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カテゴリ:Movie(フェデリコ・フェリーニ)
ルキーノ・ヴィスコンティ監督、マリア・シェル+ジャン・マレー共演の『白夜』で、ナストロ・ダルジェント賞を獲得し、10年間におよぶ映画界での下積み生活から脱出したマルチェロ・マストロヤンニ。その彼が、さらに大きな飛躍を遂げることになったのが、フェデリコ・フェリーニ監督の『甘い生活』(1960年)。社会風刺に富んだ鋭い切り口と、誰にも真似できない独特の幻想的な映像美で世界中に衝撃を与え、賞を総ナメにしたイタリア映画の金字塔だ。
マストロヤンニはヴィスコンティによって見出され、育てられたといってもいい(ヴィスコンティとの出会いについてのエピソードは3/19のエントリー参照)が、彼を世界的な大スターにしたのはフェリーニのほう。相性でいっても、ヴィスコンティより明らかにフェリーニのほうがいい。音楽家のニーノ・ロータも最初はヴィスコンティと組んでいたが、やがてヴィスコンティとは離れ、フェリーニ作品とより深く結びつく。 フェリーニ監督の『甘い生活』は、1950年代後半の国際都市ローマが舞台だが、その退廃と倦怠、将来に対する不安、個人ではどうにもならない閉塞感は、まるで今の日本のようでもある。ほぼ50年たって、アジアで最初に近代化を成功させた国家の国民の精神が、ヨーロッパの爛熟に近づいてきたのだろうか。 『甘い生活』の主人公マルチェロは、作家になるという夢をかなえられず、ゴシップ記事の記者として自堕落な生活を送っている。 監督のフェリーニがマストロヤンニにこの役をもちかけてきたときのエピソードは、『マストロヤンニ自伝』(小学館、押場靖志訳)に詳しいが、最初プロデューサーはポール・ニューマンを呼ぼうとしていたらしい。 主役にはマストロヤンニを、と考えていたフェリーニは彼を呼び出し、 「確かにニューマンは偉大な俳優さ。スターだよな。でも、彼じゃ大物すぎる。ぼくに必要なのは、どこにでもある顔なんだ」 と言った。まったくの初対面でのこの失礼な言い方にも全然傷つかないのが、マストロヤンニのいいところ。 さっそく、 「それならおまかせください。どこにでもある顔といわれたら、ぼくしかいませんよ」 と返している。 フェリーニ映画に出たかった若きマストロヤンニは、そのあとちょっとだけ格好をつけて、でもできるだけ控えめに、 「台本をざっと見せていただければ嬉しいのですが」 と、プロの役者なら、まあ当然のことを要求した。 すると、フェリーニは、「もちろん」といいながら、台本ではなく自分の描いた卑猥な絵を見せた。 マストロヤンニは、一瞬、 ――からかわれてる? と戸惑うが、ここでカッとしないのが、また彼のいいところ。 「とてもおもしろいですね。で、どこにサインすればよろしいんでしょう?」 と契約を申し出た。 これでマストロヤンニは、 ――この人には、台本を見せろと言っちゃいけないわけね と悟る。 癇癪持ちのヴィスコンティの下で10年以上もやってきたマストロヤンニは、難しい監督ともうまくやっていく術を身につけていたのだ。 それ以来、フェリーニから仕事の依頼があると、マストロヤンニは台本を読まずに承諾するという流儀を貫いたという。 さて、『甘い生活』といえば、やはりトレビの泉。 噴水に浸かった美女に呼ばれて、言われるままに近づく主人公マルチェロは…… 常に空虚な焦燥感を漂わせている。 「舞台で大切なのは声の演技、映画で大事なのは目の演技」と言っていたマストロヤンニだが、 『甘い生活』で見せる視線の孤独な虚無感は、確かに『白夜』にはなかった。 彼を取り巻く女性も、外見だけは華やかだが、常に満たされない欲望をかかえている。 衝動的に語られる「おいしいもの」への妄想。明るい瞳が、返って異様。 こちらの彼女がとらわれているのは…… 愛の名を借りた肉欲と独占欲。娼婦に……という妄想で自らを慰めている。 空虚なマルチェロの心の支えは、地に足をつけた生活をしている(ように見えた)友人。 彼への憧れと尊敬を隠さないマルチェロ。 だが、彼も内面には、解決できない悩みを抱えていた。 子供2人を殺しての自殺――マルチェロの幻想を打ち砕く最悪の結末。 身内同士で殺しあう……これこそ、まさに今日本で頻繁に起こっていること。 さらに、夫と子供の悲劇を知らずに戻ってきた妻に、むらがるカメラマン。 パパラッチというイタリア語は、この映画で世界中に広まった。 無言でシャッターを切るパパラッチに、最初は笑顔で「なぜ?」と尋ねていた妻も、次第に尋常でないことが起こったと悟り、取り乱し始める。 何も言わずに、ただフラッシュをたき、シャッターを切るカメラマンたち。人の不幸さえ食い物にするマスコミのおぞましい行為は、近代的なビルが建っているだけの、殺伐とした風景の中で続けられる。「無言」が、せめてもの、パパラッチたちの良心か、それとも…… だが、1人がシャッターを切れば、負けじともう1人がまたシャッターを切り、その乾いた連続音が、観る者の怒りとやるせなさをいやがうえにも高めていく。 <続く> お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2008.09.24 13:55:19
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