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Nov 26, 2012
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カテゴリ:改訂  上杉景勝
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「改定  上杉景勝」 (115)


 こうして池田輝政の案が採用された。この日が八月二十二日であった。

 早暁、木曽川に銃声が轟き、東西の軍勢がはじめて銃火を交わした。

 東軍、三万六千名が木曽川を渡河し、猛烈な先陣争いをしながら攻撃を

仕掛けた。軍中にある本多平八郎と井伊直政が顔を見合わせニヤリとし

た。これもすべて福島正則のお蔭であった。

 なにも軍議なんぞしなく、正則の功名心をただ煽るだけでよいのだ。

 西軍の織田秀信の先鋒隊が、真っ先に後退した。

 東軍の攻撃は凄まじいものであった。

 東軍の三万六千名は福島勢と池田勢とに分かれ、大手門と搦め手へと

芋を洗うような先陣争いをしつつ、木曽川の上流と下流から攻めかかり、

岐阜城へと迫った。

 堅城を誇った岐阜城は東軍の大軍に包囲された。もともと戦意の乏しい

西軍の防戦は緩慢なもので、さしもの城塞も翌日には陥落した。

 東軍は余勢をかって犬山城も攻め落とした。

 この戦勝報告を聴いた家康は、肥満な体躯を踊りあげた。

「やったか」

 家康はこれを一日千秋の思いで待っていたのだ。

 秀忠は既に八月二十四日に宇都宮を出陣している、総勢三万八千の

大軍団である。軍監として本多正信と榊原康政が加わっていた。

 この徳川第二軍団は信州を抜け、関ヶ原へと向かう手筈となっいた。

 九月一日、家康が漸く重い腰をあげた。彼は甲冑を用いずに軽装な

羽織袴姿で東海道を西上した。

『家康動く』 この報せは翌日には会津にもたらされた。同時に岐阜での

西軍の敗戦の報せも届いた。

「狸め、動きよったか。それにしても西軍の弱さはなんじゃ」

 景勝は一人若松城の天守閣から、岐阜方面に眼を転じ吐き捨てていた。

 この事態を待っていたかのように最上義光が先に動いた。

 彼は秋田実季(さねすえ)と組んで、上杉家の酒田城攻撃の動きをみせた

のだ。義光は元々、庄内、米沢を己の領土とすべき野望を抱いていた。

 一方の上杉家は会津、庄内、佐渡と領土が分割しており、合戦ともなると

不利な状態であった。その為に最上領は喉から手が出るように欲しい領土

で最上領を占拠し、背後の憂いをなくしたいという一念もあった。

 酒田城代は知将で聞こえた志田義秀で、彼は三千の兵力で守りを固めて

いた。山城守の許に最上領への進撃の下知が、景勝よりもたらされた。

 九月九日、直江山代守は三万の精兵を率い、米沢城を出馬した。

 家康が江戸を経ったのが九月一日であるから、上杉勢の侵攻は素早い

ものであった。

 目指すは最上領の最前線に位置する畑谷城である。

 山城守の下には春日元忠、色部光長、水原親憲、上泉泰綱、前田慶次ら

の猛将連が加わっていた。

 途中から酒田城代の志田義秀が、三千の兵士を率い軍団に加わった。

 山城守は三千名の先鋒隊の将を色部光長に命じた。この武将は攻撃に

は無類の強さを発揮するが、守勢に立つと脆い一面があるとみていた。

 山城守は本陣に毘と龍の戦旗を靡かせ、己は愛の前立ての兜に薄浅葱

糸威最上具足を纏い、鹿毛の駿馬に騎乗していた。

 畑谷城への侵入経路はニ街道ある。山城守は敢えて狭隘で険路な

狐越街道を選び軍勢を進めていた。

 これには山城守の深慮が働いていたのだ、最上勢は大軍の通過に適し

た、中山街道から上杉勢は侵攻するとよみ、伏兵を忍ばせていたのだ。

 山城守は最上義光の戦術の裏をかいたのだ。

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Last updated  Nov 26, 2012 11:29:50 AM
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