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10月7日。広島映像文化ライブラリーに「ヒロシマ-爆心地の記録」という作品を見に行ってきた。
この作品は、原爆ドームに隣接した、原爆の投下とともに跡形もなく消え去った町を、可能な限り忠実に、CGで再現しようという試みを映像にしたものである。 再現するためには、かつてこの町で暮らしていた人たちの記憶だけが頼りになる。 当然のことながら、この町とともに消え去った人は当然すでにいない。 原爆投下の瞬間に、なにかの偶然でその場に居合わせなかった人たちが中心になって作り上げたものだ。 当然家族のほとんどを原爆でなくしている。 その映像の中には、悲惨さがほとんどない。 ただひたすら、そこにあった町を忠実に再現する。 店、民家、病院、郵便局・・・・。 普通の人たちの普通の暮らしがあるだけだ。 原爆投下後の広島の惨状は平和公園にある「原爆資料館」に行けばある程度は実感できる。 一瞬にして二十数万人の人の命が失われた。 あまりの数の多さに、その数に目が言ってしまうが、大事なのは数の多寡ではなく、一人一人に家族と暮らしがあったということだ。 一人だから殺されても良くて、20万人だからいけないというものではない。 たった一つの原爆。 たった一つの決断。 アメリカは今もってその決断が間違っていたことを認めない。 それがアメリカの正義だ。 どんなことがあってもアメリカは正しい。 イラクでもそうだ。 現実に起こっていることは悲劇であっても、アメリカの決断は常に正しいとされる。 戦争はどんどんゲーム化している。 ボタンひとつで敵を殺すことができる。 相手の死に様を目にする必要もない。 それが「人生」そのもののを奪う行為であり、残されたものにどれだけの悲しみや苦痛を与えるものであっても、心を痛める必要がない。 逆に、兵士が自分のしていることに心を痛めるとすれば、絶対戦争には勝てないだろう。 地球は狭くなった。 今、この時代に、戦争に勝つということ自体、どれだけの価値があるだろう? 戦争だって、狭い部屋の中で刀を振り回すのと同じようなものだ。 逃げ場もない。 有史以来、人類は戦争を続けてきた。 力こそが全てを決する最大の要素だった。 そして出来上がったのが、支配と被支配の関係である。 人類の歴史は「支配と被支配」の歴史であると言える。 でも、その時代は終わった。 力ではなにも解決できない。 支配と被支配の関係は永続しない。被支配の中から、必ず支配者を打ち倒すものが出てくるのだ。 今大事なもの。 それが結局「一人一人の暮らし」なのだと思う。 イラクの人たちの一人一人の暮らし。 世界中の人たちの一人一人の暮らし。 私自身が喜び、怒り、悲しみ、楽しく思うように、北朝鮮の人たちにもその権利はあるはずだ。 私が自分の子ども達の将来を思うように、世界中の全ての親たちが自分の子どもの将来を思っている。 お金持ちだけが子どもの将来を考える権利があるわけではない。 原爆で失われたものは、広島の町ではない。 そこで暮らしてきた一人一人の人たちと、そこに繋がる暮らしや思いや希望や、愛情やいろんな思いそのものだ。 9.11のテロの際、トレードセンタービルで2000人近い人が死んだ。 アメリカ全土が慟哭し、激怒した。 あの日死んだ人たちには、それぞれ愛する人もいたし、これからの人生もあった。 そして、あの日、広島に住んでいた人たちにも同じように愛する人がいて、人生があった。 それだけは間違いない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/10/10 01:19:15 PM
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