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カテゴリ:洋画(欧米系)
『クレーマー クレーマー』と『フォレスト・ガンプ』を足して2で割ったような映画。構図としては間違いなく『クレーマー クレーマー』を意識している。
これはひとつのファンタジーだ。現実問題として、知的障害をもった男性が父親になった場合、その子供は早晩施設に引き取られるだろう。「子供の教育上よろしくない」という大人の配慮と常識によって。映画のように彼を無料で助けてくれる弁護士など現れるべくもないし、ましてや裁判で勝つことなどとてもとても。 けれども、もし…親子の絆が第三者の予想以上に強く、あらゆる「妨害」にもかかわらず父親は子供を、子供は父親を求めてやまなかったとしたら? それでも「正義」の名のもとに「教育上正しい判断」が下されるべきなのだろうか? これは第一にそういう(サムとその娘ルーシイの)物語である。 同時に、サムの女弁護士、リタがクライアントによって癒されるサイドストーリでもある。リタは最初サムを「普通の人間」としてみていなかった。彼の仲間たちはみな「おかしな」人たちばかりだった。知的障害者、精神障害者、一見まともにみえるアニーでさえも、父親との関係に深い傷を持つひきこもりの女性だった。 主役の男性は上手に知的障害者役を演じていたが、後半になってやや優等生的になったようにみえた。もっとも、知的障害者にも「こころ」がある、「やさしさ」があるのだという演出のためには必要だった、それは間違いない。 リタはサムと結婚するかもしれない、と考えるのはひとつの夢だ。だがそうならなくても、ルーシイは実の父親と里親と、最低三人の親を持つことになるだろう…ファンタジーとはいえ、なんと幸福なハッピー・エンドだろうか。 ひとつ気にかかったこと。 『フォレスト・ガンプ』にしてもこの作品にしても、知的障害者役を演じるのは決まって男性だ。これはなぜだろう? 考えられるひとつの理由としては、ホラーでもアクションでもない普通の映画には「ロマンス」がつきものだからだ。この物語でもサムとリタの、弁護士とクライアントの関係を超えた一種の「擬似的」ロマンスが展開される瞬間がある。だが…知的障害をもつ女性が上手に化粧して一般の男性とロマンスに陥る展開を創造するためには特別な才能を必要とするだろう。それも、『プリティ・ウーマン』の監督より優れた才能を。 語りたいことはまだまだある。だが、映画は、一度観ただけではなかなか細かいところまでよく見えない。できれば繰り返し観たい作品である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005.03.05 15:17:53
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