長編時代小説コーナ
PR
Keyword Search
Profile
龍5777
基本的には時代小説を書いておりますが、時には思いつくままに政治、経済問題等を書く時があります。
Favorite Blog
Comments
Category
Freepage List
Calendar
< 新しい記事
新着記事一覧(全1419件)
過去の記事 >
「上杉景勝と兼続の最後の合戦」(七) それは上杉家と徳川幕府との密接な関係修復策であった。修復と云うよ りも接近策が正しいかも知れない。 その為に兼続は、幕府普請工事を財政の負担を覚悟し積極的に協力した。 慶長八年には江戸市中の土木工事、十四年には銚子港工事、十九年には 米沢城下の造成中にありながら、越後高田城の築城工事にも協力を惜しま なかった。こうした地道な取り組みで幕府の警戒はしだいに薄らいだ。 兼続は家康の信頼の篤い、本多佐渡守正信に接近した。 本多正信の次男の正重(まさしげ)を兼続は養子とし、長女のお松と娶わせ た。この時期、兼続の長男の景明は十才であり、完全な政略結婚であった。 この結果、正信は上杉家に非常な好意を示し、正信の尽力で軍役十万石の 免除などが実現するのだ。 この養子となった正重の経歴は、なかなか面白いものであった。 若い頃に刃傷沙汰を起こし諸国を放浪し、宇喜多秀家に三万石で召抱えら れたが、関ヶ原合戦に敗れ浪人となり米沢城下に来ていたのだ。 養子となった翌年に、妻のお松が病死した。 四年後、兼続は姪の阿虎(おとら)を養女として政重の継室としたが、兼続の 嫡男、景明が結婚するに及んで家督相続のいざこざを危惧し直江家を去った。 政重は後に加賀藩主、前田利光(としみつ)に三万石で仕官し、本多安房守と 名乗ることになる。 父の正信の威光であろう、阿虎も加賀に赴いた事は当然である。 加賀前田家に移っても、政重は兼続と親交を続けた。 こうして本多家を通じ幕府との関係を深めた上杉家にとり、名誉となる報せが 届いた、将軍公がご来臨するとのことであった。 兼続は藩邸に将軍をお迎えする、御成門の造成工事を昼夜兼行で行った。 慶長十五年十二月二十五日、多数の家臣を引き連れた将軍秀忠の来駕が あった。これは外様大名の財源を消費させる、幕府の施策の一環であったが、 黄金の豪華絢爛たる御成門が、上杉家の桜田屋敷を飾ったことは、諸藩の 大名家から見れば特別の待遇と思われるものであった。 直江兼続は景勝と軍勢の歩みを見ながら、当時を回想している。 この度の大阪攻めは、兼続にとってこれまでの十四年の総仕上げであった。 この合戦が、おそらく最後の合戦となろうと兼続には確信があった。 この合戦以後、もう天下を決するような合戦はあるまい。 謙信公以来の武の家としての上杉家の、名誉と尚武を示す機会はこの時し かない。その思いは恐らく大阪城に籠もった浪人達とて同じことだろう。 ならばお互いに華々しく武士らしい最後の戦いをしてやろう。 直江兼続は傍らの主人、景勝の横顔をそっと見つめた。 相変わらず兜を深く被り、眼庇から剽悍な眼差しで将兵等を眺めている。 手には青竹を握っている、その横顔からは主人の感慨は推し量れない。 景勝も同じことを考えていた。大阪城の浪人共は死に花を見事に咲かせよう と、その意地のみで大御所に対抗し籠城しておる。 己の武名を揚げ、一期の誇れにしょうと彼等は華々しい死を望んでいる。 ならばとっくりと見てやろう、そして上杉の武とはどのように烈しいか、この 景勝と兼続が共に築いてきた、武の家の誇りが、どのようなものか大御所に 今こそ見せてやる。 上杉家は謙信公以来の武名だけは残さねばならぬ、天下に恐れられ信頼 される為にも、この合戦場は格好の場所である。 続く
武の家 上杉家。 Jan 31, 2009 コメント(32)
武の家 上杉家。 Jan 30, 2009 コメント(18)
武の家 上杉家。 Jan 28, 2009 コメント(15)
もっと見る