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カテゴリ:島津一族
![]() 島津豊久や歴代の領主などが眠る天昌寺跡をを巡り、Fくん、Kくん、私の3人はガイドをお願いした本田哲郎さんに案内されて、島津家久(島津貴久の4男、島津豊久の実父、前期佐土原家初代当主で中務大輔、後に永吉島津家初代となる。なお、次兄・島津義弘の3男である島津家久・薩摩守とは別人)の墓所を訪ねた。(島津家久の墓碑は宮崎の佐土原にもある) 家久公については、2016年4月4日の当ブログに詳細の記述はあります。 ![]() 島津印の丸十の丸はなく「十」の文字だけの家紋である。 ![]() ここ永吉を島津一族以前に300年に亘って統治した桑波田一族の墓所と言われている。 「日置南郷」を「へきなんごう」と読む。鹿児島には現在も日置(へき)姓はある。 ![]() この「大石石塔群」は草田原地区にある。鎌倉時代ぐらいの前までは今の竹下田圃や永吉市街地などはまだ 海だったそうで、桑波田一族などが住んでいたのは丘陵地であるこの一帯の草田原地区に当時の集落が集中していた。この一角には「愛宝寺跡」という古寺跡も存在する。 ![]() 下の梵字は学者を呼んで解読をお願いしたが、解明できていないという。 このような梵字がいくつも残されている。 ![]() 最後に案内していただいた「南郷城の空堀」 中世の時代、永吉は郡司として桑波田氏が在り、南郷城はその居城であった。天文2年(1533)桑波田孫六の時代、桑波田一族は薩州家・島津実久に与し、南郷城合戦によって島津忠義公(日新公)に敗れ、北薩へ逃れた。以後、日置南郷は伊作島津氏の治めるところとなり「永吉」と改められ、地頭時代を経て永吉島津氏の私領となって幕末まで続いた。 下の写真は、当日 本田さんからいただいたものであるが、しろの裏側に深い空堀が掘られている。 ![]() その空堀に案内いただいて写したのが下の写真である。 太陽光線のため、うまく写すことができなかったが、私が写真を写すために立った場所の真下は深く掘られており、足が竦んでこれ以上立ち入ることができなかった。 いずれにしても、日本の城の中でも有数の空堀だそうだ。 ![]() 資料として当日いただいた「永吉地区 史跡マップ」や本田さんからいただいた手作りの史料などを参考にした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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