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カテゴリ:自叙伝
僕が初めて外国の地を踏んだのはフランスだった。1992年のことである。35歳のその年まで外国に行くということがなかったのは、外国、特にヨーロッパはお金もちしか行けないところと思いこんでいたからだ。
10代の終わり、1970年代の半ば、ドイツかフランスに留学したいと思ったことがあった。地方から東京の大学に行くのなら、外国に留学してもさほど費用は変わらないという話を聞いたことがあったからだ。特にドイツの大学は授業料がタダという。 それで調べてみたが、今のように情報は少なく手がかりはほとんどなかった。調べても出てくるのはネガティブな情報ばかり。何せ外貨の持ち出し制限があった時代である。 それに、大卒初任給が10万円に満たない時代に片道30万円の飛行機代は留学の夢を打ち砕くのにじゅうぶんすぎる金額だった。それでも、どうしても留学したいという強い執念があったらまた別だったかもしれないが、親に大きな負担をかけて留学したとして、その先で自分が成功する自信はなかった。だからあっさり諦めてしまった。 それ以来、外国など夢のまた夢と思ってしまい、自分には無縁のものと思いこんでいたのである。 僕から上の世代の人は、ほとんどの人が同じように思っていたと思う。調べてみると、1964年までは海外への観光旅行そのものが解禁されていなかった。高校の地理教師は無銭旅行で世界一周をしたことがあり、年に数回、授業をつぶしてその話をしてくれた。あちこちで皿洗いなどのアルバイトをしながらのその旅行の話は、手に汗をにぎるほど熱中して聴いたものだったが、1960年代までは無銭旅行の方がむしろ一般的だったろう。 1985年から始まる円高が急激に海外旅行を一般化したが、それでもアメリカのビザが免除になったのは1988年だし、ヨーロッパに行くのに旧ソ連上空を飛ばなければならなかったり危険や制約が大きかった。 急激な円高は1995年まで続くが、1990年を前後する時期は東西冷戦が終わり、湾岸戦争などはあったものの、世界が平和と繁栄へ向けて過去をリセットして再スタートしたかのようだった。 僕が初めて外国に行ったのはこのような時期にあたる。1989年11月のベルリンの壁崩壊からちょうど3年がたっていた。 外国に行くことなど夢のまた夢と思いこんでいた、そんな僕がなぜ外国に、それもヨーロッパに行こうと思ったかというと、この年の春に大学を卒業した10歳年下の恋人がドイツに留学したからだ。 その彼女と知り合ったのは彼女が渡独する半年ほど前のこと。強い恋愛感情があったわけではない。僕が果たせなかった留学をしようとしていた彼女を手助けしたいと思っただけだが、ふとしたことからついセックスしてしまった。 彼女はドイツで新しい恋人を作ればいいし作るだろう。半年だけ恋人として支えよう。 彼女の出発の日が彼女との別れの日。付き合い初めから、そう決めていた。 移り住んだミュンヘンから、彼女はひんぱんに手紙をくれた。その内容は、外国というものに一度も行ったことのなかった僕には驚くことばかり。にわかに外国というものに興味がわいた。意外と旅費がかからないことも知った。 彼女の手紙の調子がおかしくなってきたのは、留学して3か月たった9月ごろだっただろうか。あまりにひんぱんに、しかもおかしな内容の手紙が来る。あるときなど、僕がドイツに移住しないのはおかしいとまで言い出した。外国に移住してしばらくすると精神に変調を来す人は珍しくないらしい。彼女もそうした、一種のノイローゼだったのかもしれない。どうしたものか悩んだが、フェイドアウトするのではなく彼女にきちんと別れを告げ、将来に対する変な期待を持たせない方がいいと考えた。 そこでドイツに行くことにした。ミュンヘン直行便はないし、ドイツ行きの飛行機は高額だった。雑誌で調べると、AOMフランス航空という航空会社がいちばん安かったので、パリからミュンヘンに行くことにした。ユーレイルパスも買い、ヨーロッパを東回りに一周する大まかなプランを立てた。ユーレイルパスは加盟国の鉄道が乗り放題になるパスで、日本でだけ買える。夜7時すぎに乗車すると日付をまたいでも1日分の利用としてしかカウントされないので、夜行で移動し、電車の中で寝て昼間は観光という旅行を繰り返す強者がいたりする。ヨーロッパの電車、急行や特急は座席が6人一室のコンパートメントになっているので、よほど混雑していない限り、二人分、三人分の座席を利用して横になって眠ることができる。寝台を使わなくても、さほど苦にならない。 この旅のときは、21泊のうち、彼女の部屋に滞在した日も多かったので、ホテルなどに泊まったのは6泊だけだった。 こう書いてくるときれい事に見えるが、そこには決してもう若くはない、それなりに人生経験を積んだ35歳の男の計算高さはあった。初めての外国旅行で、滞在先に知人がいるのは有利だ。ミュンヘンはちょうどヨーロッパの真ん中にある。どこへ行くにも交通のアクセスがいい。 「別れを告げに行く」のに矛盾しているようだが、彼女に未練もあった。ただし彼女の心にではなく、カラダにである。25歳の彼女はやせているのにGカップで、もう少しあの巨乳を楽しみたいという未練があった。 だが、それより強い未練は、付き合った半年の間にじゅうぶん彼女の性感を開発できなかったことだ。 彼女は、大学の教授や講師など、かなり年の離れた妻帯者とばかり交際していた。彼女の言を信じるなら、自分本位のしかもヘタなセックスしかできない連中のようだった。 セックスのヘタな男にいろいろといじられた女というのは、経験がない女よりも感じにくい体になってしまうものである。初めてセックスしたとき、これはかなり手強いと感じた。3週間のヨーロッパ旅行のうちの1週間を彼女にさくとして、僕と別れたあと出会うであろう新しい恋人と気持ちのいいセックスができるように性感を開発してあげようと考えたのである。気分はあくまでボランティアだ。 彼女との円満な別れと性感開発。そんなことが両立するわけがない。結局、どちらも失敗し、それも最悪の経過をたどった。 初めての外国旅行の目的はこの二つだったから、このときの旅行は失敗だったといえる。 あれからもう20年近くがたつ。「ロミオとジュリエットの街」として知られるイタリアのヴェローナで別れたきり、彼女とは会っていない。 しかし、彼女との出会いがなければ、いまでも海外旅行には関心がなかっただろうと思う。仮に行ったとしても、このときのひとり旅がなければ、薄っぺらな観光旅行としてしか外国を訪れることはなかっただろう。 だから、彼女にではなく、彼女との出会いには感謝している。外国に行ってみなければわからないことというのはたくさんある。外国そのものではなく、自分の国のこと、さらにいえば自分自身のことだって、外国を旅して初めてわかったことというのは多い。 出発前にいちばん困ったのは、お金をどうすればいいかということだった。当時はまだユーロは発足していなかった。パリの空港に着いてから少額とはいえ交通費がかかる。銀行の開いている時間に着くとは限らないので、いくらかの現地通貨はいる。それをどこでどう調達したらいいかわからないのが不安だった。父がJTBまで行って聞いてくれたが、自分の店にはヨーロッパを個人旅行する客はいままでひとりもいなかったのでわからないということだった。 そのときのお金をどう用意したかはおぼえていない。たぶん、成田空港の両替所で、不利なレートで1万円分くらいのフランを用意したのだと思う。 通貨の異なる国を旅するにはコツがある。つまり、前の国で余った通貨を次の国で両替する、というようなことをいっさいしないことだ。両替を繰り返すほどに手数料のためにどんどん元本が減り損をする。余った通貨は出国する国でまとめて両替する。できれば残らないようにするのがベストだ。 こうして1992年11月13日、6万4千円で買った航空券と7万円で買ったユーレイルパス、円建てのトラベラーズチェックとクレジットカードを、母が作ってくれたネックポーチに入れて、ほんとにこいつはヨーロッパまで飛べるのだろうかと思わせる古びた小さな飛行機に乗り込んだ。乗り込む前に隣にいたカップルの女が「山形行きの飛行機にそっくりね」と語っていたのが不安をかきたてたがここまで来たら諦めて乗るしかない。 なぜ11月13日に出発したかというと、この日を境に飛行機代ががくんと下がるからだ。いわゆるローシーズンの初日。安いだけあって若い客でほぼ満席。予想より機体が重くなったためか、13時間で到着するはずが途中モスクワで給油することになり、16時間かかった。パリに着いたときは夕方になってしまっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
September 6, 2010 06:49:55 PM
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