伊賀最後の忍者 岩窟武太郎9
幕末 桃色頭巾参上! 9 第九話 伊賀最後の忍者 岩窟武太郎 武士道を 貫き通す 奇人あり 伊賀の末裔 江戸を守らん ここで話を戻して、伊賀の最後の忍者岩窟武太郎のことを記しておこう。 岩窟武太郎は徳川家康が江戸に入府以来、徳川幕府に仕えてきた伊賀組同心である。 先祖の清左衛門は神君家康公が本能寺の変で窮地に落ち、大阪から三河へ遁走する時、 服部半蔵が家康を無事に伊賀越えをさせた時の伊賀忍者の一人であった。 以来、代々伊賀者として徳川家に仕えてきた生粋の伊賀組同心の家系なのである。 そんな伊賀の剣術一家に生まれた岩窟武太郎であったが、 江戸幕府は安泰な時代が続き、武士は刀を抜く必要もなくなり、 武士道よりも読み書き算術がもてはやされるようになっていた。 役に立ちそうにもない細身の大小を落とし差しにし、ぞろりとした絹の着物を着流しにして雪駄を引きずって歩くような軟な侍が 江戸の町を闊歩していることが、岩窟武太郎には情けなく、 武士を叩き直さねば徳川幕府は守れぬと勇断し、 武士たる者の修行とは何かと問う修練の場の道場を開いたのだった。 貧乏同心が拝領屋敷の敷地に作った道場であったが、 伊賀実戦武道塾では地獄稽古と言われる厳しい修行が連日行われていた。 岩窟武太郎は襤褸の衣服を纏い、月代も剃らず髪を総髪にし、 およそ道場の師範とは思えぬ恰好をしていたが、武芸百般に通じた剣の猛者であり、 和漢の書物8,000冊を読破して学問にも造詣が深い博識の兵法家でもあった。 岩窟武太郎の伊賀実戦武道塾の評判は武術愛好家に広がり、 日増しに門をたたく者が増えていったのである。 岩窟武太郎は毎朝、寅の刻(午前4時)に起きて井戸の冷水を浴び、 裂帛の気合とともに、9尺棒を1000回も振り回すのだ。 腕廻りは棍棒のように固い筋肉に覆われ、 檜板に200回拳を突きあてて、拳は石のように固く、 拳で人の胸板ぐらいは楽に突き砕けると豪語していた。 鍛え上げられた岩窟武太郎の肉体はまさに岩のようで、その腕力は相撲取りでも 歯が立つまいと己惚れていたほどである。 「よいか、 剣術の要諦は、敵を打つ一念をまっしぐらに敵の心に貫通さすことにある。すなわち必死三昧である。よく戦う者は人に致されることはない。いたすのは主で、致されるのは客である、 武人においては敵の刀刃を前にしても精神がくじけないように心胆を固める、 精神を鍛えねばならぬ、~ この勇猛な勇ましいお題目が伊賀実戦武道塾の武道心得であった。 さらに凄まじいのが、女色に溺れることのないように、 ~女は修行の妨げ~と、自らの逸物を斬って捨ててしまったのだ。 燃え滾る気迫を持っ岩窟武太郎はいつ何時でも江戸城に駆け付けられるように、 寝具を使わずに甲冑を着けたまま、武器や武具の中に埋もれるようにして板の間で寝ているという。 佩刀は戦国乱世の遺風を偲ばせる3尺8寸(約115cm)という規格外な長さの太刀を腰に差し、8貫目(30㎏)の鉄杖をつき草履履きで、 半蔵門から、四谷内藤新宿辺りを闊歩するので、 近所では、伊賀の変人、四谷の奇人として異彩を放っていた。 つづく 朽木一空