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Mar 2, 2007
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カテゴリ:小説 上杉景勝
  石田三成の手が関白秀次にも伸びた、それは秀吉がお拾を得たことから

はじまった不幸な出来事であった。秀吉に嫡男が誕生したことで秀次の立場が

微妙に変化した。秀次は関白となると異常な性癖を見せはじめた。

  殺生を好み、女にも凄まじい興味を抱きはじめた。白昼、公然と辻斬りを

おこなったり、妊婦の腹を割いて楽しむなど、悪逆非道を行った。

  秀吉は名護屋城に出陣するさいに、豊臣家二世の主と定め、細々とした

訓戒を与えたが、秀次はその誓約を裏切ったのだ。

  人々は殺生関白と陰口をたたき秀次を恐れた。だが、天下の継承者となった

秀次に接近する大名が日毎に増えた。それは世の中の趨勢(すうせい)である。

  伊達政宗を筆頭として池田輝政、浅野幸長、最上義光、細川忠興等の武将

であった。太閤秀吉はお拾を得て継承問題に悩んでいた。

  一旦は秀次にと考えを纏めたが、嫡男の誕生で心が揺れ動いていた。

  そんな秀吉の心の迷いを三成はいち早くさっした。最近の関白秀次の行状は

いちじるしくない、ここに眼をつけ増田長盛と秀次の身辺を洗い出し秀吉に報告

した。こうした情報に接し、太閤秀吉は関白秀次に対し信頼を失っていった。

六月末、秀次に謀反の疑えがかけられた、訴えたのは石田三成であった。

謀反のきっかけとなったのは、病死した蒲生氏郷の遺領問題であった。

  氏郷の遺領を遺児の秀行に認めようとする秀次に対し、秀吉が反対したの

だ。その対立する事態の収拾を図ろうとした、秀次の朝廷工作の献金が謀反と

見なされたのだ。秀吉は我が命に反対する関白秀次に激怒した。

「三成、関白秀次を糾弾いたせ、どのような釈明も受け入れてはならぬ」

  秀吉の怒りは頂点に達していたのだ。

「殿下は、さほどに関白殿を毛嫌いされてか」 これが偽らない三成の感慨であ

った。太閤秀吉は、三成に秀次の切腹を命じてきた。

  豊臣家の行く末を思うと、三成は前途に暗雲を禁じえなかった。ここは秀次を

たて、お拾さまの成人を待つのが上策とは思ったが、ここに至っては秀吉の命に

従うしか道はなかった。

  文禄四年七月三日、秀次は石田三成と増田長盛の糾明をうけ、翌日には

官職を剥奪されて高野山に追放された。秀次は、その日のうちに切腹を命じられ

命を絶った。さらに八月二日、秀次の正室以下の妻妾、子等三十九名が京の 

三条河原で斬殺された。

  この事件から太閤秀吉は、人代わりしたように残虐非道となっていった。

  この一件で伊達政宗が秀次との連座をとわれ居直っている。

「太閤殿下が関白殿下に天下を譲られたので取り入ったまでのこと、もし、これ

を咎と思し召すなら是非もなき、我が首を刎ねられよ。本望なり」 

  決然と言い放った。流石は奥州の曲者伊達政宗だけはある。

「政宗、わしの誤りじゃ。そちと同じ境遇ならばわしもした、今回は見逃そう。

じゃが、わしを少し甘う見たようじゃな、わしの後継者はお拾じゃ。忘れるでな

い」  天下の主、秀吉が細い眼を光らせた。

「ははっー」  奥州の覇者、伊達政宗の脇の下から冷や汗が滲み出ていた。

  この事件の功績をかわれ石田三成は、秀次の遺領をついで佐和山城十九万

四千石の大名に取り立てられた。時に三成、三十六歳であった。

  こうして三成は豊臣政権のなかで、五奉行としての地位を築いてゆくことに

なるが、秀次と連座を疑われた大名達からも敵として憎まれることになる。

  慶長二年(一五九七年)一月、明国との講和交渉が不調に終わり第二次朝鮮

の役が再開された。先陣は、またしても小西行長と加藤清正が命じられた。

  両人は出陣日を待たずに渡海し、烈しい先陣争いを繰りかえし先を争った。

  二月二十一日に、秀吉は在朝諸将の陣立を発表した。総勢十四万一千五百

名を八陣に編成し、諸将連の布陣を定めた。

  今回の秀吉は名護屋城に下向せず、伏見城から指示を出していた。

  明国も二月十一日に、朝鮮救援を決定し戦闘準備に入った。

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Last updated  Mar 2, 2007 09:54:02 AM
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