長編時代小説コーナ
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龍5777
基本的には時代小説を書いておりますが、時には思いつくままに政治、経済問題等を書く時があります。
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その男は伊庭求馬であった。堂々と江戸城内を闊歩し讃岐守が動くのを 待っていたのだ。求馬は讃岐守の心中を見破っていた、お千代親子を手にか け、自分も死ぬ。幼児に罪はないが、せめて実父の手で命を絶たれるほうが、 どんなにか幸せであろうかと考えいたのだ。これが求馬の哀れみであった。 一歩一歩、命を刻み讃岐守は二人が軟禁されている部屋に近づいた。 部屋の前には警護の士が控えていた。 「襖を開けえ」 「成りませぬ」 「老中首座としての命令じゃ」 警護の士は躊躇したが、老中首座には逆らえず部屋を開けた。そこには お千代と膝に抱かれたあどけない豊松の二人が居た。 「父上」 「お千代、遅くなって済まぬ。全てが水の泡となった」 二人の視線が絡み合った。 「親子三人で冥途に旅立とうかの」 お千代のやつれた顔から涙がとめどなく伝え落ちている。 警護の士が仰天した。 「讃岐守さま、ご乱心か」 どっと数人が部屋の前を塞いだ。 「ここは殿中にございますぞ」 「お主等は退くのじゃ、上様のお許しは得て参った」 讃岐守は警護の士を掻き分け、部屋に踏み込んだ。警護の士はただ見守 るだけであった。 「お千代覚悟は良いの」 「はい」 豊松を抱きしめたお千代が眼を瞑った。 「渇っ」凄まじい掛声が轟き讃岐守の脇差がきらめいた。お千代と豊松が 血飛沫をあげて倒れ伏した。人々が慌てふためいた。 「お主等には面倒をかける」 巨眼を光らせ警護の士に労いの言葉をかけ、 どかっと二人の骸の傍らに腰を据えて、肩衣をはねあげ紋服の前をおし広げ た。 「何を成されます」 「わしはこの場で切腹いたす」 警護の士が讃岐守の言葉に声を飲み込んだ。幕閣筆頭の讃岐守の所作が 理解出来ないでいた。 「そこまでじゃ」 突然、乾いた声がした。 「伊庭求馬か」 讃岐守は声の主が誰か分かっていた。紋服に肩衣、袴姿の 求馬がうっそりと佇み、冷ややかな眼差で讃岐守を見据えていた。 「わしをどうする」 求馬が眉宇を細め醒めた言葉を浴びせた。 「畜生にはそれらしい死に様がある、武士らしく命を絶たれては我が妻の復讐 が成り立たぬ」 「貴様っ」 讃岐守が求馬の真意を見抜き吠えた。 「それほどまでに恥をかかせる積もりか」 讃岐守がゆらりと立ち上がった。 求馬の双眸が強まり、腰間の脇差が讃岐守の躯を奔り抜けた。讃岐守の 紋服が両断され、真新しい陰腹を隠した晒しが顕わとなり血が滲んでいる。 「普段なら、見事な切腹と誉めるがの」 讃岐守が言葉を失っている。 「貴様には似つかわしくない陰腹の痕じゃが、それに相応しい躊躇(ためら)い 傷を刻む」求馬の眼が細まった。 「止めえ」 讃岐守が大声で制した。 声に誘われたように求馬の脇差が風斬り音を発し、刃が正確に讃岐守の晒し を裂いた。 「無念じゃ」 血を吐くような讃岐守の声が漏れた。 彼の腹部には誰が見ても、躊躇い傷と映る傷跡が三ヶ所に刻み込まれた。 「武士の恥、臆病者の刻印じゃ。貴様は末代まで卑怯未練者と成り下がった」 讃岐守の顔が朱色となり、脇差を己の首筋へと当てた。瞬間、求馬の一颯が 讃岐守の脇差をなぎ払った。讃岐守が襖に寄りかかり巨眼を剥いた。ここまで 必死に堪えてきた気力が萎えたのだ、その様子を冷ややかに眺めた求馬は、 振り向くこともなく痩身を人ごみに紛れさせた。 かっと剥かれた讃岐守の巨眼から血涙が滴り、求馬の消えた方角を無念の 形相で見つめていたが、徐々に長廊下に崩れ落ちた。一代の梟雄の最後で あった。この事件の評定が江戸城で開かれた。楽翁が裁定を下したという。 「讃岐守の所業は幕府にとり許せぬ暴挙にござる。この発端は己の権力を 私くするもの、このようなことは二度と起こってはならぬ。更に躊躇い傷が 三ヶ所もあるとは、士道不覚悟、よって堀井家はお家断絶に処する。また この悪業を世に広く知らしめる為に、見せしめとして首は獄門に処すなり」 求馬はこの処置を知ることもなく江戸から姿を消した。猪の吉や嘉納 主水が必死で捜し廻ったが、ようとして求馬は消息を絶ったままてあった。 ただ風の便りで、伊豆の地で白布で包んだ小箱を胸に抱え、海を見つめる 痩身の浪人が佇んでいたという、噂が猪の吉の許にもたらされた。 「旦那、伊豆の聖徳寺ですな、あっしも直ぐに駆けつけやすぜ」 彼は真っ青に澄んだ青空に向かって叫んだ。 了 伊庭求馬無頼剣(1)へ
伊庭求馬無頼剣(106) Nov 9, 2010 コメント(3)
伊庭求馬無頼剣(105) Nov 6, 2010 コメント(4)
伊庭求馬無頼剣(104) Nov 5, 2010 コメント(3)
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