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秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2022.01.22
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プロジェクトXで液晶電卓誕生の物語を観ました。

開発担当者は、以前失敗したプロジェクトに失敗して左遷されていましたが、実用化困難とされていた液晶の将来性に着目して、上司の佐々木氏(後の副社長)を説得して開発に取り組み、プロジェクトが難航する中、ひょんなことから開発を成功させました。

液晶は現在当たり前のようにどこでも使われていますが、多くの苦労があったことを知り驚きました。それだけにシャープが、台湾系の企業になってしまったのが、残念です。

佐々木氏がソフトバンクの孫社長の恩人なことは、以前から知っていましたが、アップルのスティーブ・ジョブス氏の恩人でもあり、iphone誕生にも影響を与えていたことを知り、びっくりびっくり

なかなか面白い作品で、おすすめです。



2023.10.6リンク切れにより差替え。




■参考リンク
新価格版 プロジェクトX 挑戦者たち 液晶 執念の対決 ~瀬戸際のリーダー・大勝負~
「液晶ディスプレイ」この技術を世界で最初に商品化したのは、日本の中堅企業早川電機(現・シャープ)だった。
解散の危機、偶然に発見、そして逆境覚悟の大勝負。会社という組織の中で、逆境に耐え、果敢に挑戦を続けた技術者たちの奇跡を描く。
【収録内容】
実現までの道のりはけっして平坦ではなかった。昭和40年代、大阪の中堅メーカー早川電機(現・シャープ)では、社内での開発競争も熾烈だった。結果が出せないプロジェクトは即解散。そんな中で“未知の技術”液晶の開発に乗り出したのは、和田富夫だ。壁掛けテレビの開発に“失敗”して管理部門に甘んじていた和田は、ある日偶然にも液晶の可能性を目にする。「これだ」と直感した和田は、会社に直訴し、ようやく開発の許可をえる。11人の急造チームは、和田と同じ境遇の“あぶれ者”と新人の寄せ集めだった。
液晶の開発は、思うようには進まなかった。結果が出なければ、また解散だ。和田は一計を案じた。当時、シャープの主力商品は電卓。表示部分には蛍光表示管が使われていた。格段に軽量で消費電力の少ない液晶を、電卓に載せることができれば、液晶が生き延びるだけでなく、市場に革命が起こせる…。
(2001年4月17日放送)

2023.10.6リンク切れにより差替え。
電卓戦争


YASUYUKI ONISHIBUSINESS2018.02.04 WIRED追悼、佐々木正──孫正義もジョブズも憧れたイノヴェイター、その「偶然と必然」に満ちた102年の生涯
抜粋
「電卓戦争」が遺した功績の数々
シャープはライヴァルのカシオ計算機と激烈な「電卓戦争」を戦っている最中だった。佐々木は当時「量産は難しい」とされていたMOS LSIの採用を決断する。
半導体工場をもたないシャープは国内の半導体メーカーに量産を頼むが、バイポーラ(二極)LSIの量産ラインをつくったばかりの彼らは一様に尻込みをする。米国でもほとんどの半導体メーカーに断られるが、最後の最後に乗ってきたのがロックウェルだった。
ソ連との激烈な宇宙開発競争を戦っていたアメリカは、宇宙船の軽量化のため小さくて軽い半導体を求めていた。佐々木が提案しロックウェルに量産させたMOS LSIは、アポロ12号の着陸船に採用され、のちに佐々木は米航空宇宙局(NASA)から「アポロ功労賞」を贈られている。
MOS LSIを採用することで電卓の価格は5分の1、重さは18分の1になった。そしてこの半導体はいまなお、われわれが使っているパソコンやスマートフォンの中に入っている。
「電卓戦争」で佐々木が遺した功績はMOS LSIだけではない。例えば液晶パネル。電卓を薄く軽くするため、それまで使われていた蛍光管の一種であるニキシー管を液晶パネルに置き換えたのも佐々木である。
液晶そのものは遙か昔に発見され、製造特許はRCAがもっていた。しかし、輝度が低く応答スピードも遅いため「使えない」と捨て置かれていた。これを「薄くて軽いディスプレー」として世に送り出したのが佐々木である。その技術は液晶テレビに応用され、のちにシャープは「液晶帝国」を築くことになる。
もうひとつの遺産は太陽電池だ。電卓を重くする最後の要素だった乾電池をなくすため、佐々木は太陽電池を採用した。液晶同様、使い道のなかった太陽電池がにわかに脚光を浴び、今日の太陽光発電につながった。

孫正義から恩人へ「すべては先生との出会いから始まりました」PRESIDENT 2014年8月4日号 岡村 繁雄
抜粋
佐々木が「あのとき」と振り返るのは1977年夏の出来事である。孫がカリフォルニア大学バークレー校在学中に共同開発した「音声機能付き電子翻訳機」のサンプルを携え、奈良県天理市にあるシャープ中央研究所を訪ねてきたのだ。
「まだ少年の面影を残した彼が、アイデアを買ってほしいと売り込みにきたんです。説明の最中も、目の輝きが異様に鋭い。『これはただものではない』と感じました。私は英語版翻訳機の研究開発費として2000万円出すことを即決しました。国連の公用語は8カ国語ある(当時)ので、英語版が完成したら他国語版も手がけなさい。合計1億6000万円の可能性があるとアドバイスしたのです」

Wikipedia:佐々木正
佐々木によれば、1979年、シャープに自動翻訳機を売り込んできた孫正義に資金1億円を与えた。孫は、米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立。のちにソフトバンクとなったという。また、1980年代中盤、事業に立ち悩んでいたスティーブ・ジョブスに相談を持ちかけられ、ネットワーク基盤の携帯型IT機器の時代が来るとの進言をし、後のiPhoneの開発につながったという[7]。





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Last updated  2023.10.06 18:42:33
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