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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2015.04.26
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10年近く前にパッチギを見てこの歌が気に入って、2002年のザ・フォーク・クルセダーズ版をよくYouTubeで聴いてます。

YouTube: 森山愛子 イムジン河
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スマホの方ははこちら
YouTube: 森山愛子 - イムジン河 (20130512@草月ホール)

今回、いろいろ調べるうち、森山愛子さんのイムジン河に出会いました。別に森山良子さんのお子さんでもなく、闘魂の歌姫と呼ばれ活躍されているようです。一度聴くと何度も聴きたくなるような魔力を持った歌手だと思います。

YouTube: イムジン河
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いろんな歌手がうたっていますが、このトリオが一番安定して聴けます。

2022.5.10リンク切れにより差し替え。

YouTube: パッチギイムジン河を演奏するシーン
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塩谷さんも沢尻さんもピュアです。

YouTube: ;イムジン河
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大友康平さんの名演技とともにこの映画の一番好きなシーンです。

この歌は、北朝鮮のプロパガンダ(特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った、宣伝行為)音楽として発売・放送禁止になったことでも知られています。ハリウッド映画に限らず、芸術に政治の介入は避けられないので、すべて拒否せずに、多方面からの歴史知識をとに自分で判断して、良いものは良いとして受け入れるのも一つの方法かと思います。

2017.1.21.追記
イムジン河の誕生にまつわるエピソードです。

YouTube:「イムジン河」伝説 (驚きももの木 20世紀)



YouTube:림진강 / 臨津江 / リムジン江 / Rimjingang (イムジン河 ~ Imjin River)


Wikipedia: イムジン河
ザ・フォーク・クルセダーズ版「イムジン河」
日本語詞のついた「イムジン河」のうち、最もよく知られているのが1968年にザ・フォーク・クルセダーズが歌ったものである。臨津江 (リムジン江) で分断された朝鮮半島についての曲であり、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、なぜ南の故郷へ帰れないのか、誰が祖国を分断したのかを鳥に問いかけ、故郷への想いを募らせる内容である。
もともとは、のちにフォーク・クルセダーズやサディスティック・ミカ・バンドの作詞を担当することになる松山猛が、京都での中学時代に、松山の中学との喧嘩に明け暮れていた京都朝鮮中高級学校の学生たちにサッカーの試合を申し込もうと朝鮮学校を訪れたとき、この曲を耳にしたことがきっかけだった。松山はトランペットの練習を九条大橋でよく行っており、同じ場所にサックスの練習に来ていた朝鮮学校の文光珠と親しくなり、メロディーと歌詞を教わり、松山は彼から、歌の1番の歌詞と日本語訳が書かれたもの(彼の姉が書いてくれた)と、朝日辞典を渡された[1]。
後年、松山はフォーク・クルセダーズ(当時はまだアマチュアで、厳密には「フォーク・クルセイダーズ」と名乗っていた)のメンバーと知り合いになり、加藤和彦に口頭でメロディを伝えた。それを加藤が採譜したものがこの曲であり、原曲の「臨津江」とは全く成り立ちが異なる。教わった1番だけでは歌うのに短すぎるため、松山は2番と3番の歌詞を付け加えた[2]。それまでコミカルな曲を持ち味としてきたフォーク・クルセダーズだが、初演では聴衆から大きな拍手が沸いたという。1966年のことだった。
デビュー曲で大ヒットとなった「帰って来たヨッパライ」に続く第二弾として1968年3月に東芝音楽工業(のちの東芝EMI→EMIミュージック・ジャパン→ユニバーサルミュージック/EMIレコーズ・ジャパンレーベル)が発売したのが、このアマチュア時代から歌い継いできた「イムジン河」だった。東芝の関係者の証言によれば、「帰って来たヨッパライ」でデビューするようフォークルを説得していた頃から、「第二弾はイムジン河で行ける。ヨッパライがこけてもイムジン河がある」と考えていたと『驚きももの木20世紀』(朝日放送制作、テレビ朝日系ネットの番組)で証言している。つまり、「ヨッパライ」は「イムジン河」の前座だったということになる。少なくとも、当初の東芝関係者の間には、そういう計算があった。ところが発売前に数回ラジオにかけた後、「帰って来たヨッパライ」200万枚発売記念パーティーの翌日、突如レコード会社は「政治的配慮」から発売中止を決定(すでに13万枚が出荷されていた)。結果的に放送自粛的な雰囲気が広がる。こうしたなかで、京都放送のディレクター川村輝夫は自粛後もラジオでかけ続けた[3]。
なお、ザ・フォーク・クルセダーズの「イムジン河」のB面曲として発売される予定であった「蛇に食われて死んでゆく男の悲しい悲しい物語」は、1970年に「大蛇の唄」としてシングル発売された。
発売自粛の理由[編集]
この曲はもともと北朝鮮では有名な曲で、松山やメンバーらの考えていたような民謡ではなく、高宗漢の作曲、朴世永の作詞によるプロパガンダ音楽であった。オリジナルの曲では、主人公は臨津江を渡って南に飛んでいく鳥を見ながら、1番では臨津江の流れに対し、なぜ南の故郷へ帰れないのかを嘆き、2番では臨津江の流れに対し、荒れ果てた「南」の地へ花の咲く「北」の様子を伝えてほしいと、北が優れていることを誇示する内容である。松山の歌詞では、北の幸せさに対し南を哀れむもともとの2番の歌詞は、分断に対する疑問を訴える歌詞に変わっており、まったく異なる物となっている。さらに松山の歌詞には、オリジナルにはない3番がある。
東芝音楽工業に対し朝鮮総連は、これが北朝鮮の歌であることと作詞作曲者名を明記すること、原詞に忠実に訳すことを求めていた。後者に関しては、洋楽の日本語訳詞でも原詞と完全な一致はしない物も多かったためあまり問題ではなかったものの、レコード会社は国交のない北朝鮮の名を出すことを躊躇し、大韓民国も北朝鮮の曲が日本国内でヒットすることを望まなかったためレコード会社に圧力をかけ、結果発売自粛となったようである。また、東芝音楽工業の親会社の東芝が大韓民国内での家電製品のシェア拡大に悪影響を及ぼすことを恐れたため圧力をかけたという説もある[4]。
2002年の再発の際にも、原盤を制作したフジパシフィック音楽出版(制作当時パシフィック音楽出版)社長の朝妻一郎(現会長)が原盤権を譲渡していた東芝EMIに発売を持ちかけたが了承せず、フジパシフィック音楽出版が原盤権を取り戻し、アゲント・コンシピオから発売にこぎ着けたという[5] 。

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Last updated  2022.05.10 09:02:36
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