徳川吉宗の影武者 8
浮説 徳川裏史疑隠密秘聞帳 34 徳川吉宗の影武者 8 大奥の美女悲し 吉宗がお忍びで江戸の町を歩くと、やたらに町道場が目についた。 だが、その町道場を覗き、道場破りもしてみたが、道場の師範代でさえ、とても武士としての剣術稽古とは思えぬ軟な剣捌きで、武芸を奨励していた吉宗は失望した。 お庭番に町道場の実態を探索させたところ、御家人や旗本の次男三男が始めた町道場はやり繰りに窮していて、商人や農家の子供たちを集めて、お遊びごっこのような稽古をして銭を集めている道場が多いのだという。 目録や免許は剣術の実力はなくとも、金や地位の力で買えるのがこういった町道場であり、道場主は目録や免許を高く売ることばかりを考えるようになっていた。 なるほど、そうして町の中の武士を見ると平和ボケした武士が多かった。 ぞろりとした絹物を着て、色ばかりは綺麗だが、役に立ちそうにもない大小を落とし差しにして本田髷を結い、懐手でしゃなりと雪駄を鳴らして歩いている。あのような軟な侍が江戸を守れるのか。 吉宗が出した倹約令は、御家人か旗本にも及んでいる筈であったがそんなことは柳に風の姿態であった。、 ~まだまだ、世の中は質素倹約を遂行しておらぬ。江戸城内からもう一度締めなおさなくてはならぬ~ 吉宗は贅沢病が治らぬ、その元凶が大奥にあることにたどり着いた。大奥の女どもは、そこだけが別世界のように、質素倹約などを気にもせず相変わらず、華美(贅沢)をきそい、風紀を乱しているのだった。 吉宗はまず、大奥の実力者、吉宗を将軍に推挙した、天英院に年間1万2千両という格別な報酬を与えると約束し、さらにもう一人の実力者 家継の生母、月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えると喜ばせた。 こうして月光院、天英院の大奥の実力者の心をつかみ、よい印象をあたえておいてから、返す刀で、吉宗は大奥の御年寄りに、 「大奥の女中衆の中から、顔形のうるわしい美女を五〇人ほど選びだし一か所に集めよ、」 と命じ、集めた大奥の美女たちにこう言い渡した。「明日、城下がりじゃ、奥女中とともに暇をとらす、」 ~美女ならば、大奥を下がって町へ出ても働き口も嫁ぎ先もあり、幸せに暮らせるであろう、だが、顔の悪い女はそうはいかぬから今後もずっと大奥で使ってやるうことにする。 大奥内は唖然とし、大奥を仕切っていた、天英院と月光院に泣きついたが、後の祭り、吉宗の作戦勝ちであった。4,000人いた大奥女中を1,300人にまで減らし、大奥の経費も三分の一に大幅に減らしたのだった。 残された大奥は美人の消えた、おへちゃの園になり、化粧で誤魔化す厚塗り軍団になり、ぶすだまりと陰口を叩かれる始末であった。 ~美しい顔の女は冷たい心の持ち主である~という紀州藩時代からのとらうまから抜け出せなかった吉宗だったのである。 この件に関しては、吉宗は影武者の三郎太に相談しないで独断でやらかした。「頼どん、そりゃあないっよ、大奥をおへちゃの園にするなんて、儂の好みの女はみな姿を消してしまった、ああ詰まらない大奥だ。」 三郎太は大奥での楽しみを奪われれて吉宗に露骨に嫌な顔を見せた。「大奥に手をつけねば、享保の改革は前に進まぬ、それにな、なにかと奥の女は幕政に口出しをする、これで、大奥の口もおとなしくなるだろうさ。三郎太が淋しがるのもわかるが、お忍びで城抜けした時に、吉原にでも深川辺りの岡場所へ出かければいくらでも別嬪さんは転がっているだろうよ」 吉宗の女性の好みは紀州藩時代から、見た目の美しさより、心が優しく、米俵を軽々と担げるくらいの力自慢で、健康で丈夫な赤子を産めるような女だったのだ。 そんな吉宗だが一度だけ大奥の美貌の女が気に入ったことがあった。 大奥の中臈をつかわし、その女中に側室になるよう命じたのだ。 だが、その女、おこうは毅然として 「私には、すでに心に決めている相手がございます、どうか、お許しを……」 と申したてて、命令に従わなかったのだ。大奥で将軍の命に逆らうことなどあり得ぬこと、城下がりだけならまだよいほうで、実家の両親ともども島送りにだれても文句は言えない。 が、吉宗は怒るどころか、逆にその心がけを褒め称え、大奥から下がらせるとともに、結婚の祝儀として三〇〇両の大金をくれてやったという。 ~やはり、美貌の女は儂には似合わぬわ、~ 女が絡むと、町はどうしても緩むし、犯罪も多くなる、 吉宗は綱紀粛正の引き締めのため、吉原以外での売春行為を厳しく禁ずる町触れを出した。背いた私娼窟は家財没収、摘発した私娼は吉原への引き渡しとした。この町触れで、深川などの岡場所が消えていった。 つづく 朽木一空