カテゴリ:西宮のお話し
秋山巌の小さな美術館 ギャラリーMami の町田珠実です。
故 古本孝夫
追記2021/02/07:コメントにて碑の建立由来を教えていただきましたので、転記します。 (コメント欄もご覧下さい) 「あの石碑の正面および横面の揮毫をされたのは、当時同校校長で、後に西宮市教育長も務めらた、竹村賢造先生です。 渡邊昭雄さん、ありがとうございました! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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MICHIKOさんへ
コメントありがとうございます。 (お返事遅くなってごめんなさい) この碑の前を通っただけでも気になるのですから、 卒業生でしたらなおのこと忘れないでしょうね。 MICHIKOさんのように、「死ぬなケガすな病気すな」を忘れず、大事な事として思い出してくれる方が多いのは、この記事へのアクセス数でわかります。やっぱり、子供たちに伝えたい、心に刻んでほしい文字だと思います。 (2018.10.25 22:32:38)
今頃何か、と仰る方もおられるかも知れませんが、私の知るところを記します。
あの石碑の正面および横面の揮毫をされたのは、当時同校校長で、後に西宮市教育長も務めらた、竹村賢造先生です。 私は、竹村先生が当時の御影師範(現・神戸大学)を卒業されて、最初に教員として赴任された鳴尾小学校の、第一回生(昭和20年)です。 あの生徒の事故の後、竹村先生は教育委員会と掛け合って、校庭から前の自動車通路(そこで死亡事故が起きました)に出る道の付け替えを交渉されましたが、もし出入り口を付け替えると、元の出入り口の位置は市の手落ちだった、と認めることになると主張する市と対立された、と私の母から聞いています。石碑を立てる金もないし、それ市側は反対。 それで、校庭から外に出る道を今のように少し斜めに付け替える(それだけでも、出口と自動車道路の間にかなりの間隔が出来ます)ことで落着しました。それで、石碑の方は、市側は立てないので、誰も慰霊碑だ、と気付かないように、正面には「死ぬな、怪我すな、病気すな」とだけご自分が書いて、これは私の推測ですが、校費ではなくて、先生のポケットマネーでお建てになったのに違いありません。それが証拠に、石碑の裏や何処にも、建立者の銘は見当たりません。これはいかにも竹村賢造先生らしい所作だ、と思います。 以下は、蛇足です。 「死ぬな、怪我すな、病気すな」と皆に説かれていた竹村先生は、教育長に御栄転後、直ぐに、それもあっという間に昇天されてしまいまいました。私は先年、北米。五大湖のヒューロン湖に旅した際、「鳴尾小学校で先生に教えて戴いた「ス・ミ・ヒ・エ・オンタ」のヒに、今立っていますよ」と、一人涙しました。それを教えて戴いたのは、早や80年近く前のことになります。 (合掌) (2021.02.06 16:04:27)
渡邊昭雄さんへ
コメントありがとうございます! 毎日のようにアクセスがある記事ですので、皆さん気にとめているのだと思います。 竹村賢造先生、素晴らしい先生だったのですね。 皆さんにもお伝えしたいので、ブログ本文にも少し転記させていただきます。 素敵なヒューロン湖の旅のお話も、ありがとうございました。 (2021.02.07 06:14:07)
そういう事情があるにしても、これから成長する子供たちには、もっと希望の持てるような励ましの言葉が必要ではないかと思います。余りにも暗く、教室で勉強をしようという意欲がわくのでしょうか。
(2023.01.13 19:34:06)
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