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安倍総理は教育改革に意欲的らしい。
確かに大事な事である。 多感でスポンジのように何でも吸収する時代に何を学んだかということが、個人の人格に与える影響も大きいし、その集合体である国家に与える影響も大きいに違いない。 戦前の教育が第二次世界大戦を容認する国民意識を作ったことも間違いない。 教育とは、ある意味で国家ぐるみの「洗脳」であるともいえる。 だからこそ教育の問題に神経質になるのも無理はない。 結果として、「学力」のみに重点を置いた教育にならざるをえない。 これは、骨を鍛えずに筋力のみ鍛えるに等しい。 手に入れた力を何に使ったらいいのか分からない。 なぜなら「価値」を判断するための「精神」が未熟だからだ。 見た目は強そうだが、少し無理をすると骨折してしまうという脆い日本人が大量生産された。 安倍総理は教育再生会議の冒頭で、「学力と規範意識」と言っていたが、規範意識というのはいったい何だろう? そう思って調べてみると、 社会の中で生きていくためのルールを遵守して、社会にとって望ましい行動を取ろうとする心の動きらしい。 集団生活を円滑に送るためのマナーを守ろうとする意識ということなのである。 「そうじはサボらない」 「カンニングをしない」 「ゴミはゴミ箱に捨てる」 「人をいじめない」 「遅刻をしない」などなど これらを守ろうとする意識が規範意識 思えば、小学時代に先生からよく注意されていたことではある。 ただ、お題目のように唱え続けても子どもの心が動かなければ意味がない。 大事なのは、ルールを守るということの背景にある「心」を教えることなのではないだろうか? ルールの基本は陳腐ではあるが、「思いやり」なのだと思う。 人の気持ちを考えること、人をごまかさないこと。 その心が根底にあれば自然とルールに従った行動になると思うのである。 テストでいい点を取った子ども以上に、人に優しくした人を評価する学級の雰囲気が大切だ。 人のために何かをすること、人の目をごまかさないこと、目標に向かって努力すること、 物を大事にすること。 それ自体を高く評価する風土を作っていくのが教師の役割なのだと思う。 いくら「掃除をサボるな」といっても駄目だ。 教育というのは、家庭と学校が車の両輪のようにうまく機能しないと前に進まない。 先生の言うことと親の言うことが違ったら、子どもは何を信じればいいのだろう? 物を大事にしよう、と先生が言っても、親は「買った方が安い」が口癖だ。 給食は残さず食べよう!といわれるが、親はご飯粒を茶碗にいっぱい残している。 掃除をサボるな、といわれても、親は町内会の掃除に参加していない。 数え上げればキリがないほど「家庭」が教育の足を引っ張っている。 教育再生というのは、家庭の再生でもあり、地域社会の再生でもあるようだ。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006/10/19 06:57:11 PM
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