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カテゴリ:社会
読み返してみると、前の記事はいささか乱暴で粗雑な物言いをしてしまったという感はある。ただ、その理由は、ひとつにはネットで見つけた、映画を見た人の感想の中に、非常な違和感を感じたものがあったことにもある。 「総括」 という悲劇が起きたのは、彼らの内部で激しい議論や対立があったからではない。その反対に、そこでは 「革命」 だの 「人民」 だのという、思い込みだけの空疎な観念によって醸成された、曖昧模糊とした 「空気」 だけが夢魔のように支配していて、本来行われるべきまっとうで理性的な議論も対立も成立していなかったからだ。前の記事で引用した吉本の言葉には、たぶんそういう意味も含まれているだろう。 毛沢東を丸写しにした 「根拠地建設」 だの、レーニンを戯画化した 「武装蜂起」 だのといった彼らの理念と行動は、すべてがそのような現実的根拠を欠き、熱に浮かされたような心情のみで支えられた空疎な観念に基づいたものにすぎない。 であれば、仲間を殺した 「総括」 は間違っていたが、「国家権力」 に対する彼らの闘争や 「革命の志」 は評価するといった半端な評価など、いかなる政治的立場からも成り立つものではない。 その意味においては、「総括」 も 「銃撃戦」 も、結局は同じ誤謬と愚かさの裏表でしかないのであり、一方は否定するが、一方は評価するといった姿勢などはまったく無意味である。 たとえば、そのような曖昧な心情だけで結合した組織の場合、「内部」 から批判をしたり、異議を提起する者が現れると、当の批判を受けた者だけでなく、直接関係のない他の仲間らからも、「分裂主義者」 だのといった非難が、批判の内容に関係なく投げつけられることはよくあることだ。 「仲間割れはよくない」 という言葉は一見正当に聞こえる。だが、それもまた、ときとして同じように、「身内」 からの批判を封殺する役割をする。そして、そのような 「内部」 や 「身内」 と思っている者からの批判を最も嫌う曖昧な 「仲間意識」 というものは、なにかのきっかけさえあれば、昨日まで仲間だと思っていた者に対する激しい 「憎悪」 に容易に転化するものでもある。 そういう事例は、その気になって探し出せば、過去でも現在でもいくらでも見つかるだろう。またそのような危険性は、なにも政治組織や宗教組織だけにあるわけでも、組織としての明確な輪郭を持った集団の場合にのみあるわけでもない。 そして、そういう意識こそが、この事件に限らず様々な歴史や場面において、「身内」 から異議を立てた者を 「裏切り者」 や敵の 「スパイ」 などとみなして憎み断罪する、「粛清」 や暴力的な 「査問」 などという行為を生み、また支え続けてきたのではないだろうか。 スターリンによる 「粛清」 を下から支えたのも、文革期に 「走資派」 というレッテルを毛沢東から張られた劉少奇らへの迫害を支えたのも、戦時中の 「非国民」 という言葉で表されていたのも、まさにそのような曖昧な意識だったはずである。 反対派や批判者に対するそのような大規模な弾圧や迫害は、けっして独裁者の意志だけで行われたのではなく、同時に、それを積極的消極的に支持した下部党員や大衆がいたからこそ可能だったはずだ。それは、はるかに小規模であり、また特異な状況下にあったことなどの要因もあるとはいえ、たぶん 「連赤」 の事件にもいくらかはあてはまるだろう。 でなければ、国家権力を握っているわけでも、国家の暴力装置を操ることができるわけでもない、煎じ詰めれば、みなと同じ二本の腕と足を持ったただの人間でしかない森と永田の専制に、けっして活動歴が浅いわけでもなく、また臆病な人間でもなかったはずの坂口のような男らまでが、唯々諾々と従い続けていたことはまったく説明できない。 だからこそ、彼らの問題を、「いじめ」 やDV、たまにどこかで起きる暴力社長による社員リンチなどのような、単なる特異な個人による暴力や暴力的支配の問題といっしょに並べたり、森と永田の 「誤り」 や 「資質」 にのみ還元することは、問題をあまりに単純化しすぎているのであり、組織というものがつねにはらんでいる 「共同性」 の問題を抜きにして、この事件を論じるのは馬鹿げているのだ。 どんな場合にも、思い込みだけの空疎な 「理念」 に基づいた心情の暴走を防ぐのは、冷たく醒めた目なのであって、その逆ではない。 情緒と思い込みだけに基づいた 「心情倫理」 というものは、普通の時代であれば、本人らを除けばたしかにそれほど大きな危険とはならないかもしれない。 しかし、過熱した時代において、様々な大きな悲劇や不幸を生み出してきたのは、つねにそのように熱しやすく、またいったん暴走を始めれば制御不能になってしまうような曖昧な 「心情倫理」 であり、疑うことを知らない 「純粋さ」 や 「誠実さ」 だったのではないだろうか。 「連赤」 の問題に戻るならば、死者を本当に悼むということは、そのような彼らの愚かさのすべてを、感傷的な涙などでごまかさずに冷静に見つめることであり、彼らを革命運動に命を捧げた、美しい魂を持つ 「殉教者」 や 「犠牲者」 などに祭り上げることではない。 それは冷静で批判的な目を持った観客ならば感じ取れることかもしれないが、公開されている若松の文章を読む限り、映画での彼の視線が、事件の根底に潜むであろうそういう問題にまで届いているかどうかは、はなはだ疑問と言わざるを得ない。 そして、それがまた前の記事に 「そんな映画など見たくもない」 というタイトルを付けた本当の理由でもある。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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