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カテゴリ:古典/日本文学研究・国内外(比較)文学論
気がつくと、最近フランス文学の紹介ばかりしている。単なる偶然だけれども、そろそろほかの国の小説についても書くために、ここらでひとつの区切りをつけようと思う。
書評、あるいはそれに類したものを書く、というのは多かれ少なかれペダンティック(学識をひけらかす)行為である。書く者はやむにやまれぬ気持ちや、そのままにしておけば記憶の谷間から零れ落ちてしまう読後感を、何とか残そうとしているのだが。 ティボーデは一般の読者は信者であり、批評家は僧侶であるという。なるほど。すると小説の書き手は神ということか。その比喩の是非についてはともかく、作者が創造した世界に説得力がなければ読者はついてこない。それは聖書にも小説にも言えることであり、キリスト教文化圏で近代的小説が発達したのもむべなるかな、である。 小説(ロマン)はまた有象無象のロマネスクから生まれた。ロマネスクとは昨今の日本の出版状況にたとえればハーレクインロマンスであり、またライトノベル的世界である。しかしそのロマネスクの大河から、反ロマネスクとして近代的小説のあり方を提示したのが『ドン・キホーテ』であり『ボヴァリー夫人』であった、という指摘は大変興味深い。 さらに氏によれば、小説は「総括体小説」「受動的小説」「能動的小説」に分かれるという。 簡単に言えば「大河小説」「教養小説」「中短編小説」となるだろうか。 20世紀初頭に書かれたこの本の著者は、まだ『源氏物語』を知らない。にもかかわらず、小説の構成(筋、性格、状況)について、雄弁や劇文学のような緊密な構成は必要条件ではないと言い切っているのは慧眼だと思う。また、近代的読者の源泉が騎士道小説と恋愛小説にあるというのも、また叙事詩的語りこそ「始め、中、終り」をもたぬ小説と同じ範疇に属する文学的形式だ、というさわりも、『源氏物語』の対極に『平家物語』をもつ国の読者に訴えかけるものがある。 残念なことに、不具はフランス文学の愛読者ではない。したがって、この本には近代フランス文学の傑作に関する短い書評があちこちにちりばめられているが、その大半についてあいまいな感想しかもてない。人生は長く、芸術は短しというが、不具の素養などまだまだ付け焼刃であり、真の教養人への道はまだまだ遠いと思う。書評を書く、という行為は当分の間、衒学的なものにならざるを得ないようである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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