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Dec 28, 2013
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「小栗上野介忠順」(215)


 明治と成って政府は陸軍をドイツ式に編成すべく、士官のメッケル少佐を

招聘し、大学で我が国の士官の教鞭を依頼した。

 ある日、生徒の士官が関ヶ原の合戦絵図を示し、メッケル少佐に勝敗の

帰趨を訊ねた。彼は絵図を詳細に眺め、一言で「西軍の豊臣方の勝利です」

と断じた。彼の眼から見た西軍の石田三成の戦略眼は見事で、卓越した戦略

家と認めたのだ。併し、敗戦と聞かされ彼は信じようとはしなかった。

 日本の士官が東軍の将、徳川家康により西軍の諸軍が調略され非戦を通し

たと語ると。「それは政治的な勝利で今日の戦闘では通用しません」と断じた

と云われている。

 此のように必敗の合戦で勝利を治めた家康は、武門の頭領として徳川幕府

を拓いた。此れに比べ十五代将軍の徳川慶喜は、小栗上野介や仏国士官の

立案した必勝の戦略案を用いずに、徳川幕府、三百年の歴史の幕引きを

行った。彼は勝利する戦を避け自分のみ恭順し、後に起こる各地の幕軍や

会津藩、北越、東北諸藩の悲惨な戦いを黙して傍観している。

 此のように徳川幕府の創業者の家康と慶喜は、奇妙なコントラストを描いて

いる事が、歴史の摩訶不思議なところである。

 慶喜には家臣やその家族、更に幕府に味方をした諸藩の将兵、家族を思い

やる、心のゆとりや慈悲の感情が有ったのであろうか。

 何十万の人々を犠牲とし己一人、朝敵の汚名を逃れ恭順した胸中が理解

出来ない。ただ保身のみを考えた男が武門の頭領と成った悲劇が感じられる。

 彼は明治と成り許され、明治天皇に拝謁し公爵を授けられ、議政官として政治

に参画し、その後は静岡で趣味の世界に没頭する生活をし、側室二名、町火消

で有名な新門辰五郎の娘を妾として十数名の子宝に恵まれ、悠々自適な人生

を過し天寿を全うし、大正の時代に七十七歳で世を去った。

 なんとも割り切れぬ思いがする。

        (終焉)

 上野介は深い絶望感に陥っていたが、全てを飲み込んで平然と構えていた。

 公人としての務めから解放され、漸く慶喜の心の襞が朧ながら理解できる

ような気がしている。慶喜の産まれた水戸藩は古来から尊王の志の厚い藩で

あった。その根幹を為すところは水戸史観にあった。此れは歴史上の英雄を

朝廷を敬う者を忠臣と位置づけ、尊王の志のない者を朝敵と分類した史学で

あった。慶喜は幼少より父の斉昭に厳しく躾けられた、また母は皇族出身の

有栖川吉子であった事も影響していたようだ。

 こうした背景を知り、慶喜が朝敵を恐れる訳が今と成って理解できた。

 男の挫折した心を癒すには酒と女の膚の温もりが一番の妙薬である。

 上野介は夜ごと道子を抱いた。道子は三十五歳の女盛りと成っている。

 子を成さぬ道子の乳房は豊満であるが、乳首は昔通り可憐であった。

 併し閨での仕草は濃密で、時には上野介を翻弄するほどであった。

 今夜も甘く烈しい一時が過ぎ去り、濃密な空気が部屋を支配している。

「道子、わしは好き者じゃな」

 上野介が道子の耳元に低く語りかけ、微かな笑い声を挙げた。

「わたくしも同じです。こうして貴方に抱いて頂くなんぞ夢のようです」

 道子が夫の手を下腹部に導いた。上野介は温かい下腹部の感触に満足し

手を這わせた。柔らかく息づくそこは何か何時もと違う感触がした。

「道子、そなた子を宿したか」

 上野介が膨らみのある下腹部に手を乗せ驚きの声を発した。

「はい、漸く授けられたようにございます」

 道子がはにかむように答え、夫の胸に顔を埋めた。

「よう遣った」

 不幸が襲った時に二人の子が道子の胎内で芽吹くことに成ったのである。

 こうした束の間の平穏な生活に浸っている時期、上野介の政敵たる勝海舟

は、主戦論を唱える者達を言葉巧みに江戸から遠ざける策略を行っていた。

 その中には近藤勇の結成した甲陽鎮撫隊も居た。勝海舟は彼等に武器、

弾薬、軍資金を与え、甲府城の攻略に向わせた。

 此れは勝一流の巧緻な戦略である。

 官軍が江戸に迫り来る前に、こうした主戦論者を失くしておきたい。

 この人事にも慶喜の思惑が秘められていた。

 主戦派の者を追い出し、朝廷の心象を良くしたいという思いがあったのだ。

 こうしてみると慶喜と勝海舟は似通った部分があるように思える。

 勝海舟は戊辰戦争の時、何も動いた形跡がない。彼の思惑は旧幕軍の勝利

に関心があったのだ。もし万一、政府軍が戦術的に負けるような場合の列国の

動向のみを気にしてたようだ。そこには同僚、奥羽越諸藩の者に対する一片の

憐みの心が見えない。その証拠に明治二年には、新政府に求められ任官して

いる、これが証拠であろう。


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Last updated  Dec 28, 2013 01:46:16 PM
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