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カテゴリ:ネット論
数ある小泉前々総理の首相時代の 「名文句」 の一つに 「感動した!」 というのがある。これは言うまでもなく、ひざの大怪我をおして土俵に上がり、武蔵丸を倒して優勝した貴乃花に対して彼がかけた言葉である。いつのことだったかと思って調べてみると、ちょうど7年前の夏場所の表彰式でのことだった。 この場所、前日の大関武双山戦でひざを痛めた貴乃花は、千秋楽での武蔵丸戦で敗れて13勝2敗で並ばれたあと、優勝決定戦でその同じ武蔵丸を上手投げで破って優勝杯を手にした。このとき、彼に優勝杯を手渡したときに言ったのが、「痛みに耐えてよく頑張った!」「感動した!」 という小泉前々首相の言葉である。 このときの貴乃花が 「一生懸命」 であったことは間違いない。だから、彼の気迫とその結果としての優勝が賞賛に値することもそうだろう。しかし、このとき力士にとって大事なひざに重傷を負っている貴乃花と、二度にわたって対戦せざるを得なかった武蔵丸の胸中は、いったいいかなるものだったろうか。 対戦相手の貴乃花が自力では歩けないほどの大怪我を負っていることは、すでに報道でも発表されていた。下手な相撲を取って彼の怪我をさらに悪化させれば、その力士生命そのものを奪うことにもなりかねない。このときの武蔵丸の戦い方は、どう見てもそういう相手への気遣いを強いられたことによる、中途半端なものだったような印象がある。 さて、「感動をありがとう!」 なる奇妙な言葉が、素晴らしい戦いをしたスポーツ選手らに対する感謝の言葉として、マスコミやその他の人々らによって使われるようになったのは、いつ頃からだろうか。 はっきりとしたことは言えないが、どうもサッカーのワールドカップあたりからのような気がする。この小泉前々首相の言葉も、少し時期的に重なるのかもしれない。なんでも八柏龍紀という人が、三年前に出版された 『「感動」 禁止! - 「涙」 を消費する人々』 なる本で、この奇妙な言葉について触れているそうだ。 こういう奇妙な言葉をなんの違和感も感じずに使っている人たちにとっては、おそらく世の中は 「感動を与える人」 と 「感動を受け取る人」 の二種類で成り立っているのだろう。むろん、おのれの技と体力の限りを尽くして戦うスポーツ選手や、素晴らしい迫真の演技、感動的な歌などを披露する芸能人らは前者であり、自分はあくまで後者なのだろう。 彼らにとっては、「感動」 とは自分で発見するものではなく、他人からきれいに加工され調理された出来合い品として与えてもらうものなのであり、彼らはそのような誰かが 「感動」 を与えてくれることを、まるで親鳥が与えてくれるエサを受け取るひなのように、ただ大きく口をあけて自分の巣の中で待っているのだろう。 これをいささかトンデモ経済学ふうに表現すると、前者は 「感動」 の生産者であり、後者は 「感動」 の消費者だということになる。後者の人々は前者の人々に対して、自分たちに 「感動」 を与えてくれることを日々求めており、前者から与えられた 「感動」 をむしゃむしゃと食べつくしては、その対価として 「感動をありがとう!」 なる感謝の言葉をかけているというわけだ。 その姿は、かつてのローマ帝国で、剣闘士と野獣との、あるいは剣闘士どうしの命をかけた戦いに拍手喝采し、ときには 「感動」 のあまり涙を流すこともあっただろう、ローマ市民らの姿にどこか似ている(もちろん映画でしか知らないけど)。 彼らも、おそらくは生き残るために力の限りを尽くしていた剣闘士の姿に、しんそこ 「感動」 していたことだろう。いや、それだけでなく、ひょっとすると戦いのすえに命を落として闘技場に横たわる剣闘士のむくろにむけて、「感動をありがとう!」 なる言葉をかけていたのかもしれない。 その種の人々は、ネット上でたまたま情緒的でナイーブな文章を書く人を見かけたりすると、「素晴らしい文章ですね。あらためて学ばされました」 とか 「感動しました。あなたのファンになりました」 といった、こちらの方が恥ずかしくなるようなコメントをなんの恥じらいもなく残していくような人らとも、なんとなく重なって見える。 多くの場合、そのような人らが求めているのは、相手との対話でも相互の理解でもない。本当に相手との対話とお互いの理解を求めているのなら、たまたまネットで出会っただけの見ず知らずの人に、そのような言葉を安易にかけられるはずがない。 ようするに、そこに表れているのは、相手を真に理解しようという人間的な欲求でもコミュニケーションの欲求でもなく、ただおのれの心の深い飢え、欠落を満たしたいという本能的な欲求だけであり、またそのような心の深い飢えを抱えている人の存在だけのように見える。 たとえば、プロジェリアという、常人よりも何倍ものスピードで老化が進む難病にかかったアメリカの少女、アシュリーの姿は、たしかに 「感動」 的である。彼女は同年代の少年少女はもとより、その2倍3倍の 「馬齢」 を重ねた世の多くの成人男女などよりも、はるかに透徹し成熟した精神を有している。 だが、彼女は言うまでもなく、世の中の多くの見ず知らずの 「赤の他人」 たちに 「感動」 を与えるために生きているわけではない。ただ、彼女は身近な人々に余計な気遣いをさせぬように、そしてなによりも限られた自分自身の命を、悔いを残さぬように精一杯生きているだけである。
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