カテゴリ:科学的とは?
科学者や数学者が、どうして社会に声を発しないのか? 戦前にも、立派な学者は、世界的な業績をあげていたころからも いっぱいいたことがわかります。 しかし、相次ぐ理不尽な政治や軍部の判断に対して、 さほどの抵抗も見せていません。
自分のアタマで考えるのが、科学の本領とすれば、 見事に失敗していると言えます。 現代だって、本当に必要なことを、発信しているのかと言えば とっても疑問だと思います。
これは、日本ではサイエンスのことを「科学」と訳していることと とってもつながりのある問題だと思っています。 「科学」という言葉は、現代の細分化された狭い学問を追求するという 意味合いが込められています。 丸山眞男が日本の近代文化のあり方は、「タコツボ型」であるということに 通じていると思います。 細分化された狭い象牙の塔の中で、 全体の中でのその意味を問い続けることなく、 目先の業績を上げることだけに躍起になっていた。 または、そう仕向けられたのです。
西洋で、サイエンスが発達してきた歴史は、哲学の流れなのです。 ニュートンの頃までは、「ナチュラル・フィロソフィー」だったのです。 この根本精神のプロセスを踏まずに、 専門分化して、また、技術に偏った「サイエンス」を 目先の都合のために、導入した結果、 日本では、タコツボ型の科学者をいっぱい生んでしまったのでしょう。
そもそも、日本の為政者は、自分のアタマで考える国民を 育成する気はなかったのですから、 科学教育は、危険なものでした。 だから、そいうものは、限られた領域だけに限定させておきかったのでしょう。
その意味で、日本の科学教育は、 まだ明治の政策を引きずっているのです。
国民も、偏った科学観から抜け出していないのです。
早く、現代の日本の科学教育を確立させたいものです。 それより、「科学」という言葉を取り換えたいものです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.08.13 12:23:58
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