おとはしぐれか 山頭火
秋山巌「しぐれ」1979年
昭和7年10月21日、其中庵での句。
トイレでしゃがんでいるときに、突発した一句!
1970年代のふくろうと山頭火がすごく好きです。
こちらは、1990年のふくろう
秋山巌「しぐれか」1990年
ちょっとやわらかい雰囲気ではないですか?
では、昭和7年10月21日 山頭火 其中日記より
十月廿一日
曇、それから晴、いよ/\秋がふかい。
朝、厠にしやがんでゐると、ぽと/\ぽと/\といふ音、しぐれだ、草屋根をしたゝるしぐれの音だ。
・おとはしぐれか
といふ一句が突発した、此君楼君の句(草は月夜)に似てゐるけれど、それは形式で内容は違つてゐるから、私の一句として捨てがたいものがある。
追加三句(帰郷 やつぱりうまい水があつたよ、の句と共に句賛の三句とする)
・露のしたゝるしたしさにひたる
・別れて遠い秋となつた
朝から百舌鳥のなきしきる枝は枯れてゐる
けさはほどよい起床だつた、すべてがおだやかに運ばれた、何かうれしい事でもないかな。
敬治坊からの返信は私を微苦笑させた、いづくもおなじ秋の夕暮、お互に借金の風にふきまくられてゐる。
どれ散歩でもせうか、それはまことに露のそゞろあるきでござりまする、はい、はい。――
こゝに庵居してからもう一ヶ月になる、落ちついたことは落ちついたが、まだほんとうに落ちついてはゐないらしい。
其中庵風景――その台所風景の傑作は酒徳利の林立であらう、いつでも五六本並んでゐないことはない。
I老人、竹伐りにきて、縁側でしばらく話しあふ、しづかでうらやましいといふ、誰でもがさういふ、そして感にたへたやうにあたりを見まはす、まあひとりで、かうしてやつてごらんなさいと私の疳の虫が腹の中でつぶやく、かうした私の生活は私みづから掘つた私の墓穴なのだ。……
竹を伐る――伐られる竹――葉のそよぎ――倒されて枝をおろされて、明るみに持ちだされて。――
寝て起きて、粥を煮て食べる、――今日も暮れた。
・もう、暮れる百舌鳥は啼きやめない
暮れてから(あまり暗いので、それは勘で歩いたのである)学校へ樹明君を訪ねる(彼は今晩宿直だから来るやうにといつてきたのである)、例によつて一杯よばれる、風呂にもよばれる、そして雑誌にもよばれたといつてよからう、ひきとめられるまゝに泊る、帰つたところで仕方もないから、もつとも帰つた時にお茶なりと飲むつもりで、炭をいけ床をのべてきたのだが。
読みつゝ寝た、昆虫の愛情についての記事が面白かつた、かういふ科学記事を読んでゐると、人間執着がとれてくる、動物としての自己他己観照が出来るやうになる。
以上。