忍草 悪鬼、下忍の池に沈むの巻 最終回
池の名に背いて池の茶屋を借り 忍び、下忍(しのばず) 忍び合い 恋の病が鯉の餌にならねえようにねえ、 下忍の池(しのばす)には蓮の葉が大きく広がって初夏の風に揺れていた。 黒田九鬼流斎は大鯉釣りの仕掛けをつけた六尺を超える黒竹の棹を、弁天島の方に向かって投げた。 弁天島の下で池の水に体を沈めたまま、一刻半(三時間)もじっと観察していた鯉兵衛こと、忍者水猿がにたっと哂った。~ついにきたな~ その横には、六尺を越える大鯉が水猿に寄り添うようにして鰭を揺らしている。 ぱくっぱくっと大鯉の口が開く。水猿が頷く。読唇術だった。人と魚が会話をしているようだ。 ~いくぞ大鯉~ ~うむ、水猿、九鬼流斎をぬかりなく仕留めるぞ~ ぴしゃと、大鯉の尾が水を叩く、それが合図のように、水猿は重い石を抱いて池の底に潜る、池の底の泥を掻きながら、九鬼流斎の投げた棹の先へ進む。 大鯉は、水猿の上をゆうゆうと泳ぐ、大きな蓮の葉が不自然に揺れた。 下忍の池の水面には、黒田九鬼流斎の苦い表情が揺れていた。 妥協のない取り締まりは、庶民の下の者の僅かな楽しみまでも奪い、江戸の市中から、だんだんと元気が消えていくのを感じていた。 ~改革はやらねばなるまい。嫌われようが憎まれようが、誰かがやらねば、幕府は立ち行かぬ~、自分の残虐な取り締まりを正当化して、苦虫を潰した。 だが、釣り糸を垂れじっと浮きの動きだけに集中していると、鳥居耀蔵は徐々に仕事から解放されている自分が、嬉しがっているのを隠すことができなかった。市中を取り締っている時の鬼の形相とは思えない、穏やかな柔らかい表情をしていた。 ~おっおっ~ その、九鬼流斎の表情が一変した。 蓮の葉がそこだけ、激しく揺れ、九鬼流斎の握っている黒竹の棹が撓った。浮きは水の中にぐぐっと、引き込まれて沈んだ。九鬼流斎は力いっぱい棹をあげる。 ~かかった!~ 黒田九鬼流斎の顔は、~ついにやったぞ!~ という歓喜の表情に包まれた。 池の土手に仁王立ちで踏ん張る。物凄い引きだ、だが負けない、懸命に棹を引き上げる。池面に波紋が拡がった。 「大物だ、主鯉に違いない。やったぞ!」 棹に力が入る。ずずっと、足元の土手が崩れる。 その時、六尺を超える大鯉が波を立て水面から半身を躍らせて、舞い上がった。 「おおっ、ついに来たか、この化け物鯉よ!」 黒田九鬼流斎の興奮は絶頂に上り詰めた。股間が濡れている。 大鯉は大きな目玉で、ぎろっと九鬼流斎を睨み付け、次の瞬間、頭を下にして、尾鰭で水面を叩き、身を捩らせて、池の中へ勢いよく、飛び込むように沈んだ。 「あっあっあっ!」 ぐっぐっぐっ、棹の先まで池の中に吸い込まれていく、凄い力だ。 だが、黒田九鬼流斎は釣った魚は逃がすものかと、棹を離さない。三年間の執念が詰まっている。剣客九鬼流斎の侍の意地さえ感じた。「一世一代の大勝負、大鯉との真剣勝負だ!」 九鬼流斎の腕の筋肉がぴくぴく震える。勝負師の表情が顔面いっぱいに拡がる。 だが、次の瞬間、九鬼流斎は棹ごと、頭から、つんのめるように、ざぶっんと、池の中に引きこまれた。 歪んだ波紋が池いっぱいに広がり、九鬼流斎の体は池の底深く沈んで行った。 ぶくっぶくっぶくっと、泥色の泡(あぶく)が水面に浮かぶ。 そのまま、黒田九鬼流斎の身体は二度と水面に現れてくることはなかった。 つっつっつっーと、人差し指ぐらいの竹筒が、下忍の池の真ん中にある弁天島に向かって動き、大きな鯉が尾鰭を揺らせて、蓮の葉をぴしゃっと撥ねて、ゆうゆうと、池の中を泳いで行った。 暫くして、弁天島から一艘の小舟が池之端の方に向かって行った。 水猿と呼ばれた忍者鯉兵衛はもう、顔の皴まで変えて、いくらか腰を曲げ、ただの年老いた町人に身支度を変えていていた。 水猿こと鯉兵衛の水中忍法をここで明そう。 水猿は魚言葉が理解できる。読唇術だ。不忍の大鯉は200年も生きている。大鯉も人間の心が読めた。 池の底から水猿は大鯉を抱きかかえ、池の上に大きく跳び上がった。次の瞬間、九鬼流斎の釣り針を掴むと池の底に力いっぱい、ひっぱりこんで、底に沈めた。 九鬼流斎が池に落ちると、後頭部を鰻銛で突く、血は出ない。その身体を沈めて、杭に繋ぐ。池に沈んだ黒田九鬼流斎の遺体は二度と浮かんでこない。あとは、鯉の餌になる。水猿と大鯉の連携作戦だった。両者に利益があった。 以来、黒田九鬼流の人肉を食らった不忍の池の鯉は人肉の味を忘れられず、池の端で遊ぶ恋人たちを引き摺りこんでは食べ尽くすという、怖い話が囁かれだしたのもこの頃からである。 『密命』を果たし、忍者から解放され、町人姿になった水猿こと鯉兵衛は、ゆっくりとした足取りで、賑あう浅草寺の境内を抜けて、船宿『蓮水亭』に上がり、おかみのお桃と酌を交わしていた。 「鯉さん、鰻屋でせかすのは野暮でござんすよ」 九鬼流斎を突き殺した、鯉兵衛の手がお桃の股倉で動き始めていた。 忍草 1 悪鬼、下忍の池に沈むの巻 おわり 朽木 一空