カテゴリ:安部公房
安部公房の最後の小説「カンガルーノート」を読んだ。 世界的にも著名で、数々の文学・芸術活動で活躍した安部公房も、この作品を描く頃は高齢に達し、健康を崩しがちだったようだ。入退院を繰り返し、著者も病院のベッドで「我が身に迫り来る死」について否が応でも、考えさせられ、その微妙な心理状態を、この作品に反映したのではないかと思われる内容だった。 豊かな想像力、人間への鋭い洞察力を小説の土台にしっかりと構えながらも、人生の最後に必ず迎える死の世界への旅立ちを、幻想的に、しかもユーモラスに描いている。 ある日突然、貝割れ大根が足のすねに生え始め主人公の男は、その治療にかかった病院のベッド上で様々な幻覚を観るが、不本意ながらベッドごと(それを乗り物にして)行く宛てのない旅に出さされる。 本人は全く行く先が分らないというものの、それは暗黙に死への旅立ちを意味するようにも感じた。そして、その主人公に、安部公房は自身の姿を投影したように思える。 賽の河原で出会う老人達、子鬼達の合唱、ミス採血娘のドラキュラの娘や亡くなった母を彷彿とさせる老女との出会い等、旅の途中で出会う数々の摩訶不思議な体験は、死を身近に意識したものでないと見ない幻想・幻聴だと思う。 私は、まだ四十代で自分の人生の終結を身近に感じることは、さすがにまだ無いのだけれど、この小説を、もっと高齢になって読み返した時に、また別の見解が出来そうな気がした。 「有袋類と言うのは、結局のところ、真獣類の不器用な模倣なんじゃないでしょうか。その不器用さが、一種の愛嬌になって。身につまされるというか.....」 カンガルーという有袋類の動物と真獣類の比較描写には、著者自身が感じる「生へのもどかしさ・歯がゆさ」が顕著に現れる。自分の人生を振り返り、死を間近に感じるからこそ鮮やかに芽生える生への執着・もっと器用に生きられたのではないかという遣り残し・無念に似た感情を生じたのであろう。 そして最終項で、冷静に現実を捉える自分と、反対にそれに怯える自分を客観的に描きだし、読者は息を飲むような見事な仕掛けに驚愕する。この文章を練りだした安部公房氏の当時の心境を思うと、胸が一杯になる。死を身近に感じた彼自身の姿が、飾ることなくそのまま曝け出されて、圧倒される。常に冷静なスタンスで書いてきた著者の感情が、ここで一気に露呈し、昇華していくような意味深いエンディングである。 登場人物もstoryも、確かに夢のように幻想的な世界である。 しかし、もしかしたら誰もが「病やそれに続く避けられない死」とはじめて対峙した時、この小説のような幻覚・幻聴を体験しながら、黄泉の国へ旅立つのではないかと感じた。 全てを理解するのは難しいけれど、死に向かう人の心理を漠然と掴み取るような不思議な感覚が、後に残った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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