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Nov 3, 2013
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「小栗上野介忠順」(114)


 列国外交団を代表して仏国のロッシュ公使が質問をした。

「今後の貴国に於ける外国事務は何処に取扱いますか」

 この問いに慶喜は言下に答えた。

「この度の王政復古は日本国の総意ではないと解釈いたす。従って列国との

取扱いは、今まで通り徳川幕府が責任をもって事にあたります。

 大政奉還をいたしても、日本の合法政権は従来どおり徳川家にあります。

 今後の問題は日本の衆論を以て政体の定まるを待ち、それに従うのみ」

 慶喜は胸を張り、堂々とした態度で自身の考えを述べた。

 髭面のロッシュ公使がにんまりとした、親幕派としての仏国はこの言葉を

慶喜から聞きたかったのだ。

 更に慶喜は「討幕の密勅」が下された数日後に、痛烈極まりない上書文を

岩倉具視に提出した。

「先帝の意を尊び国家の未曾有たる大改革を成した摂政殿下ゃ、功績のあ

る公家を廃し、陪臣(薩摩、長州等)を近づけ、皇国数千年の朝廷の名を汚す

とはもっての沙汰。先日、大政奉還を言上した時に陛下が云々と言われるとは

驚愕に堪えざる、恐れ多くも陛下は幼沖(ようちゅう)にあられ、かかる重大事

を軽々しく言われる筈がない。また外交問題は我ら日本国家の重大事、陪臣

の薩摩、長州の輩の固陋(ころう)な献策を信じ、事をなし外国の信用を失うは

国家転覆の災いを招く基で、内憂外患あわせて憂慮いたす。臣、徳川慶喜の

憂慮いたすところは此処にあり、陛下の御為に進言仕る次第なり」

 この文章は痛烈な問責書であった。

 この背景には大阪城に幕軍一万五千名の強力な軍事力を擁し、列国の

支持を背景とした慶喜の強気な一面が見える。

 この上書を一読した岩倉具視は、顔面蒼白と成ったと言われる。

 彼はこれで大いに悩んだ、慶喜がこのように強気に出るとは思いもせず

に居たのだ。更に恐れる事は彼の王政復古の大号令には、「辞官納地」が

含まれていたのだ。慶喜が将軍職を辞するばかりではなく、八百万石もの

徳川家の領地を召し上げることを要求していた。

 これは幕臣の死活問題であり、これがすべて白日の下に曝されたとしたら、

慶喜の大政奉還なんぞでは済まない、大混乱と成ったであろう。

 幸いにも越前藩士の中根雪江等が、公卿達に納地の取り下げを説き、

事なきを得たのであった。

 徳川幕府の将来に取っての重大事の起こった、慶応三年のこの時期、

慶喜の活躍は目覚ましく輝いていた。

 薩長や岩倉具視等の挑発を巧みに躱し、逆に朝廷を恫喝し列国に徳川家

ありと宣伝していた。この行動力は彼本来のものか、何かに憑かれた事なの

か、傍の者達も疑うほどのことであった。

 それほど颯爽として薩長の鋭鋒を躱していた。

 
 薩摩の西郷隆盛は慶喜の行動に焦りを覚えていた。餌に食いつかぬ慶喜

の動きに苛立ち、最後の手段を取る決意をした。

 西郷隆盛は仁の人物として知られているが、この時期には思い切った権謀

術策を弄した人物であった。

 新しい日本を創る、それには徳川幕府に代わるご政体を創りあげる。

 この事に命を懸けた彼の選択肢の一つが、無慈悲とも思える権謀術策で

あった。

 慶喜の鮮やかな手並みで倒幕の理論根拠を失った西郷隆盛は、薩摩藩士

の益満休之助、伊牟田尚平の両名を江戸に送り込んだ。

 目的は江戸の町を混乱に貶める、これが目的で幕府を挑発し暴発を待つの

策略であった。

 両名は十月に江戸三田の薩摩藩邸に着き、西郷隆盛の下知通り江戸の

混乱を策し、強盗や殺戮を繰り返した。

 不逞浪人も真似て江戸は陽が落ちると、戦々恐々たる有様となった。

 十月二十三日の早朝、江戸城の二の丸が炎上した。

 これは伊牟田尚平の放火と言われている。

 夜間とも成ると御用党と名乗る強盗団が、江戸の豪商を襲い金品を略奪

する事件が、毎晩、起こったのだ。

 これら対応する機関は町奉行所であったが、手に余り新徴組と庄内藩に、

江戸市中の治安の任務が命じられた。


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Last updated  Nov 3, 2013 04:04:38 PM
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