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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2020.06.07
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テーマ:読書(8206)
カテゴリ:読書 Reading
今年の6月17日で女優原節子さんの生誕100年になります。いま話題の「女帝 小池百合子」の著者石井 妙子さんの「原節子の真実」を2日で6時間かけて一気に読みました。

小津安二郎監督の作品を2,3本見ただけで分かったような顔をしてた自分が恥ずかしくなるくらい幼少期から丹念な調査、取材に基づき原さんの人間像を描いた傑作でした。より詳しく知ることでますます惹かれます。

原さんのデビュー作、河内山宗俊はYouTubeにあったので、この本をガイドブックに、まだ観てない作品を見つけてぼちぼち鑑賞するのを老後の楽しみにしたいと思います。

裕福な家庭から没落して女優になった経緯、ドイツの映画監督との出会いからスターへ駆け上っていく経緯、当時世間から低く見られていた女優という職業に対する新しい進歩的な考え、戦争、山中、黒沢、島津、山本、小津監督との出会い、一度だけの初恋、家族愛、高度経済成長、引退等ドラマチックな人生を送られています。なんか、このままNHKの朝の連続ドラマにしてもよさそうです。

今まで自分が持っていた原さんに関する断片的な間違った情報による知識を多く修正できました。石井さんはこの本を読んだ限りでは徹底した取材により、人の本質を浮かび上がらせるのが得意と思います、特に女性について。

今年読んだ本で一番面白かったです。お勧めの1冊です。

最近見つかった原さんのエッセイを石井さんが紹介されていましたが、原さんの心の温かさが伝わると思ったので1つだけご紹介します。

省電の中で。
若い娘さんが座席にかけてゐた。その前に若い母親が乳児を抱いて立つてゐた。やがて娘さんが、「どうぞ、抱こさせて下さい」と若い母親に手をさしのべた。すると隣りにかけてゐた紳士が 「抱いてあげる親切があつたら、席を譲りたまへ、君は若いンぢやないか」 とその娘さんに呶鳴つた。(いかにも罵倒的に。)娘さんはまつ赤になつた。 「では、お言葉に甘えまして。すみませんわねえ」 若い母親はさも嬉しさうに乳児を娘さんに与へた。娘さんはホツとしたやうに若い母親を見上げてほほゑんだ。わたしも救はれたやうにホツとした。 紳士は「善」を知つてゐると云へよう。けれども「善」を行へないたぐひであらう。


原節子の真実(新潮文庫) Kindle版石井妙子 (著) 形式: Kindle版






■参考リンク
Wikipedia:原節子
原 節子(はら せつこ、1920年6月17日 - 2015年9月5日)は、日本の女優[1]。本名は會田 昌江(あいだ まさえ)。「永遠の処女」と呼ばれ、戦前から戦後にかけて活動し、日本映画の黄金時代を体現した。代表作に『わが青春に悔なし』、『青い山脈』、『めし』、『東京物語』などがある。
1963年に女優業を引退し、2015年に死去するまで隠遁生活を送っていた[3]。
2000年に発表された『キネマ旬報』の「20世紀の映画スター・女優編」で日本女優の第1位に輝いた。
経歴
神奈川県橘樹郡保土ヶ谷町帷子(現在の横浜市保土ケ谷区月見台)で父:藤之助、母:ナミの間に末っ子として生まれた。兄弟は男2人、女5人であった[4]。保土ヶ谷尋常高等小学校(現:横浜市立峯小学校)から私立横浜高等女学校(現:横浜学園高等学校)[5][6]に進むが、家庭が経済的に困窮していたこともあり、次女光代と結婚していた映画監督の熊谷久虎の勧めに従って映画界に入ることにし、女学校を二年で中退した[1]。
1935年4月15日、日活多摩川撮影所に入社し、同年の日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲監督)で映画デビュー。同作で演じた役名「節子」から芸名をとって「原節子」とした[7]。
1936年、第7回出演作品『河内山宗俊』撮影中に見学にきたドイツのアーノルド・ファンク監督の目にとまり、初の日独合作映画『新しき土』のヒロイン役に抜擢される。ファンクは当初、田中絹代も一緒にキャスティングしようとしたが田中が松竹の専属であったためにかなわず、原のみのキャスティングとなった。伊丹万作監督も請われて協力したこの作品は、結果としてファンクが編集した版と、ファンクと対立した伊丹が編集した版の両方がつくられてどちらも公開された。
1937年3月12日、原は義兄熊谷久虎や東和の川喜多長政らと共に下関から海路大連に向かった。そこからシベリア鉄道を利用して3月26日にベルリンに到着。先に帰国していたファンクが一行を出迎え、アドルフ・ヒトラーはじめ、ナチ党幹部がこの映画をすでに見ており、皆から高評価を受けたと伝えた。宣伝省の工作もあって、原はドイツ各地で大歓迎された。この後一行はフランスからアメリカへ渡り、7月28日に帰国した(ちなみにこの『新しき土』における日独合作映画の製作は、11月25日に締結される日独防共協定の交渉と準備のための両国スタッフの往来をカモフラージュするためのものだったという[8][9]。
11月30日に発足した東宝映画株式会社に移籍する。『新しき土』への出演によって一躍、銀幕のスターダムに駆け上がった原だったが、「もっと勉強してからスターになるべきだった」と小杉勇が述懐したように、しばしば演技が未熟であるという批判にさらされることになる[10]。今井正によれば、戦中の原は義兄熊谷久虎[注釈 1]に影響されて「ユダヤ人謀略説」を唱えていたという[13]。太平洋戦争中は、1942年の『ハワイ・マレー沖海戦』をはじめ『決戦の大空へ』、『勝利の日まで』、『望楼の決死隊』などの戦意高揚映画に数多く出演している。
1946年9月、終戦後の翌年の原は資生堂のイメージガールに起用され、戦後初の多色刷りポスターが街中を賑わせた。さらに黒澤明監督の戦後初の作品『わが青春に悔なし』のヒロインに抜擢される。当時の東宝はいわゆる東宝争議のさなかにあり、そのあおりを受けた原は新東宝映画製作所に移る。
1947年6月フリーの女優として独立する[14]。フリー第一作は初の松竹出演作品となった『安城家の舞踏会』(1947年)であった。同作のヒットで原は戦後のトップ女優としての地位を確立した。
1949年、『青い山脈』では女性教師役を演じ、服部良一作曲の同名主題歌とともに映画も大ヒットした。初めて小津安二郎監督と組んだ作品『晩春』に出演。1961年、『小早川家の秋』まで小津監督の6作品に出演を果たすことになる。
原は一般的に小津作品での印象が強いが、出演作の中でもっとも多くメガホンをとったのは山本薩夫監督(7本)であり、以下6本で小津、島津保次郎、渡辺邦男、今井正が続く。小津監督は女優としての原節子を絶対的に高く評価し、自らの作品に起用し続けた。
1949年(昭和24年)、は『晩春』、『青い山脈』、『お嬢さん乾杯』の演技が評価され、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞した。ルックス先行の人気、とささやかれてきた原にとって演技面での評価をうけることは長きにわたる宿願であった[15]。1952年の『東京の恋人』以降、しばらく出演作が途絶えたことでマスコミから「伝説の存在」と表現されるようになった(1953年公開の『恋の風雲児』は1945年作品)[16]。ところが原が現場に復帰した1953年、『白魚』の御殿場駅での撮影中に原の眼前で実兄会田吉男(東宝のカメラマンであった)が助手の伊藤哲夫と共に列車に撥ねられ不慮の死を遂げるという悲劇に遭った。小津監督と原の代表作になった『東京物語』はこの事件の直後にクランクインしている[17][18]。1954年、原は体調を崩して通院を繰り返すことになり引退をささやかれるようになった[19]。
1955年、公開された『ノンちゃん雲に乗る』では初めて母親役を演じる。体調が回復した。
1956年、作品『婚約三羽烏』が原にとって初のカラー作品である。
1961年、日本映画の年間製作数は548本に達するが、これをピークに映画産業は斜陽化していく。
1962年、稲垣浩監督による東宝創立三十周年記念作品『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』が封切られ、原は大石内蔵助の妻りくを演じた。これが原にとって最後の出演作品となった。
1963年12月12日、小津監督が東京医科歯科大学附属病院で没し(その日は小津監督の還暦の誕生日だった)、その通夜に出席したのを最後に原は女優業を事実上引退し、以降表舞台には一切姿を見せなくなった[1]。晩年の原は鎌倉市で親戚と暮らしているとされ、近況に関しては殆ど外出しないが元気であったということだけが伝えられた[20]。引退に関しては「老いていく姿を人前に晒したくないと考えていた」「撮影用のライトで白内障を患い、健康上の理由で引退を決意した」「戦前の国策映画に出演していた自分の責任を強く感じており、けじめをつけるべきだと考えていた」といった様々な憶測が飛び交った[20]が、高橋治は原が「小津の死に殉じるかのように」公的な場から身を引いたと表現している[21]。当時、その理由として「畳の上での芝居がしづらくなったから」と岡田茉莉子に語っている[22]。
1968年9月、小津との共同脚本家野田高梧の通夜に出たのを最後に、公の場から姿を消した[23][22]。
1993年、笠智衆の通夜前に極秘に訪れ、一部の関係者に気付かれたのが最後の目撃であった[24]。
1994年、東京都内のかつての自宅の土地を売却し、約12億円の所得を得たことで、この年の高額納税者番付で全国の75位で登場し、この時再び話題となった[25]。
2015年9月5日、肺炎のため神奈川県内の病院で95歳の生涯を閉じた。原の訃報は没後約2か月半が経過した11月25日にマスメディアで伝えられた[3][26]。
評価
小津安二郎監督は「一時世間から美貌がわざわいして演技が大変まずいというひどい噂をたてられたこともあるが、僕はむしろ世間で巧いといわれている俳優こそまずくて彼女の方がはるかに巧いとすら思っている」とし[40]、1951年には「原節子ほど理解が深くてうまい演技をする女優は珍しい。『原節子は大根だ』と評するのはむしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだ。実際、お世辞抜きにして、日本の映画女優としては最高だと私は思っている」[41]とも語っている。現役女優の頃は美貌のトップ女優で、その早い引退と引退後の完全な隠遁生活、生涯独身を貫いたことなども同じことから『日本のグレタ・ガルボ』と言われている。
原と同様、小津作品に多数出演した俳優の笠智衆は著書『大船日記』で「原さんは、きれいなだけじゃなく、演技も上手でした。ほとんどNGも出しません。めったなことでは俳優を褒めなかった小津先生が、『あの子はウマいね』とおっしゃっていたのですから、相当なもんです」「普段はおっとりとして、気取らない方でした。美人に似合わずザックバランなところもありました。撮影の合間に、大きな口を開けて『アハハ』と笑っとられたことを覚えています」と回想している[42]。
原と共演したことがある女優の司葉子は原の一番の魅力を「清潔感」と指摘、「演技では出せない生地の魅力」としている[43]。司は引退後の原と電話で時々会話をしていた[44]。
2014年発表の『オールタイム・ベスト 日本映画男優・女優』では日本女優4位となっている[45]。





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Last updated  2020.06.08 23:46:33



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