に満ちている。それでいながら、女の内側にひそむ負のエモーションをときにさりげなく、ときにあからさまに表現する。 恐るべきイヴォンヌ・ド・ブレ! ナタリーは我に返り、部屋へ戻る。送ろうとするパトリスをマルクが苛立ちながら制止する。 ナタリーがいなくなったところで、自分はナタリーと結婚すると宣言するマルク。 「ガタッ」――チェスの駒の音で皆がパトリスを振り返る。 駒が落ちた音を聞いて初めて、自分がそれを取り落としたことに気づき、パトリスも我に返る。 「誰がなんと言ってもナタリーと結婚するから」と一方的に宣言して、マルクが退場する。 ゲルトルートはパトリスに、ナタリーとはいつから知り合いなのかと尋ねる。 すると思わず、↓こんなことを言うパトリス。 出たっ! 「幼なじみ」発言!! どぉぉぉして「ヤバいところ見られちゃった」オトコは(もちろんオンナも)、こういうミエミエなことを言っちゃうのだろう。これぞまさしく、過去においても、現在においても、未来においても繰り返される「永劫回帰」発言。 さすが早熟・多情で鳴らした百戦錬磨のコクトー、こういうシチュエーションでオトコが何を口走るかよくわかっている。 <2人が幼なじみでない動かぬ証拠> ナタリーの家でのパトリス。 眠りから覚めて、ナタリーと会話。 …と自己紹介。 <動かぬ証拠終わり> ついでに、「アシールと同じぐらいの背丈のころから(の幼なじみ)」などと、小人症の息子を不憫に思っているゲルトルートの神経をわざわざ逆なでするようなことも言っている。 さっそくムッとして顎を上げるゲルトルート(上の写真)。 そう、パトリスは決して清廉潔白なキャラクターではない。溌剌として純粋だが、他人の気持ちを思いやる能力には欠ける。ついでに自分の本当の気持ちに気づくのも遅い。そこで図らずも人を傷つけることになる。まったく自覚も悪気もなしに…… だからこそ彼は魅力的なのだ。コクトー・ワールドでは決して善悪が明瞭に二元に分類されることはない。人間をそんなふうに区分して断罪しようなどという発想は、もともとコクトーの辞書にはない。 そして、これは映画の終わりになって明らかになるのだが、その清廉潔白でも高潔でもない青年が、死を目の前にして次第に崇高な存在に変化(へんげ)していくことになる。それがこの作品の最大の見せ場であり、その想像を絶する視覚的表現は今に至るまでおそらく比類ないものだ。 <明日へ続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.04.13 19:05:55
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