一攫千金 富くじでい
江戸の世も、一攫千金富くじでい 文蔵長屋の竹松、有頂天、「当たった当たった!富くじが当たった、」と、大はしゃぎ、「これでおいらの人生大逆転でぃ、もう、貧乏長屋の世話にはならねえ、大家さんさようなら、、」「竹松よ、それでいくらの富くじを当てたのだね」「大家さん、驚いちゃいけねえよ、鶴の2135番、百両でい、、」「そりゃあ、おめでとう、それでその富くじは誰から買ったんだい」「小間物屋の治兵衛さんからだよ、」「ああ、一文で買った陰富(かげとみ)だね、そらあねえ、陰富はね、当たりはみんな一緒、竹松のところには八文しか戻らないよ、」「えっ、そりゃあねえよな、、」 江戸三大富くじといえば、湯島天神、谷中感応寺、目黒不動尊、の三か所が”江戸の三富”と呼ばれ、大変な人気で賑わったのでございますよ、 いつの時代でも賭け事はすたらないようでございますなあ、まあ、人の性というもでございましょうかねえ、 富籤(とみくじ)は、富突(とみつき)きとも申しまして、江戸時代には寺社普請の為の資金集めの方法でございました。 富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金を給するのでございます。 富付きの日には、湯島天神の境内は大勢の人が押し寄せ、欲の皮が突っ張った眼付で富付きの瞬間を見守るのでございます。 木箱に、札の数と同じ番号を記入した木札を入れ、箱を回転させてから、穴から(きり)を入れて「エイヤッ!」と、木札を突き刺し、その番号を読み上げるのでございます。 番号には,鶴亀、松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、七福神、十二支などに分類し、松の2353番、鶴のの9641番というような番号札になっております。 褒美金は10両、20両、100両、200両、突き止めは1000両にもなった。 だが、富くじは一枚一分(およそ25000円)と高額だったので、庶民は札屋から割札(半割札、四人割)を買うことが多かった。もちろん当たっても、褒美金も半分、四分の一である。 それでも高くて手が出ない、裏長屋の人たちは、陰富といわれた、個人が勝手に富くじを作ったものを一枚一文(およそ30円)で買ったのだ、、 富くじのあたり番号が発表されると、当たった番号の富くじには、八倍の八文にして返した、当然、闇の商売なので、お上に知れれば処罰されるので、あたり番号を配る時には瓦版屋をよそおい、「お話し」だよ「お話だよ」と言って、町を触れ歩いていたそうだ。 一文で買える気軽さから、大人気になり、はじめは長屋の貧乏人のお慰みであったが、後には武士階級にも広がり、御三家のひとつの水戸家でも陰富の勧進元となったそうだからびっくりでございますね。文蔵長屋の竹松の買った富くじもこの陰富でございました。 そうなるってえと、幕府も放ってはおけない。 天保13年、質素倹約の天保の改革を進めていた、時の老中老中水野忠邦は 富くじ興行を一切差止する触れを出したのでございます。 では、富くじ川柳をお聞きくださいませ、、 ~突く日には 湯島沸くほど人が出る~ ~富はこれ 一生の財なくす種~ ~富をとったら 先ず家をこう建てて~ ~富札の 引きさいてある 首くくり~ 富くじなんぞに運命(さだめ)を委ねちゃいけませんよ、、 あっしも一枚買いました 笑左衛門