忍草 26 無常の風 の巻 5 最終章
忍草 26 無常の風 の巻 5 最終章 寿命ばかりは継ぎ足しができねえって? 桜に散り際があるように、草にも枯れ時がある、 だがねえ、次の春がくれば、また、芽を出すのかもしれねえよ、 春がきたというに、鯉兵衛の心は暖かくならず、晴れてもいなかった。 鯉兵衛は帰る古里が焼かれ、消滅したことで、すっかり気力を失せさせていた。 少しづつ身辺を片付け、女房のお鮒も里に返し、伊賀の曲崖郷に隠居するつもりであった。それが老後の夢でもあった。だが、稲荷様に石を積んでも、中忍からの連絡はなかった。 いったい、何のために生きてきた、いままで生きて、何をしてきたのだろうか、 自分が何処にもいない偽りの人生は充分生きた。これからは自分の人生を生きようと思っていた。 忍草の寿命も尽きようとしている、、、宿命というのはこういうことなのか? さらに、見張られている、探られている、危険が迫っているという勘が忙しく働いていた。 家主の伝蔵には、南町奉行の妖怪、鳥居耀蔵がまた伝蔵の娘のお蝶のことを探っている、今度こそお蝶が危ねえと伝え、お蝶は上方の大店へ嫁に行くという筋書きで、急遽遠州親戚筋へ逃がした。 ぽん吉は家斉暗殺事件後、江戸城から姿を消し、蛇抜け長屋にも帰らず、その足で、川越へ隠居した元伊賀者の農家へ潜り込み、芋畑で働き、日焼けし、百姓言葉を使い、声も一段下げ、太り黒子を付け、田舎者の醜貌に化けた。(四方髪の術) 蛇抜け長屋へお芋などど、ふざけた名前で帰ってきたが、これとて危険だ。 いかさま博打でわざと負け、五十両もの借金をこさえ、本所の悪党、鬼熊一家に紛れている、菊之介はご丁寧に背中へ桜吹雪の鮮やかな彫り物まで入れて変装しているが、これだって危ねえ。 鳥居耀蔵だけではない、伊賀の棘●と云う忍者も動いている、侮ることはできない。鯉兵衛は、これから、どう動いたらいいものか、考えあぐねていた。~草が草と知れちゃあ、あがいても、むだなことか?~ 下っ引きの粂次が慌てふためいて蛇抜け長屋に駆け込んできた。木戸番兼大家の蜘蛛左に、「てえへんだよっ、長屋のお改めにくるよ、何でも草刈りだそうだ、この長屋に草という忍者が隠れ住んでいると、お奉行の鳥居様以下、同心の間河長十郎、岡っ引きの権六、それに小者を引き連れて、あっしもその中のひとりなんですが、とりあえず、知らせなけりゃと、思って、急ぎ足で、、、」 「粂次、ありがとうよっ、恩に着るぜ、だが、この長屋に忍者ねえ?、、、」 長屋中は天と地がひっくり返ったような大騒ぎで、誰もが疑心暗鬼。家主の伝蔵も慌てふためいて、駆けつけてきた。 「皆の衆、悪いことはしちゃぁいねえだろ、隠すことはなにもねえ、聞かれたら、正直に話すんだよ」 南町奉行鳥居耀蔵以下、同心間河長十郎、岡っ引き権六、その手下の者ども、数十人が長屋の木戸を塞ぐようにして、出入りを止め、一軒一軒長屋の取り調べが始まった。 木戸番兼大家の背丈の低い蜘蛛左は、人別帳をもとに長屋住民のあれこれを、同心、間河長十郎に説明させられていた。 岡っ引きの権六が腰高障子を開け、小者と部屋の中を探索する。部屋の中と云ってもたかだか六畳一間の狭さである。天井裏、床下を調べても手間はかからない。 太助と病気の婆さん、駕篭かきの熊さんとお福、八つぁんとお萬、夜泣き蕎麦屋の喜助と、娘のおけい、大工の甚八と女房のおとき、あとは子供ばかりだ、 どこにも怪しい物はない、煎餅布団と茶碗が転がっているだけで、碌な荷物もありゃしねえ。 だが、ここからが本命だ。目星をつけてあった、ぽん吉の住んでいた長屋の前に立つ。ここは流すわけにはいかねえ、一呼吸いれてから、 「此処の住人は新しいな、たしか以前はぽん吉とかいう辰巳芸者だったはずだが」 「へいっ、ぽん吉姉さんは生き方知れずで、今はお芋という、年増が棲んでいまして、へいっ、お届は自身番の方へ、へっ、済んでおりますで、」 腰高障子を開ける。お芋は継ぎはぎのもんぺ姿の野良着で、きょとんとした顔で権六を見る。 「おいっ、手前がお芋か、なるほど、醜貌じゃの、芋と云う名がつくぐらいだから屁もするだろうな、えっ?、忍者は屁をこけねえっていううからな、証明ついでに、一発やってみてくんな」 お芋は日に焼けた浅黒い肌で、鼻の横の黒子をなぞって、思わず破顔した。 「へえっ、田舎者のぶ女ですがね、これでも、どこかの金持ちのいい男を探して玉の輿に乗ろうと、八百金の店先で商売してるんですよ。旦那、お望みなら川越の芋っ屁を嗅がして御覧に入れますよ、鼻が曲ってもしりませんよ、それっぶっーー」 お芋は一世一代の大屁をぶっ放した。 「うへえぇ、臭え臭え、よくもそんな臭え屁が出るもんだ!」 権六はぴしゃりと障子を閉めた。草ではない、川越の芋女の阿婆擦れだ。あんな忍者がいるものか。 部屋の中のお芋は腹の中に隠した鼬(いたち)をつまみ出して頭を撫ぜ、 「少しは遠慮せぬか、わちきも堪らぬわ」 と、呟いて笑っていた。忍法鼬腹の術。 「ここが、遊び人の菊之介か、女たらしの色男だと聞いたがな?、、」 「今じゃすかっり落ちぶれて、とんでもねえ下衆な野郎になりさがってますよ」 権六は障子を思い切り開けた。九尺二間の畳の真ん中で押し肌脱いで、背中を向けて座っていた。桜吹雪が見事に咲いていた。 「やいっやいっやいっ、俺が鬼熊一家の菊之介でぃ、なんの調べか知らねえが、この背中の桜吹雪散らせるものなら散らしてみろうっやっ、」 岡っ引きの権六、おもわず、たじろぐ。 「へっ、遠山の金四郎を気取りやがって、おいっ、遠山様にはねえっ、彫り物なんかあらやしねえよ、 あれは歌舞伎者の洒落物語だよっ、まっ、おめえが天下の虚け者だってことはわかったよ」」 また、不発である、とんだ、洒落者だ、棒にも箸にもかからねえ、軟弱者だ。それに、忍者に刺青とは聞いたこともねえ、だいいち、あれじゃ、女にも化けられねえ、だが、権六、気を取り直して、いよいよ、鯉兵衛の部屋の腰高障子に手を掛けた。 「こいつが大本命だ、気合を入れろ、逃がしやしねえぞ、」 がらがら、無造作に、障子を開ける。わっ!白蛇が蜷局を巻いて待ち構えていた。これがあの白蛇か?、、権六が眼を剥く、頭に血が上る。腰の十手を抜き、滅多やたらにその白蛇に叩きつけた。「ふっふっふっ、、、」 鯉兵衛は部屋の隅に蹲って、じっと権六の仕様を眺めてにやついていた。 権六は睨み付けた視線を鯉兵衛から、白蛇に戻すと、叩かれて潰れていたはずの白蛇は消え、無残な姿を晒していたのは鰻だった。忍法変獣の術 「おいっ、おちょくりやがったな、それも忍術のひとつかい、鯉兵衛、この間は邪魔者が入ったが、今日はそうはいかねえ、番所まで来て、忍草とかのこと、洗いざらい話してもらおうか」 「権六親分とか、いいなすったねぇ、あっしは逃げも隠れもしませんよ、この先いくらも生きやしねえ、帰る所もありゃしねえ、もう、終いですよ、この場で、ばっさりやっておくんなせいな」 「そうもいかねえよ、いずれ、打ち首獄門になるだろうが、咎人は生きて捕えるのが御定法ってもんだ、お縄をかけさせてもらうよ」 と、その時、棘●の手裏剣が飛んだ。曲線を描いて、捕り縄を空に舞いさせ、鯉兵衛が奥歯の毒を噛み砕いて自害しようとした、下顎を切り裂いた。あっ、と権六がびっくらこいていると、火薬玉が長屋の木戸、水場で破裂した。 濛濛と煙が漂い、長屋中が白闇の煙幕に包み込まれる。一寸先も見えない。 間河長十郎に権六、配下の手下たちは、何が起きたのか分からずに狼狽える、目を擦り、口を押えて、咳をする。げぼっげぼっげぼっ、、、 火薬を使い、煙幕を張って、相手から隠れ逃げる「火遁の術」という。 長屋を包んでいた、白煙が風に流された頃、神田川に沿った柳原土手を二人の虚無僧が歩いていた。 「石道、なぜ儂を助けた?儂はもう老いた、お終いだよ、それに、帰る所も、行く当てもない」 「鯉兵衛は水猿は死んだのじゃ、それでいいのじゃよ。拙僧の儂も伊賀の棘●も、すでに死んだ。 はてっ、これからどんな草が生えるやら、人様の役にでも立てる草になれればいいのじゃが」 「密命とはいえ、さんざん人を殺した悪がこれから善をおこなうというのも、ほめられたことじゃねえな、忍草の罪は死んでも消えやしねえな」 「遠山の金四郎がね、背中の彫り物がじくじく痛んでしょうがねえっとさ、罪は消えやしないがね、その命の寿命、継ぎ足してみてはどうかと思っただけさ」 「さて、無常の風にふかれて何処へ流れていくのやら」 「散れ!」、どこから『密命』がくだされたのか、、、 あれから、お芋こと霞のお銀も、菊乃介も、たんぽぽの花が風に吹かれて、霧散するように、江戸の町から流れて消えていった。どこへどろんして、その後、どうしているのか? しかし、江戸のどこかの町へ紛れ込んで、いつ、また『密命』がくだされるのかと怯えながら、暮らしているのに違いなかった。忍草にも無常の風は吹いていた。 草と呼ばれた下忍は何の足跡も、臭いも、色も、まして、戦果などは記録には残されていない。歴史の闇に蠢いていた虫けらにすぎない。 だから、忍草(しのぶくさ)だともいえた。忍草 無常の風の巻 終り 朽木一空