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つれづれなるままに―日本一学歴の高い掃除夫だった不具のブログ―

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2006.07.10
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カテゴリ:洋画(欧米系)
人にはそれぞれ、繰り返し観てしまう映画、というものがある。不具にとっては、黒澤明監督の白黒時代劇作品がそうだ。どれをとっても一級品であり、「完璧」である。

洋画はどうか。『ローマの休日』は好きだけれど、そんなに繰り返し観なくてもいい。『ターミネーター2』は面白いけれども、半分寝ながらでも楽しめる。『スーパーマン』シリーズも然り。あ、あったあった、チャップリンの『街の灯』だ。あれはいい。好きだ。ラストシーンではいつも泣いてしまう。

『街の灯』のヒロインは視覚障害者だったが、障害者やその周辺にある人が重要な役割を果たす映画は、少なくない。知的・自閉の周辺等に限っても『フォレスト・ガンプ』『レインマン』『レナードの朝』などがすぐ思い浮かぶ。緘黙の『エイミー』もこのリストにいれていいかもしれない。日本ではTVドラマにもなった『裸の大将放浪記』が有名だ。

そして『アイ アム サム』である。なぜこの映画に自分がそれほど惹かれるのか、説明することは難しい。ただ、観る度に新しい発見があるのは確かだ。レビューをみると、「7歳児の知能しかない主人公がセックスできるのか?」などという批評もあったが、今回はこのことについて考えてみたい。

冒頭の何シーンかで、サムに自閉的傾向があること、知的障害者であることがわかるようになっている。スターバックスはサムの「世界」だ。それが、カラフルな街の壁を経て、レベッカが入院している病院に入ったとたんに、フィルムがブルーになる

なぜブルーなのかはハッキリしないが、色的に不安や焦燥を暗示しているのは確かだ。またこれは「色眼鏡」でもある。なぜなら、フィルムがブルーになるのは、病院や警察、裁判所など「公的な機関」のシーンが圧倒的に多いからだ。そういったところではサムはサムでなくなる。「知的障害者」であり「犯罪者」(誤認)であり、せいぜいが「おかしな人」「かわいそうな人」でしかない。

「サムには7歳児の知能しかない」。測定できる項目の、測定できる範囲内において、それは確かに「事実」だろう。けれども7歳児には7年間の経験しかない。サムは大人の男である。経験もあれば知恵もある。「わからないことは人に聞く」「できないことは人の知恵を借りる」「誰かの言っていたことを引用する(引き合いに出す)」。誰だって実践していることではないか。

あるいはサムがリタに食事をおごるシーンがある。精算のとき、彼は最初足し算をしているように見えるので、見ている人は計算が合わずに変なことを言うと思う。ところが彼の言うことをよく聞いていると、引き算をしておつりを確かめ、20ドル-おつり=代金という計算をしていることが判明するのである。「(やり方は)違っていても、(答えは)同じ」。それはまた、この映画に出てくる絵本の(うちの一冊の)テーマでもある。

食事をおごる時、サムは「僕だって大人の男だ」という。それはリタに対する抗議であると同時に、知的障害者のIQとEQをしばしば混同する世間に対しての抗議でもある。彼には経験があるし、心があるし、知恵があるし、生殖能力もある。どうして「父親になってはいけない」のだろう?

勿論そのためには相手が必要だ。サムのパートナーのレベッカはホームレスである。彼女が何故サムの子を妊娠するようになったのか、映画の中では「はずみ」としか描かれていない。それだけでは説得力がないと言うなら、リタとサムの擬似恋愛シーンを思い浮かべてみよう。レベッカにとっては「はずみ」乃至「一時の気の迷い」だったのだとしても、彼だって立派に女性を慰めることができるのだ。

「知的障害者が子供をつくる」ということに対する反発は根強いと思う。それは精子銀行と同じ優生思想に基づくもので、実をいうと不具にも反発とはいかないまでも、心理的抵抗が全くないわけではない。しかし映画の作り手は、ここでもきちんと答えを出している。裁判の席上で証言席に座った女医ブレイクの母親のIQはわずか70であった事が明らかになる。ということは、少なくとも監督は映画の中で「知的障害者が血縁的にだれかの親になることには何ら問題がない」と言っているに等しい。そうなると、あとは養育サポートの問題である。

レビューの中には、7歳の少女ルーシーと7歳児の知能をもつ障害男性の「初恋物語」なのではないか、という見方もあった。レベルが同じ、というわけなのだろう。なるほど。しかしそれは一見ほほえましい見方ではあるが、一歩間違えば「ロリコン」「近親相姦」物語になってしまう。あるいはこの物語を否定的に見る人は、そのような社会的に受け入れられざる「ロリータ・コンプレックス・ラブ・ストーリー」として受け止めてしまったのかもしれない。

だが、この見方も実は作り手は「ノー!」と言っているのだ。サムは確かに「受け入れられざるもの」かもしれないが、ロリコンではない。大人の女性とセックスをするのみならず、証言台に立ったアニーが実の父親に強姦された過去を持つことを公の場で暴かれそうになると、サムは「ノー!」と叫ぶ。「アニーの父親はクズだ」というサムは決してロリコンではないし、娘をレイプする畜生でもない。

勿論、だからといって、裁判に勝ったサムがこれまでと同じようにルーシーと幸福でいられるかどうかは、わからない。『クレーマー、クレーマー』やビートルズを引用することで、映画のなかの世界が現実の世界と地続きであることを暗示しているとしても、映画そのものはフィクションである。したがって、「よく言えばファンタジー、悪く言えば嘘」という批評もあながち的外れとはいえない。ただ、愛するがゆえにルーシーを「手放した」里親のランディはサムに協力を惜しまないだろうし、映画の結末はサッカーのゴールと同じようにルーシーが自力で勝ち取ったものだ。だから少なくとも彼女は後悔しないだろう、と思いたい。





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Last updated  2006.07.11 11:49:41
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