4232582 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Free Space

Calendar

Category

Recent Posts

Comments

Favorite Blog

『インビジブル・フ… あんずの日記さん

コレ、いいかも☆ natsu。さん
ハワイアン生活  … hayatoman20さん

Freepage List

2024.03.24
XML
カテゴリ:旅行 Travel
3月23日からの広島旅行でまず訪れたのは原爆ドームです。田中詩乃さんのYouTubeのガイドを観て興味を持ちました。広島原爆の爆心地はてっきり原爆ドームと思い込んでましたが、近くの島病院だったそうです。

ライトアップされた原爆ドーム。昼間の姿とはちょっと違った冷たさ、近寄りがたさを感じます。


昼間の原爆ドーム。空港から広島バスセンターまでリムジンで行き、そこから歩いて5分くらいです。雨なのに結構にぎわってました。


爆心地の島病院。23日は行けなかったので翌日山口から帰ってから、広島電鉄の路面電車で行きました。島病院では4000度の高熱で、スタッフ、患者さんは一瞬にして亡くなったとのこと。みんな誰かもわからない白骨状態の中で、金歯から婦長さんの身元が分かったそうです。厚さ1mの壁を持つ頑丈な建物も、原爆により破壊されたとの事。


投下目標は上空からでも目立つT字型の相生橋。多くの被ばくされた方が川に飛び込んだそうです。




■参考リンク
【ヒロシマの空白 被爆75年】街並み再現 爆心地の島病院、継ぐ思い2020/7/19(最終更新: 2020/7/31)中国新聞デジタル(桑島美帆)
 爆心地の代名詞のように知られる「島病院」は1933年、故島薫さんが広島市細工町(現中区大手町)に開いた。45年8月6日朝、原爆によって壊滅し、医師や看護師、患者約80人の命が奪われた。被爆前に撮影され、病院関係者宅で焼失を免れた写真を、現在も同じ地で医院を営む島家が大切にしている。最近見つかった薫さんが自ら書いた死没者名簿なども手掛かりに、かつてのたたずまいをたどる。
 ▽「地域のため」戦時中も奮闘
 左腕に腕章を着け、軍刀を握り締めた衛生兵たち。戦地に赴く前の記念だろうか。院長の故島薫さんの膝の上で、日の丸の旗を手にした幼子も写る。「中庭で撮った写真です。4歳ごろの私でしょう。隣は母と二つ下の妹です」。長男の一秀さん(85)が遠い記憶をたぐり寄せた。
 戦前の繁華街、旧中島地区から元安川を隔てて東側に広がる細工町周辺は、広島県産業奨励館(現原爆ドーム)や広島郵便局など、洋風の建物が並んでいた一帯。中でも約1300平方メートルの敷地に立つ島病院は、米国の病院を模した近代的なデザインが目を引いた。
 猿を5、6匹飼っており、中庭の小屋を近所の人がよく見に来たという。「患者さんを楽しませるためでしょうね。餌をあげるたびによう逃げよったです」と一秀さん。
 「壁の厚みは1メートル以上あり、空襲に耐え得る」と薫さんが自慢していたれんが造り2階建ての病院は、原爆により玄関付近を残して廃虚と化した。医師も看護師も患者も即死。白骨が散乱していた。
 島家に残る死没者名簿の患者一欄には、郡部を含む広島県内各地や山口県の在住者、朝鮮半島出身者の名も並ぶ。「広島外科学会の父」と称された薫さんの技術が戦前から広く知られていたことを物語る。医療費が払えない人の治療を拒まず、御礼に野菜が届けられることもあったという。
 知人に手術を頼まれ、甲山町(現世羅町)に出ていた薫さんは、「広島全滅」の一報を受けて細工町へと急いだ。しかし熱に阻まれ、焼け残った銀行などに寝泊まりしながら袋町国民学校(現袋町小)の臨時救護所で負傷者の治療にまい進した。83年出版の回想録には、職員と患者たちを捜し歩いたことや、遺族が訪ねて来ると、誰のものかも分からない骨の代わりに一握りの土を持って帰るよう伝えたと記す。
 医師で警防団員でもあった自分があの日病院にいなかったことを「胸に五寸くぎを打たれた気持ち」と悔い、人前で原爆について語ることはほとんどなかった。「8月になったら休みが欲しいと懇願するお手伝いさんに『忙しいけえ、盆まで働いてくれ』と頼んだ、と涙をこらえて言うちゃったことがある」。一秀さんの妻直子さん(76)にとって忘れられない、義父の一面だ。
以下略。

島病院■ゼロメートル地点■:中国新聞社
爆心地となった細工町29番地の2の島病院では、どれだけの人が犠牲になったのか。島薫院長の遺稿集(1983年編さん)にある回想録によると、「80人ばかりの人が亡くなった」。
 「病室は当時ほとんど満室で50人は入れました。それに、食事の支度をする患者さんの家族が付き添っていました。看護婦はいずれも住み込み。10人はいたと記憶しています」。原爆投下の前日、世羅郡甲山町への出張手術に同行していた看護婦の松田(現姓入澤)ツヤ子さん(73)は広島県内で健在であった。
 レンガ造り2階建ての病院は、6人部屋から個室までの15室を備え、困窮患者をみる木造の施療7室もあったという。敷地約1320平方メートル。その中庭で原爆投下の2年前、院長親族とともに看護婦や職員が勢ぞろいした写真が残っていた。
 「玄関の門柱そばに、黒焦げの遺体が一つだけあり、金歯から婦長の宮本さんだと分かりました。ほかの人は皆下敷きになっていたと思います」。松田さんはその夜に島院長と爆心地に戻り、袋町小に運び込まれた人たちの救護に努めた。
以下略。

Wikipedia:広島市への原子爆弾投下
広島上空
7時過ぎ、エノラ・ゲイ号に先行して出発していた気象観測機B-29の1機が広島上空に到達した。クロード・イーザリー少佐のストレートフラッシュ号である。7時15分頃、ストレートフラッシュ号はテニアン島の第313航空団に気象報告を送信した。「Y3、Q3、B2、C1」(低い雲は雲量4/10から7/10で小さい、中高度の雲は雲量4/10から7/10で薄い、高い雲は雲量1/10から3/10で薄い、助言:第1目標を爆撃せよ)[注 4]。
この気象報告を四国沖上空のエノラ・ゲイ号が傍受し、投下目標が広島に決定された[注 5]。原爆の投下は目視が厳命されており、上空の視界の情報が重要であった。
ストレートフラッシュ号は日本側でも捕捉しており、中国軍管区司令部から7時9分に警戒警報が発令されたが、そのまま広島上空を通過離脱したため、7時31分に解除された。
8時過ぎ、B-29少数機(報告では2機であったが、実際には3機)が日本側によって捕捉された。8時13分、中国軍管区司令部は警戒警報の発令を決定したが、各機関への警報伝達は間に合わなかった。ラジオによる警報の放送もなかった[11]。
8時9分、エノラ・ゲイ号は広島市街を目視で確認した。中国軍管区司令部が警報発令の準備をしている間に、エノラ・ゲイ号は広島市上空に到達していた。高度は31,600フィート(9,632メートル)。投下に先立ち、原爆による風圧などの観測用のラジオゾンデを吊るした落下傘を三つ降下させた。青空を背景にすると目立つこの落下傘は、空を見上げた市民たちに目撃されている[12]。この時の計測用ラジオゾンデを取り付けた落下傘を原爆と誤認したため、「原爆は落下傘に付けられて投下された」という誤った流説が流れた。[注 6]。一部のラジオゾンデは「不発の原子爆弾がある」という住民の通報により調査に向かった日本軍が鹵獲した[14]。広島県安佐郡亀山村に落下したラジオゾンデは、原爆調査団の一員だった淵田美津雄海軍総隊航空参謀が回収している[15]。また一部の市民は「乗機を撃墜された敵搭乗員が落下傘で脱出した」と思って拍手していたという。
8時12分、エノラ・ゲイが攻撃始点(IP)に到達したことを、航法士カーク陸軍大尉は確認した。機は自動操縦に切り替えられた。爆撃手フィアビー陸軍少佐はノルデン照準器に高度、対地速度、風向、気温、湿度などの入力をし、投下目標(AP)を相生橋に合わせた。相生橋は広島市の中央を流れる太田川が分岐する地点に架けられたT字型の橋である。特異な形状は、上空からでもその特徴がよく判別できるため、目標に選ばれた。
8時15分17秒、原爆リトルボーイが自動投下された。副操縦士のロバート・ルイスが出撃前に描いたとされる「爆撃計画図」によると、投下は爆心地より2マイル(約3.2キロメートル)離れた地点の上空であると推察される[16]。3機のB-29は投下後、熱線や爆風の影響を避けるために進路を155度急旋回した。再び手動操縦に切り替えたティベッツはB-29を急降下させた。
リトルボーイは爆弾倉を離れるや横向きにスピンし、ふらふらと落下した[要出典]。間もなく尾部の安定翼が空気を掴み、放物線を描いて約43秒間落下した後、相生橋よりやや東南の島病院付近高度約600メートルの上空で核分裂爆発を起こした[注 7][注 8]。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2024.03.26 18:06:13



© Rakuten Group, Inc.