カテゴリ:科学実験教室
1700年代後半のイギリスでは、全国的に科学の実験講座が大流行しました。 しかも、一講座、数万円の高額で。 誰も、強制されて、受講したわけではありません。 たのしくて、わかりやすかったからに他なりません。 ベンジャミン・フランクリンも、旅先で、科学講座の面白さに感動して、 電気の実験に関心をもつようになったのです。 そして、雷が電気であることを証明したのです。 大科学者のファラデーも、小学校しか出ていないのですが、 ロンドンの街角の実験講座に、思わず誘われて参加したことがキッカケです。 科学は、たのしいエンタメ。思い切ったお金を出しても、惜しくないものだったのです。
そんな面白くて、しかも、教育的効果のあるものなら、 学校に取り入れてもいいのではないか、と考えるのも当然です。 街角の人気が出てから、科学は学校に入り出したのです。 当時、科学の正式な先生はいませんから、 街の実験屋が、先生に呼ばれました。
ふと現代日本の、行政が開く、カルチャー講座のつまらなさを思います。 それらは、無料だったり、とっても安くなっています。補助金で。 逆から言えば、勉強は辛いのが当たり前で、 それをガマンしてもらう言い訳に、安くしているのかもしれません。 それにしても、なぜ、つまらないんでしょう。
それは、大学の講義をイメージしているからです。 学校の延長だからです。 日本の教育は、教えていただくのが基本であり、 わからなければ、教わる方が悪い、恥ずべきである、と。
教わる何の義理もなく、何の資格も与えられなくても、 高額の金を出して多くの一般の人を参加させるには、 よほど楽しさへの自信がなければなりません。 本人も、こんなに楽しいことは無いと確信し、 しかも、どうやったら多くの人にわかってもらえるか、と 試行錯誤するはずです。
ここのところが、根本的に違います。 学ぶのは、何かのタメの手段という場合、 今という時間を犠牲にしています。 しかし、学校生活、少なくとも義務教育の9年間、いや高校も含めて12年間を 将来のための犠牲にするのでしょうか? これは、娯楽のフリカケでカモフラージュすることとは違います。 根っこから、楽しくあるべきであり、 その子の人間性を最大限に引き出すものであるべきです。 たとえ、その子が、その幼い年齢で死んでしまったとしても、 与えられた生を最大限に生ききったと言える生き方です。 そこに大人は責任をもつべきです。 これこそ、子どもの権利です。
1800年代のイギリスでは、ご婦人が化学や物理の入門書を書くことも 珍しくはありませんでした。 それほど、科学は庶民に溶け込み、象牙の塔にこもることはなかったのです。 科学が本来のエンタメとして伝えられていれば、 女性の人気学問のナンバーワンを争うものなのです。本来、科学は。
寅さんは、何万円という高額な実験教室を開く実力はありませんが、 そのくらいの価値のあるものを目指すべきだと思っています。
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Last updated
2006.10.08 22:48:49
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