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カテゴリ:社会
大阪でホームレスの人達のテントや小屋が撤去された。
同じ光景は、何年か前にも繰り返されたばかりだ。 このような問題は、日本中のある程度の規模の都市ならばどこにでも見られることだろう。 小泉政治による「格差拡大」とか「福祉の切捨て」などの、いまさら論じる必要もないような分かりきったことについては、あれこれ言う気もしない(まあ、分かっていない人が大勢いるということが問題なのでしょうが) 市による排除に手をたたく人達が、今の世の中、誰だって(たとえば、自分はもちろん、自分の息子や親戚や友人、知人など)一つ歯車が狂えば、彼らと同じような境遇に陥る可能性があるということにまったく気付いていないという愚かさも、馬鹿馬鹿しくて論じる気がしない。 「権利ばかり主張して義務を果たさないのは良くない」だって。 いったい、どこの馬鹿がそんなことを言っているのだ。 ただ、猫の額ほどの土地を使わせてくれって言っているだけじゃないか。 そんなことを言う連中は、すでに初老といわれる年齢に達しているこの人達が、これまで何十年もの間、ただ働きもせずにぶらぶらと遊び暮らしてきたとでも思っているのか。おかしいのは、人間の汗を流した労働が「市場原理」とやらによって不当に安く買い叩かれているこの社会じゃないのか。 「健全な世論」によれば、「公園」は公共の空間なのだそうだ。 だから、特定の人間が占拠するのは許されないというのだろう。 なかなか、立派な理屈のように聞こえる。 しかし、「公共の空間」とはいったいなんなのだ。 ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」ということを思いつき、人々がそれを信じるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。 これは、「人間不平等起源論」の中のルソーの言葉だが、ただ生活し眠るだけのわずかな「土地」の所有権や賃借権を購うだけの金も得ることができない人間は、ほとんどすべての土地が「所有権」という法律で保護された権利で覆われているこの時代に、いったいどこで暮らせばいいというのだ。 「公共の空間」とは、ほんらい、そのような「土地所有権」に覆われた今の社会の中で、ほとんど唯一残された、「私権」で囲い込まれていない社会に開放された「空間」のことを意味するのではないのか。 「公共」とはなんなのか。「公共」とは、この国に住むすべての人間を含むのではないのか。 であるとすれば、今現実にそこを必要としている人達に貸し与えることがどうして認められないのか。 公園で憩いたいという人間は憩えばいい。踊りたけりゃ踊ればいい。ジョギングでもなんでも、やりたい人間はやればいい。 しかし、生活し眠る場所を求めるという権利は、一番に保証され、優先されなければならない権利のはずだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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