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カテゴリ:島津一族
JR指宿枕崎線の薩摩今和泉駅の北東300mにある今和泉小学校と指宿商業高校一帯は、今和泉島津家の屋敷跡で、宝暦4年(1754)に初代島津忠郷(たださと)が初代当主となる。跡地には石垣と手水鉢や井戸が残っているというがこの度は訪問していない。本宅は現在の鹿児島市大竜小学校の西隣にあり、4,600坪の敷地があったと伝わる。ただ、これは新生今和泉家と呼んだほうがいいもので、本当は南北朝時代から和泉家は存在した。このことについては後述する。 初めの和泉家が絶えて327年経った延享元年(1744)新生今和泉家はとして3562石で再興した。家格は家臣団最高の四家(重富家、加治木家、垂水家、今和泉家)である御一門の一つで島津家第2代当主・継豊が弟・忠郷(たださと)に今和泉家を再興させ今和泉島津家としたものである。 所領地は、今和泉郷の他、佐多、伊佐、飯野、串良などの飛び地を含めて、やがて1万3000石以上の石高となった。 今和泉家墓地は初代忠郷から6代忠冬までの宝篋印塔や五輪塔、家祠型をした13基の墓石が123基の灯籠に囲まれ、江戸中期以来、この地を120年余りにわたり所領していた「殿様」の威厳を今日に伝えている。 今和泉家といえば「篤姫」。NHK大河ドラマ「篤姫」が放映されて一気に有名になった。 篤姫の幼名は「於一」。5代(和泉家10代)忠剛の長女として生まれる。 後に、江戸幕府13代将軍徳川家定の正室天璋院篤姫となる。そのため島津斉彬の養女として大奥に入る。数奇な運命をたどったと言えよう。 篤姫の父・5代忠剛の墓標。 墓所には「篤姫の墓」の案内板がある。 先に触れたように、もともと和泉家は鎌倉時代に島津家第4代当主・島津忠宗の次弟である忠氏(ただうじ)が出水を治めていた時に姓を出水(和泉)に改めたことに始まる。しかし、応永年間の戦いで和泉家5代当主・直久が戦死し、和泉家が断絶する。 その後、320年を経て延亭元年(1744)和泉家は今和泉家として再興される。 将軍家の血統が途絶えたときに跡継ぎを迎えるために「御三家」がつくられたように島津家も「御一門」が設けられて今和泉家も藩の家柄の中で最上の「御一門」四家の中の一つとなった。 余談だが、島津家では一旦途絶えた「家」を再興することは今和泉家だけではなく、「前期越前家」から「後期越前家」(重富家)へ、「前期佐土原家」から「後期佐土原家」へなどがある。 参考資料 今和泉家墓所案内板 「鹿児島県の歴史散歩」 鹿児島県高等学校歴史部会編 「島津一族」無敵を誇った南九州の雄 川口素生著 「鹿児島古寺巡礼」 川田達也著 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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