無政府主義とか無政府主義者などというと、一般にはなんだか恐ろしい、あまりお近づきになりたくない人たちというイメージがある。無政府主義者すなわちアナーキストとは、今ここでの国家の転覆を目的として、陰謀やテロ、暗殺などの破壊行為に明け暮れる人たちだというわけだ。
そのようなイメージは、たとえば 「無政府状態」 といった言葉が、一般にはなんの秩序もルールも存在していない、すべてが実力や裸の暴力だけで支配されているような状態を意味するものとして使われていることからもきているだろう。
たしかに 「破壊への情熱は同時に創造への情熱である」 と言い、「総破壊の使徒」 などという恐ろしいあだ名を献上されたバクーニンのように、生涯のほとんどを陰謀に明け暮れた人もいる。また、無政府主義が勢力を誇った地域が、たとえばスペインのように、いささか血の気の多い人たちが多いところであったというのも否定できない。
それは、おそらく 「一切の権威の否定」 と 「絶対的な自由の追求」 という無政府主義の理念が、そのような近代化が遅れていて、社会内部の 「共同体」 的意識がまだ強かった地域の抑圧された人々にとっては、いわば宗教的と言ってもいいようなユートピアへの情熱をかきたてる魅力を持っていたからでもあるだろう。
無政府主義者の活動が、実際にしばしば過激な方へ走りがちだということについては、彼らの思想からは、議会や選挙といった政治活動そのものが否定され、また統制された厳格な組織性も排除されるため、結果として、種々の直接行動や少数の個人による先鋭な行動に傾斜しがちだという点に原因がないわけでもない。
とはいえ、無政府主義も一つの社会思想である限り、それはたんなる権威への永遠の反抗のみを意味していたわけではない。ましてや、無政府主義者たちが理想としていた社会が、無秩序な破壊や略奪をこととする、盗賊団や山賊団が横行するような社会であったはずもない。これはまあ、当たり前すぎるぐらい当たり前の話ではあるが。
そもそも無政府を意味するアナルシという言葉は、19世紀フランスの人であるプルードンによる造語である。たとえば、彼はある手紙の中で、自分の思想について次のように述べている。
わたしの考えでは、無政府とは秩序の維持と、またあらゆる種類の自由の確保が、科学と法律との発達によって形成される公私の意識のみで十分な、一つの政治形式もしくは結合のことであり、強権の原理、警察制度、圧制と抑圧の手段、官僚主義、租税などがもっとも単純なるものにまで制限され、君主制と高度の集権化が連合制度と共同体に基づいた生活様式で置き換えられることにより消滅した政治形式もしくは結合をいうのである。
また、彼は別の著書では、アナーキズムとは 「各人による各人の統治、すなわち英語でいう self-government (自己統治)のことであり...」 とも述べている。
つまり、無政府主義とは、国家や政府といった社会を上から支配・統制する権力なしに、人々が自らの社会を自らの手で統治しうるということ、すなわちそのような強制的権力なしに人々は自らの行動を律しうるという、民衆の自治能力に対する全面的な信頼の上に成り立っているのであり、その根底に横たわっているのは、いささか楽観主義にすぎる人間観だということになる。
であるから、無政府主義者を名乗るのであれば、自らの行動は自らで律するという能力を有していることをまず率先して示すことが、最低限の資格だということにもなるだろう。少なくとも、後先も考えず、また他人への迷惑や影響も考えずに、ただおのれの欲望や暴力的破壊的な衝動のおもむくままに行動するというだけで、無政府主義者を名乗れるわけではない。
アナーキズムとは、一言で言い表すなら自己統治=自己権力の思想であり、アナーキストに必要なのは、他律を拒否すると同時に、他律を必要としない自立=自律の精神なのである。
もっとも、社会思想としての無政府主義が、現代においてほとんど現実的な影響力を失ったのは、そのあまりにユートピア的で非現実的な楽観主義のせいでもある。社会運動としての無政府主義が最後に輝いたのは、スペイン市民戦争においてであるが、フランコ率いる軍の反乱という状況の中で、スペインのアナーキストらは国家とすべての政治的手段の否定という本来の信条にそむいて、社会主義者や共産主義者とともに人民戦線内閣に協力せざるを得なくなった。
つまり、無政府主義はその活動の頂点において、自らが抱える根本的な矛盾を露呈してしまい、その結果一気に勢力を失ってしまったのである。そのため、無政府主義という看板が、今ではたとえば 「自分の死を恐れないハケンは最凶兵器である」 などといった、はったりじみた言葉や大げさな身振りだけをこととするような者らに簒奪されるということになったのも、それはそれでしかたがないのかもしれない。
しかし、それはやっぱりプルードンやバクーニン、クロポトキン、あるいは幸徳秋水や大杉栄といった、理想を追求した過去の無政府主義者たちと、そのユートピア的な思想を貶めるものではないかと思う。もっとも、本人にすれば、アナーキストを自称しているのもただの洒落であって、そもそも最初からたいした意味などないのかもしれないが。