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投資の余白に。。。

投資の余白に。。。

October 12, 2009
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カテゴリ:自叙伝
オクラはよく食べる。生を刻んで食べることもあるが、さっとゆでるとたくさん食べられる。アフリカ原産のオクラは寒冷地では栽培できないので北海道では比較的高価。だから、安売りのときにたくさん買ってきて食べまくる。

しかし、たった一度だけ野生のオクラを食べたことがある。1979年のことだと思うが、三里塚の労農合宿所に泊めてもらったときである。

宿泊料や食事代などがどうなっていたか、まったく思い出せない。全国集会の前後ではなかったので、人は少なかった。小屋に常駐する何人かのいわゆる「現闘」と、現地調査と称する物見遊山のわたしのような人間か、週末を利用して援農に来ている人たち。それからそのときは成田空港が開港まもない時期だったので飛行阻止のためのやぐらを作ったりする反対同盟シンパの、大工や左官の人たちがいた。

労農合宿所は第4インター系と言われていたが、無党派の個人が滞在できる場所はほかにはなかった気がする。近くに、戦前の共産党員で九州の村長だった前田俊彦さんの「瓢鰻亭」があった。

いったい、あのころのノンセクトはどのように現地に結集したり滞在していたのだろう。党派は豪勢なことにリムジンバスを仕立てたりしていた。とある労組の部隊にもぐり込こませてもらったときは、宿泊施設から先は幌なしトラックの荷台に乗って闘争現場に向かった。

現地には5~6回行った記憶があるがほとんど日帰りで、泊まったのは2回しかないと思う。
その最初のときが労農合宿所で、朝食べたのが野生のオクラだった。

ご飯とみそ汁は当番が作ることになっていたのだと思う。もし長く滞在したら、食事当番くらいはやらせたもらったかもしれないが、ホテルの食堂ではないのだから、おかずはなし。そこで、すぐ裏の野原のようなところから、15センチか20センチもあるような大きなオクラをとってきておかずにするのが習慣になっていたのだろう。

固く、筋張っていて、お世辞にもおいしいオクラではなかったが、何というか革命に参加しているようで気分が高揚した。たしかに、トーストとコーヒーでは革命をやる気概も失せる。

やはり、若い革命家はご飯に筋張ったオクラでプロレタリア解放のために闘うべきなのだ。

珍しかったのは野生のオクラだけではない。野天のドラム缶風呂があり、農家には昔ながらの五右衛門風呂があった。

どちらも、いままで三里塚以外のところで入ったことはない。

そのときは闘争のないときだったので、のどかなものだった。ドラム缶風呂に女性現闘が入ると、機動隊がのぞきに来て奇声をあげるようなことがあるが、そんな「事件」しか、ここが闘争の最前線であることを思い出させるものはなかった。

三里塚現地闘争ほど楽しいことはほかに思い当たらない。何せ、楽しいのだ。こればかりは参加しなければ絶対にわからない。

その楽しさの源泉は正義である。現地へ行けば、空港建設がどんなに理不尽なことかわかる。現在、JALがつぶれそうなのも、三里塚のようなところに高コストの空港を作ったことに一因があるが、絶対的な正義の側に身をおいて行動する快感はどんな快楽にもまさる。

事実上の解放区になっているのも「楽しさ」の大きな要素だろう。反対同盟は「面」を支配し、多くの団結小屋や他の農家(空港賛成派といえども反対同盟に協力していた)が点在し情報を共有することで、公団や機動隊を圧倒し孤立させていた。

1971年の東峰十字路戦闘では700名の部隊が240名の機動隊一大隊(堀田大隊)を粉砕し、3名の警察官を殺したが、3名で済んだのは奇跡であり牧歌的とさえいえる。「解放区」に侵入した「不逞の輩」を逮捕・連行していたのは空港反対派であり力関係は逆転していた。

だから、開港後の1979年になっても、機動隊は「奇声」をあげ恐怖を紛らわせなくては女風呂ひとつのぞくことができなかったのだろう。

三里塚の、特に全国集会に行くのはもうひとつ別の楽しみもあった。

当時はまだ各大学にノンセクトをはじめとした活動家が健在で、大学によっては100人規模で現地決起が勝ち取られていた。もちろんその中には女性も多くいた。

夜目、遠目、傘のうちというが、ヘルメットをかぶった女性もまた魅力的だ。タオルで覆面でもしていようものなら、もうたまらない(笑)

さらに、ヘルメットをぬいだときに長くて黒い髪がはらっと落ちてくるのは、風景としては殺伐としている団結小屋の中で、そして男が多い中で、何ともなまめかしく優美だった。

京大同学会、どこの大学かわからないが首都圏の赤ヘルサークルの女性など、愛らしいのに知的でおとなっぽい、素敵な女性をたくさん見た。

わたしの行っていた大学の女の子たちとは月とスッポンだった。

あの楽しさが忘れられず、反対同盟北原派と支援党派による1985年10・20戦闘に参加したくて某セクトのバスに乗せてもらうよう交渉した。が、当時同棲していた女の子の体調が悪くなって行くことはできなかった。

3名の機動隊員が廃人になったあの戦闘に参加できなかったのは残念でならない。

歳をとり「三里塚でオクラを食べた」話はできても、機動隊をぶち殺した武勇伝を語ることができないのは、寂しくも悲しい。





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最終更新日  October 12, 2009 06:41:28 PM
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