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カテゴリ:親子の問題
●依存性
+++++++++++++++++++ 人間が動物としてもっている、(群れ意識)、 それが、依存性に転化した。 その依存性は、本能的であるがゆえに、 なかなか、その輪郭(りんかく)を外には現さない。 そのため、「私は独立心が旺盛だ」と思って いる人でも、依存性の強い人は、多い。 +++++++++++++++++++ 「よい人間でいよう」「よい夫でいよう」「よい妻でいよう」、さらには、「よい親でいよう」と思うこと自体、すでに、それが依存性の表れとみてよい。人間は、だれかを意識し、自分の立場を意識したとたん、そこに(保護)と(依存)の関係をつくる。 誤解してはいけないのは、保護意識が強いからといって、依存性が弱いということにはならない。「だれかに保護してもらいたい」「だれかに依存したい」という意識が転じて、得てして、それが他人を保護するという意識に変わる。そういった例は、親子の間で、よく観察される。 たとえば子どもの受験競争に狂奔する親。このタイプの親は、一見すると、保護意識が強く、その分だけ、独立心が旺盛のように見える。しかし実際には、子どもに依存したいという意識が基本にあって、それが転じて、親をして、子どもの受験競争に駆り立てる。もう少しわかりやすく言えば、子どもを1人の人間として認めていない。つまりはそれだけ子離れできない、未熟な親ということになる。 が、だからといって、依存性のない人はいない。だれでも、多かれ少なかれ、依存性を、体質としてもっている。実際には、「私は私」と、自分を確立しながら生きるのは、この世界では、容易なことではない。子どもについて言えば、「うちの子は、うちの子」と、子どもを守りながら生きるのは、この世界では容易なことではない。 人に依存して生きることによって、自らがもつ重荷を、軽減することができる。その分だけ、気が楽になる。 半面、独立的であろうと思えば思うほど、そこにあるのは、(孤独)。言いかえると、依存性がもつ甘美な世界と、独立性がもつ孤独な世界は、ちょうど対照関係にある。だから人は、無意識のうちにも、独立的であろうとするよりは、だれかに依存しながら、楽に生きる道を選ぼうとする。冒頭に書いた、(群れ意識)というのも、そこから生まれた。 私は、これを昔から、「甘い誘惑」と呼んでいる。が、その甘い誘惑から自分を切り離し、独立して生きることは、容易なことではない。たとえば(自由)という言葉がある。人が真に自由を求めようとするなら、まず、この甘い誘惑から自分を切り離さなければならない。 話がわかりにくくなってきたので、もう少しわかりやすい例で考えてみよう。 ある教会に、1人の信者がやってきた。その信者は、白内障で、視力がかなり低下していた。が、その少し前、手術で、白内障が治った。 その信者は、教会の祭壇の前に正座すると、こう言った。「神様が私を守ってくださったおかげです」と。何度も何度も手を合わせ、祭壇に向って、礼拝した。 しかし白内障を治したのは、実は、神ではない。病院のドクターである。しかし依存性、このばあい、神への依存性の強い人には、それがわからない。「神様が、白内障を治してくれた」と考える。しかも白内障といっても、今では、簡単な手術で治すことができる。 しかしその信者は、自分では、けっして神に依存しているとは、思っていない。「神を信じている」とは言うが、「依存している」とは言わない。しかし依存は、依存。それがわからなければ、子どもの受験について、合格祈念をしている親の姿を思い浮かべてみればよい。 そんなことに(力)を貸す仏や神がいたとするなら、その仏や神は、エセと考えてよい。常識のある人なら、そう考える。しかし依存性が強くなると、それがわからなくなる。そして子どもが運よく(?)、目的の学校に合格できたりすると、「仏様のおかげ」「神様のおかげ」と喜ぶ。 子どもの能力ではない。子どもの努力でもない。仏や神のおかげと、それを喜ぶ。 こうした依存性と戦うためには、まず自分の中の、依存性に気づくこと。たとえばあなたが子どもの歓心を買うために、何か高価なプレゼントを買い与える場面を想像してみるとよい。そのときあなたは、心のどこかで、「買ってやる」という、(やる意識)をもつかもしれない。 それも立派な、依存性である。だから子どもがあなたの期待に応えなかったりすると、「あんな高価なものを買ってやったのに」と、子どもを叱ったりする。子どもが高校受験に失敗した日に、私にこう言った母親さえいた。「子どものころから、音楽教室や体操教室に通わせましたが、みんな、ムダに終わりました」と。……ムダ? さらにそれが高じてくると、子どもに向って、「産んでやった」「育ててやった」「大学まで出してやった」となる。が、それについては、もう、何度も書いてきたので、ここでは省略する。 話をもどす。 概していえば、日本人は、民族学的な視点からしても、依存性のたいへん強い国民である。日本人独特の集団意識、ムラ意識などに、その例をみる。「みなで渡れば、こわくない」という発想を共にもつ。つまりそれだけ日本人は、独立心が弱く、さらにその分だけ、(自由)というものがどういうものであるか、それを知らないでいる。自由とは、もともとは、「自らに由(よ)る」という意味である。 ……以上、思いついたまま、メモ風に書いたので、どこかチグハグな感じがしないでもない。雑感として、ここに記録する。(07年3月9日) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007年03月09日 11時26分42秒
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