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楽天・日記 by はやし浩司

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心の問題

2009年09月01日
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カテゴリ:心の問題
●人間不信

++++++++++++++++++

ゆらゆらと揺れるカーテン。
その向こうに、乾いた庭の落ち葉が見える。
台風が、現在、太平洋上を、関東地方に向かっているという。
湿り気を帯びた、あやしげな風。
それがパタパタと、庭をせわしく走り抜けている。

だれもいない朝。
ワイフは、午前中はクラブに出かけて、今はいない。
時間は、先ほどから止まったまま。
私はぼんやりと時の流れに身を任す。

++++++++++++++++++

●自業自得

 「人間不信」というと、(私)の問題と考える人は多い。
まちがってはいない。
しかし「人間不信」には、もうひとつの意味が含まれる。
相手の人から見て、私は、どう見られているかという問題である。
「相手の人は、私を信じているか」と。
人は、他人を信じ、同時に、他人に信じられてこそ、「人間不信」という問題を
克服することができる。
他人に信じられない人が、己の人間不信を嘆いても、それは身勝手というもの。
そういうのを、言葉はきついが、『自業自得』という。
 
●孤立感

 今、ふと我に返る。
私の周りには、だれもいない。
私はひとりぼっち。
孤独ではないが、孤立。
孤立感。
この孤立感は、いったい、どこからくるのか。

 再びゆらゆらと揺れるカーテン越しに、庭の落ち葉を見る。
土の色と化した、葉っぱの死骸。
それがところどころで、小さな山を作っている。
それを見ていると、孤立感が、カプセルとなって、私をすっぽりと包む。

●基本的不信関係

 「他人を信じられない」と嘆いても、意味はない。
「他人に信じられない」と嘆いても、意味はない。
だいたい私は、私自身を信じていない。

 ふわふわとした人生観。
焦点のぼやけた哲学観。
だれにでもシッポを振る、捨て犬のような根性。
「私は私でいたい」といくら願っても、そのつど、世の動きに、そのまま流されてしまう。

 原因は、基本的不信関係。
心理学では、そう説明する。
乳幼児期の貧弱な家庭環境が、私をして今のような私にした。
これは生まれついた、脳みそのシミのようなもの。
簡単には取れないし、また取れるようなものでもない。
本能に近い部分にまで、刷り込まれている。

●心の傷

 だから私には、(その人)がよくわかる。
『同病、相、憐れむ』といったところか。
私に似た人に出会うと、「ああ、ここにも、心のさみしい人がいる」と。

 一見、朗らかで、明るい。
快活で、幸福そう。
しかしそれは仮面。
精一杯、無理をしている。

 そういう人を見ながら、私は、いつもこう思う。
「この人は、自分の心の傷に気がついているのだろうか」と。
あるいは傷があることにさえ、気がついていない?
「かわいそうな人だ」とは、思うが、どうしようもない。
私自身だって、どうしようもない。

●信じられるのは、お金だけ

 私はよい夫を演じているだけ。
よい父親を演じているだけ。
ワイフにしても、私を信じていない。
息子たちとなると、さらに私を信じていない。

 私は、自己愛者。
愛他的自己愛者。
自分勝手で、自己中心性が強い。
プラス、わがまま。
心の中身も、さみしい。
いまだに「信じられるのは、お金だけ」と。
そんな人生観を崩せずにいる。

 だからみんな、去っていく。
楽しそうな顔をしたまま、去っていく。

●希望

 ゆういつの救いは、パソコン。
こうしてパソコンに向かって、心の内を書く。
真新しいパソコンで、キーボードに触れているだけで、気持よい。
その気持よさに陶酔しながら、孤立感をまぎらわす。

 このパソコンの向こうには、私に共鳴してくれる人もいるはず。
数は少ないが、「私もそうだ」と思ってくれる人もいるはず。
今すぐには無理かもしれない。
しかし何か月か、何年かを経て、いつかどこかで、だれかが共鳴してくれるかもしれない。
「文」には、そういう「力」がある。
私にとっては、それが希望。
孤立感を癒す、ゆいいつの方法。

●自分の中のボロ

 しかしどうして私は、こうまで人に裏切られてばかりいるのか。
「人を信じよう」と思ったとたん、そこで裏切られてしまう。
相手は、最初から私をそういう人間と思って、近づいてくる?
それとも最初から、私をまともな人間と思っていない?

そんな人間関係に、ボロボロとまではいかないにしても、もう疲れた。
「信じられたい」と思いつつも、その努力にも限界がある。
私ももうすぐ、満62歳。

 このところザルから水がこぼれ出るように、人々が私から去っていく。
それが実感として、よくわかる。
あの人も、この人も……と。
理由がわかっているだけに、私としてもなす術(すべ)もない。
「歳を取る」ということは、こういうことかもしれない。
自分を支える気力そのものが弱くなる。
孤立に弱くなるというのではない。
自分の中のボロが、そのまま表に出てきてしまう。
それが周りの人たちを、遠ざけていく。






最終更新日  2009年09月01日 09時40分09秒

カテゴリ:心の問題


●捨て身

 「今日、1日だけでもいいから、ワイフを信じてみよう」と、今、思った。
だまされてもいい。
裏切られてもいい。
・・・ワイフは、そういうことはしない。
それはわかっているが、こうなれば捨て身で、ワイフと接してみよう。
気を張れば張るほど、疲れるだけ。
ワイフも疲れる。

 「信じてもらおう」などと思う必要はない。
「信じてやろう」と気を張る必要もない。
ただひたすら、「捨て身」。
何も考えない。
何も求めない。

 こうしてぼんやりと、時の流れに身を任す。
どうせ今の私には、それしかできない。
それしかすることもない。

 そうそう心なしか、庭を行き交う風が、強くなったように思う。
カーテンの揺れが、それに合わせて、大きくなった。
さあて、今日もこうして始まった。
まだ朝のニュースは見ていないが、今ごろは選挙一色のはず。
自民党が歴史的敗北を期した。

……となってみると、今まで、あんな党がどうして50年間も、
日本に居座っていたのか、居座ることができたのか、
その理由がよくわからない。

2009年8月31日(月曜日)


Hiroshi Hayashi++++++++AUG.09+++++++++はやし浩司

●980円の時計(脳の中の脳)

++++++++++++++++++

近くのショッピングセンターでは、毎月
30日に、「みそか市」というのが開かれる。
この日は、商品を選んで特別に安く、ものが
売られる。
1万円の自転車とか、6000円の掃除機とか、など。
その中に、9800円のソーラーバッテリーで
動く腕時計(電波時計)というのがあった。

ググーッと物欲が湧いてきた。
が、ここで「待ったア!」。

++++++++++++++++++

●作られる意識

 最近の脳科学の進歩には、めざましいものがある。
その中のひとつが、これ。

 実は(意識)というのは、それを意識として意識する前に、
脳の別のところで、つまり無意識の段階で、その意識の原型が作られる。
私たちが「意識」と呼んでいるのは、実はその無意識に操られてできた意識
ということになる。

 もう少しわかりやすく説明しよう。

●物欲

 私はその腕時計がほしくなった。
腕時計など、この10年以上、身につけたこともないのに、ほしくなった。
で、ワイフに「あとで、この時計を買いに行こう」と誘った。

 が、実はこのときすでに、脳の別のところでは、「買わない」という意識が
作られていた。
もちろんそれは無意識の世界でのこと。
無意識の世界で、別の反応が起きていることなど、私には知る由もない。
意識の世界では、「ほしい」「買いたい」「買いに行こう」という意識が働く。

●無意識の世界の反応

 で、ショッピングセンターに出向く。
時計売り場に立つ。
時計を見る。
「どこかジジ臭い」と、私は思った。
「重そうだ」と、私は思った。
で、結論は、「買わない」。

 ……と書くと、「どうして無意識の世界の反応が、あらかじめ君には
わかったのか?」という質問が出てくるかもしれない。
私は無意識の世界では、「どうせ店に行っても買わないだろう」と反応していた。
無意識の世界での反応だから、意識の世界で、それがわかるはずがない。
わかったとたん、それは無意識ではなくなる。

●訓練

 ところが、である。
少し自分の脳みそを訓練すると、無意識の世界での反応が、おぼろげならも、
自分でわかるようになる。
そのときも、そうだった。

 コマーシャル(DMチラシ)を見たとき、私は意識の世界では、それを
「ほしい」と思った。
が、同時に、脳の別のところで、モヤモヤとした感覚が、それをじゃました。
それは「迷う」という反応とは、ちがう。
意識の世界では、はっきりと「買う」という反応を示していた。
が、そのモヤモヤとした感覚の中に、「買ってはだめ」とか、「買ってもむだ」とか
いう(思い)が、あるのを感じた。

 言葉ではない。
感覚的な反応である。
それが無意識の世界の(反応)ということになる。

●嘘発見器

 私は実物を見たことがない。
嘘発見器なるものに、触れたこともない。
しかし映画などでは、よく見かける。
その嘘発見器だが、今では、脳の奥深くで起きる反応を見分けることが
できるそうだ。

 だからいくら意識的に嘘をついても、脳の別のところが、別の反応をそてしまう
ため、それを嘘と見抜いてしまう。

 そこで……。
ここからはあくまでも映画で知った話だが、一流のスパイともなると、嘘発見器を
だます技術を身につけるのだそうだ。
本当かどうかは知らないが、もしそういう訓練があるとするなら、それは無意識の
世界をだます訓練ということになる。

 が、そういうことはありえることだと私は思う。
訓練すれば、無意識の世界をコントロールし、ばあいによっては、だますこと
もできる。

 その反対の側位にある反応が、催眠術ということになる。







最終更新日  2009年09月01日 09時39分48秒
カテゴリ:心の問題
●催眠術

 催眠術については、今さら、改めて、ここに説明するまでもない。
あの催眠術を使えば、心の奥の奥、深層心理までコントロールすることが
できる。

 こんな実験を、私は、直接、目撃したことがある。

実験者(催眠術師)が、被験者(女性、30歳くらい)にこういう暗示を与える。
「あなたは目をさましたあと、隣の部屋に行って、ハサミをもってくる」と。

 で、そのあと被験者は催眠術から解かれ、我に返る。
が、そのあとのこと。
被験者は席を立ち、隣の部屋に行こうとする。
それを見ていたほかの人が、「どこへ行くのですか?」と聞くと、
「ちょっと、隣の部屋まで……」と。

そこで「どうして隣の部屋に行くのですか」と聞くと、
「ハサミを取りにいくのです」と。

「なぜ、ハサミを取りにいくのですか?」
「あら、……どうしてかしら?」
「ハサミで何を切るのですか?」
「でも、ハサミを取りにいかなきゃ……」と。

 その女性は、自分の意思でハサミを取りに行くようにみえた。
が、実際には、他人によって作られた(暗示)に、操られていただけ。
ハサミが、なぜ必要なのか、それについては、まったく考えていなかった。

●もうひとりの「私」

 乳幼児期(0~2歳)から幼児期前期(2~4歳)にさしかかってくる
と、子どもは、「いや」という言葉を連発するようになる。

母「お外へ行こうか」
子「いや」
母「じゃあ、おうちの中で遊ぼうか」
子「いや」と。

 そういう子どもの反応を観察していると、子どもの意思というよりは、
子どもの意思そのものが、さらに奥深い意識によって操られているのがわかる。
何も考えず、条件反射的に「いや」と言う。

 子どもの心の中で、自立に対する意識が芽生え始めているためと考えてよい。
その意識が、親の言いなりになることに対して抵抗する。

 同じような現象がおとなの世界でも、見られる。
私のワイフでも、虫の居所が悪くなったりすると、何かにつけて拒否的な態度
を示すようになる。
私への嫌悪感が、ワイフを裏から操る。
「あれもいや」「これもいや」となる。

●残った物欲

 ……ということで、9800円のソーラー電波時計は買わなかった。
が、ここでまた別のおもしろい反応が、脳の中で起きた。
視床下部の指令を受けて、ドーパミンが放出された。
そのドーパミンが、線条体を刺激した。

 私の線条体の中には、物欲に反応する受容体ができあがっている。
「何かほしい」と思うと、それを自分の意思で止めることがむずかしくなる。
アルコール中毒の人が、酒のコマーシャルを見たときのような反応が、脳の
中で起きる。
ニコチン中毒の人が、タバコの煙をかいだときのような反応が、脳の中で
起きる。

 それが何であれ、この反応が一度起きると、簡単には止められない。
そのモノがほしくなる。
とくに私は、デジモノに弱い。
9800円の時計については、買うのをやめたが、「時計がほしい」という気持ちは、
そのまま残った。

 そこで私がしたことは、その横にある、安物の時計を買うことだった。
値段は、980円。
10分の1の値段。
ベルトが布製の、けっこうしゃれた時計だった。
色は茶と白と黒の組み合わせ。
小ぶりで、軽いのも、気にいった。
で、買った。
その日は、一日、その時計を腕につけて遊んだ。
こうして物欲を満たし、やがて私の脳は、落ち着きを取り戻した。


Hiroshi Hayashi++++++++AUG・09++++++++++はやし浩司

●9月の抱負

+++++++++++++++++

明日から9月。
講演の季節。
私は最近、講演に招かれると、できるだけ
先方の地で、そのまま旅館に泊まるようにしている。

来週は、F県のN町と、伊豆半島のA温泉で、
それぞれ一泊することになっている。
楽しみ……というより、そういう楽しみを
用意しておくと、心もはずむ。
講演旅行も、ずっと楽しくなる。
言い忘れたが、私はいつもワイフを連れて行く。
ワイフの趣味は、旅行。
それを満足させてやるのも、夫の役目。

++++++++++++++++++

●料理は最低

 N町の旅館では、鮎の塩焼きが出るという。
A温泉では、伊勢海老の姿焼きが出るという。
結構な料理だが、私たち夫婦は、基本的には小食。
回転寿司でも、2人で、7~8皿が限度。
ときには、6皿。
それ以上は食べられない。

 だから旅館を予約するときも、料理はいつも最低の料理を注文する。
追加料理は、なし。
不要。
そのかわり、風呂の設備のよい温泉を選ぶ。
湯質がよければ、文句なし。


●幻覚

 今日、はじめて、私は(幻覚)なるものを見た。
子どもたち(小4生徒)たちにワークをさせていたときのこと。
シーンと静まり返っていた。
そのとき私は腕組みをして、目を伏せていた。
たぶん、そのとき眠ってしまったのだと思う。
ほんの瞬間のできごとだった。

 目をさますと同時に、ななめ右前の子どもを見た。
見たというより、目に入った。
そのときのこと。
その子どもの背後に、黒いスーツを着た男が立っていた。
その男が、見た瞬間、くるりと体を回すと、そのままドアのほうへ
音もなく消えていった。

 私は思わず声をあげた。
「どちらさんですか?」と。

 今から思うと、それは幻覚だった。
脳の中で、夢と現実が、ごちゃまぜになった。
が、私はワイフにそれを話すまで、それが幻覚だったとは思わなかった。
あとでワイフに電話をして、そういうものを見たと話すと、ワイフは、
「ヘエ~、あなたは幻覚を見たのね」と言って笑った。

 幻覚?
もしそうなら、私は生まれてはじめて、幻覚を見たことになる。
あるいは脳みそが、とうとうおかしくなり始めたのか?
死ぬ直前の母も、よく幻覚を見ていた。

 理屈の上では、視覚野を通して入ってきた情報と、夢として見る
情報が、脳のどこかで交錯したと考えられる。
実に奇怪な経験だった。

 で、その話を子どもたちにすると、私が真顔だったせいもあるが、
何人かが、「先生、こわい!」と言い出した。
「本当にこわいのか?」と聞くと、「こわい」と。
1人の子ども(男児)は、体を小刻みに震わせていた。
「冗談かな?」と思ったが、本当に震わせていた。
いつもは大胆な言動で、みなを笑わす子どもが、である。
それを見て、「そういうこともあるんだ」と思った。


Hiroshi Hayashi++++++++Sep.09+++++++++はやし浩司






最終更新日  2009年09月01日 09時39分19秒
2009年08月26日
カテゴリ:心の問題
●意識vs無意識

++++++++++++++++++++++

 簡単に説明してみよう。
まず、意識を、(意識)と(無意識)に分ける。
今どき、こんな単純な分け方をする人はいないが、ここではそうする。

 つまり(今、意識している意識)を、(意識)という。
それに対して、意識できない意識、それを(無意識)という。
(意識)というのは、わかりやすい。
今、あなたは考えたり、思ったりしていることが、(意識)ということになる。
では、無意識とは何か。
それがわかりにくい。
平たく言えば、それ以外の、表に出てこない意識を、(無意識)という。

 これを簡単に図示すると、つぎのようになる。

――――
意識
====
無意識
――――

意思として自覚する(意識)。
意識として自覚しない(無意識)。
今は、そう考えて、話を先に進める。

ここで、それぞれの強弱を、仮に3段階に分けてみる。

するとそれぞれの組み合わせは、9通りになる。
(意識が強くて、無意識が強い人)、(意識が強くて、無意識が中くらいの人)、
(意識が強くて、無意識が弱い人)……、と。

その中でもわかりやすいのを、3通り、ここに書き出してみる。

(1)(意識・強)-(無意識・強)……精神力の強固な人
(2)(意識・中)-(無意識・中)
(3)(意識・弱)-(無意識・弱)……精神力の軟弱な人

そこでさらに一歩、話を進めてみる。
たとえば(意識が強くて、無意識が弱い人)と、反対に(意識が弱くて、
無意識が強い人)を考えてみる。

(4)(意識・強)-(無意識・弱)……臨機応変に自由に行動できる人
(5)(意識・弱)-(無意識・強)……がんこで、融通がきかない陽と

 たとえば、たいへんがんこな子どもがいる。……いたとする。
一度、こうと言い出したら、テコでも動かなくなるタイプである。
たとえばこんな子ども(年中児)がいた。

 幼稚園でも、自分の座る席が決まっていた。
それ以外の席には、座らなかった。
先生がいくらていねいに指導しても、「ぼくは、この席!」と譲らなかった。

 ズボンもそうだった。
毎日、幼稚園へはいていくズボンが決まっていた。
「青いズボン」と決めると、毎日、そればかりをはいて、幼稚園へ出かけた。
母親が、いくらほかのずぼんを勧めても、それは、はかなかった。

 こうした(こだわり)は、自閉傾向(自閉症児のことではない)のある子どもに、
共通して見られる症状である。
いわゆる(根性)とちがうところは、(理由)がないということ。
理由もなく、「この席でないといやだ」とか、「青いずぼんでないといやだ」とか言って、
カラにこもる。

 このタイプの子どもは、(意思の力)というよりも、その子どもを裏から操る、
(無意識の力)のほうが、強いということになる。
先の分類法によれば、(5)の(意思・弱)-(無意識・強)というのが、それに当たる。

●(意識・強)-(無意識・弱)

 反対に、意識が強く、無意識の力が弱いばあいは、どうか。

 このばあいは、意識できる意思が強く、無意識の世界からの影響を受けないので、
臨機応変に、自分で考えて、自由に行動する。
無意識の世界から、いろいろな命令があがってきたとしても、それすらも、自分の
意思でコントロールしてしまう。

 ただ誤解していけないことは、無意識の力が弱いからといって、それだけ無意識の
世界が狭いということではない。
脳のもつキャパシティは、同じと考えてよい。

●発達段階

 これらのことは、子どもの発達段階を観察してみると、納得がいく。

 いわゆる3~4歳期の、幼児期前期の子どもを観察すると、(言われたことをきちん
と守る)という習性があるのがわかる。
何か母親が言ったりすると、「幼稚園の先生がこう言ったから」と、かたくなに
言い張ったりする。
最初にきちんとした形で入った情報を、絶対的と思い込む。

 そのため、この時期は、(しつけ)がしやすい。
エリクソンは、「自律期」と呼んでいるが、それはそういう理由による。

 しかしその幼児でも、満4・5歳を過ぎると、なにごとにつけ、急に反抗的に
なってくる。
母親が、「新聞をもってきて!」などと言うと、「自分のことは自分でしな」などと
言い返したりする。

 つまり(決められたこと)を、自由な意思で、コントロールするようになる。
上記の分類法によれば、(4)の(意識の力が強くなり)-(無意識の力が弱くなった)
状態を考えればよい。

●思考の融通性

 思考の融通性は、(意識の力)と(無意識の力)の強弱によって決まる。
意識の力が強く、無意識の力が弱ければ、融通性があるということになる。
これを(a)の人と呼ぶ。

 反対に、意識の力が弱く、無意識の力が強ければ、融通性がきかなくなる。
ものごとに、よりこだわりやすくなる。
これを(b)の人と呼ぶ。

 が、それはあくまでも相対的な力関係に過ぎない。
意識の力が弱い人でも、さらに無意識の力が弱ければ、融通性のある人ということに
なる。
このばあいは、軟弱な印象を、人を与える。
覇気がない。
何か指示すると、だまってそれに従ったりする。
同じ融通性がある人といっても、(a)の人のような、強い意識の力を感ずることはない。

●応用

 この分類法を使うと、子どもの様態が、より明確に区分できるようになる。

 たとえば、かん黙児の子どもについて言えば、(意識の力が弱く)-(無意識の力
が強い)ということから、上記(5)のタイプの子どもと位置づけられる。

 反対に、AD・HD(注意力欠陥型多動性児)のばあいは、(意識の力が強く)-
(無意識の力が弱い)ということから、上記(4)のタイプの子どもと位置づけられる。

 このことは年齢を追いかけながら、子どもを観察してみると、よくわかる。
たとえばかん黙児の子どもにしても、AD・HD児にしても、加齢とともに、症状が
緩和されてくる。
自己管理能力が発達し、自分で自分をコントロールするようになるためである。

 で、そのとき、かん黙児の子どもにしても、(がんこさ)はそのまま残ることは多い。
一方AD・HD児のばあいは、もちまえのバイタリティが、よいほうに作用して、
自由奔放な子どもになることが多い。
モーツアルト、チャーチル、エジソン、さらには最近では、あのアインシュタインも、
子どものころ、AD・HD児だったと言われている。

●無意識の世界

 話はぐんと変わるが、ダメ押し的な補足として、こんなことを書いておきたい。

 催眠術という「術」がある。
あの催眠術を使って、被験者に、たとえば「あなたはキツネになった」と暗示をかけると、
あたかもキツネになったかのように、ピョンピョンとはねたりする。
こうした現象は、(意識の世界)が、(無意識の力)に支配されたことによって起こると
考えると、わかりやすい。

 意識の世界で、いくら「私はキツネではない」と思っても、無意識の力の前では、
無力でしかない。
それだけ無意識の世界の力が強力であるとも考えられるが、言い換えると私たちは、
意識の力と、無意識の力の、絶妙なバランスの上で行動しているということになる。

 意識の力だけで行動していると思っても、常に無意識の力の影響を受けている。
しかし意識の力だけで行動しているわけではない。
無意識の力だけで行動しているのでもない。

 それをわかりやすくするために、上記(1)~(5)の仮説を立ててみた。
「私」をよりよく知るための、ひとつのヒントにはなる。

(はやし浩司 家庭教育 育児 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW はやし浩司 無意識 意識 意識vs無意識論 意識の強弱)






最終更新日  2009年08月26日 21時37分47秒
2009年08月25日
カテゴリ:心の問題
●無意識下の変化

++++++++++++++++++++

意識できるから、「意識」という。
意識できないから、「無意識」という。
しかし私は考える。
その意識できない部分にある無意識を、なんとか意識できないか、と。
が、ここでまた別の矛盾にぶつかってしまう。

いくら無意識でも、意識したとたん、それは無意識では
なくなってしまう。
意識である、
そしてさらにその奥に、無意識の世界が広がる。
しかもその世界は、意識の世界より、何十万倍も広い。

そうなれば、さらにその奥にある無意識に向かって、
進む。

ということは、意識・無意識の問題は、レベルの問題
ということになる。
探検にたとえるまでもない。
きわめて表層的な意識だけの世界で生きている人もいる。
しかし一方、本来、無意識の世界にまで深く立ち入って、
それを意識して生きている人もいる。

では、どうすれば、無意識の世界まで奥深く立ち入って、
私は、さらに「私」を知ることができるか。

++++++++++++++++++++

●無意識下の世界

 無意識の世界が、具現化して表れるのが「夢」ということになる(フロイト)。
その夢を分析すれば、無意識下の(意識)が、何をどのように考えているかが
わかるという。

●今朝の夢

 今朝、こんな夢を見た。
寝起きの夢である。
そのとき私は、ワイフとどこかの田舎道を歩いていた。
舗装もしてないような、土むき出しの、でこぼこ道だった。
道も、まっすぐではなく、農家の間をぬうような、曲がりくねった道だった。

 私は近くにいた人に、こう聞いた。
「豊橋へ行くのは、どう行けばいいですか」と。
その人はていねいに教えてくれたが、そちらに方向には、道らしい道はなかった。
そこで私は反対側にある、浜松市への方向を聞いた。

 浜松市への道は、やはりでこぼこ道だったが、わかりやすかった。
私とワイフは、道に沿って歩いた。
しばらくすると、バス停があった。
近くに、駄菓子屋もあった。
私とワイフは、バスを待った。

 しばらくすると、バスがやってきた。
見ると「豊橋行き」とあった。
私とワイフは、バスに乗った。
が、どうも様子がおかしい。

 「今、何年ですか?」と聞くと、前に座った客が、「昭和20年です」と答えた。
とたん、今、もっているお金が使えるだろうか、それが心配になった。
私は、昭和20年ごろのお金は、もっていなかった。
最近のお金を出せば、ニセコインと思われるにちがいない。

 そこで目が覚めた。

●夢判断

 私は、自分が見た夢を、どのように判断すればよいのか。
夢と言えば、私のばあい、ほとんどが旅行をしている夢。
たいていはバスや電車に乗る夢。
そこから家に向かって、帰る夢。

 慢性的な不安神経症(パニック障害)が、基礎にあると考えられる。

 で、今回は、昭和20年。
これには最近見た、テレビのドキュメンタリー映画が影響しているようだ。
あるいは私はSF映画を、好んで見る。
その影響もあるかもしれない。

 バスの運賃については、バスに乗るたびに、小銭の心配をする。
それが夢の中にも、出てきた。

 しかし農道にしても、あのバスにしても、いかにも昭和20年ごろのものという
感じがした。
それは私が子どものころ、どこかで見た農道が、記憶の中に残っているものと思われる。

●根なし草

 こうした夢と、私の無意識とどう結びつけたらよいのか。
ひとつ気になる点があるとするなら、私が見る夢は、ここにも書いたように、いつも旅行
をしている夢。
旅行を楽しんでいる夢というよりは、「家に帰る」という夢。

 私はいつもどこかに住みながら、(そこ)を、定住の場所とは考えていない。
あるいはふつうの人ならみな、もっているだろう安定した(故郷感)をもっていない。
私にとって、(故郷)というのは、そういうもの。
子どものころから、実家のあるあの(故郷)が、いやでいやで、たまらなかった。
つまり私は、「根なし草」。
心の拠りどころをもっていない。
それがそのまま夢の中に、現れてくる。

 私が日常的に感じている、不安感、さらに言えば、孤独感の原因も、どうやらその
あたりにある。
そしてそれがそのつど、姿、形を変えて、私の生きざまに大きな影響を与えている。

●末那識(まなしき)

 こうして私は、無意識下の「私」について、ひとつの手がかりを得たことになる。
無意識下にも、「私」がいて、それがいつも私を、「下」から操っている。
・・・と考えなおしてみると、あのジークムント・フロイトという人は、ものすごく頭の
よい人だったということがわかる。

 もっとも仏教の世界でも、同じようなことを言っている。
「末那識」(まなしき)という言葉もある。

「末那識」について書いた原稿をさがしてみる。

++++++++++++++++++++++++はやし浩司

●愛他的自己愛者(偽善者)

+++++++++++++++++

私の知人に、こんな女性(当時55歳くらい)がいた。
その女性は、何でも、ボランティア活動として、近所の
独居老人の世話をして回っているという。
そういう話を、その女性から直接、聞いた。

「どんなことをしているのですか?」と聞くと、
その女性は、ことこまかに、あれこれと説明してくれた。
で、あるとき、こんな会話をしたのを覚えている。

私がその話に少なからず感動し、「すばらしいことです」と
言ったときのこと。
その女性は、さらにこう言った。
「いえいえ、私なんか、何でもありません。
私の友人のHさんなんかは、独居老人の入浴を手伝っていますよ。
でね、入浴中に、老人が、便をもらすこともあるそうです。
が、Hさんは、そうした便を、手ですくって、外へ捨てていますよ」と。

さらに驚いたことに、話を聞くと、そのHさんというのは、まだ
20代の後半の男性と言った!

私は当時、この話を聞いて、心底、感動し、エッセーも書き残した。

しかし、である。
どうも、この話は、おかしい。
どこか、へん。

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最終更新日  2009年08月25日 07時34分44秒
カテゴリ:心の問題


その人が善行をなすには、その人自身を支える、(周囲文化)というものが必要である。
たとえば自動車産業というものを考えてみよう。
自動車産業が生まれるためには、それを支える周辺の技術、研究、環境が必要である。
人材ももちろん、育成しなければならない。
そういった(周囲)もないまま、自動車産業だけが、忽然(こつぜん)と、
姿を現すということはありえない。

そこで私は、その女性の周辺に興味をもつようになった。
どういう生い立ちで、どういう人生を送ってきたか、などなど。
またその女性を支えている哲学は何か、とも。

しかし、である。
それから5、6年になるが、どこをどうつついても、その(周囲文化)というものが、
浮かび上がってこない。
それなりの基礎があったとか、経験があったとかいうなら、まだ話がわかる。
また会話をしていて、それなりの(深み)を感ずるというのなら、まだ話がわかる。
しかしそういうものが、まったく、ない。
だいたい、本を読んだことさえないという。
音楽も絵画もたしなまない。

そのうち私は、「どうしてそんな女性が、ボランティア活動?」と、疑問に思うように
なった。
が、やがていろいろな情報が入ってくるようになった。

その女性は、ケチの上に、「超」が三つも四つも重なるような女性である。
子どもの教育費すら、惜しんで出さなかったという。
2人の娘がいたが、「大学を出すと、遠くの男と結婚するから」という理由で、
娘たちには、大学へは行かせなかった。
が、世間体だけは人一倍気にしていた。
見栄っぱりで、虚栄心が強かった。
が、決定的だったのは、その女性が、一方でボランティア活動を他人に吹聴しながら、
その前後から始まった実父の介護では、虐待に近いことをしていたということ。

この話を、私はあるケアマネ(ケア・マネージャー)をしている人から聞いた。
そのときには、「ヘエ~、あの女性がですか……」と言ったきり、言葉が詰まってしまった。

つまりその女性は、ボランティア活動を、自分を飾るための道具として利用していただけ。
口もうまい。
言葉も巧み。
それとなく会話の中に、自分の善行を織り交ぜながら、相手を煙に巻く。
結果として、他人に、自分はすばらしい人間と思わせる。

「明日、町内の会合があるそうですが、私は行けません。
主人に代わりに行ってもらいます。
私には、一人、近所で、気になっている老人がいますので、その人を見回って
あげなければなりません。
かわいそうな人でね。
子どもは1人いるのですが、数年に1、2度、やってくるかどうかという人です。
あわれなもんです。
先日も、何かの書類が必要だというので、その老人のために、私は半日かけて
書類を集めてやりました」とか、何とか。

つまり一貫性がない。

そこまで親身になって独居老人の世話をしているというのなら、それなりの一貫性が
なければならない。
その一貫性が、こちら側に伝わってこなければならない。
さらに言えば、そこに至るまでのプロセスに、(自然さ)がなければならない。

たとえば以前、ある大学の教授の家を訪問したときのこと。
たまたまそこに、カンボジアの難民キャンプから帰ってきたばかりという女性がいた。
その女性は、左手を怪(けが)したとかで、まだ大きな包帯を幾重にも巻いていた。
「暴動に巻きこまれて、怪我をしました」「それで休暇をもらって、日本へ帰ってきて
います」ということだった。

そういう女性と話していると、(自然さ)を感ずる。
深い人間愛というか、人間味を感ずる。
哲学や人生観を感ずる。
どこにもスキがない。
私がここでいう(一貫性)というのは、それをいう。

で、私たちの世界では、先に書いたような女性のことを、「愛他的自己愛者」、つまり、
「偽善者」という。
もっとも軽蔑すべき人間ということになる。
なるが、先に書いたケアマネの人は、こう言って教えてくれた。

「そういう女性だとわかっていますが、そういう人でも、何かと助かっています」と。
偽善がときには、真善になるということもあるということか。
私には、とてもマネできないことだが……。


Hiroshi Hayashi++++++++JAN. 09++++++++++++はやし浩司

【末那識(まなしき)】

●偽善

 他人のために、善行をほどこすことは、気持ちがよい。
楽しい。
そう感ずる人は、多い。
俗にいう、「世話好きな人」というのは、そういう人をいう。
しかしそういう人が、本当に他人のことを思いやって、そうしているかと言えば、それは
どうか?

実は、自分のためにしているだけ……というケースも、少なくない。

このタイプの人は、いつも、心のどこかで、たいていは無意識のまま、計算しながら行動
する。
「こうすれば、他人から、いい人に思われるだろう」「こうすれば、他人に感謝されるだろ
う」と。
さらには、「やってあげるのだから、いつか、そのお返しをしてもらえるだろう」と。

心理学の世界でも、こういう心理的動作を、愛他的自己愛という。
自分をよく見せるために、他人を愛しているフリをしてみせることをいう。
しかしフリは、フリ。
中身がない。仏教の世界にも、末那識(まなしき)という言葉がある。
無意識下のエゴイズムをいう。わかりやすく言えば、偽善。

 人間には、表に現われたエゴイズム(自分勝手)と、自分では意識しない、隠されたエ
ゴイズムがある。
表に現れたエゴイズムは、わかりやすい。自分でも、それを意識することができる。

 しかし、この自分では意識しない、隠されたエゴイズムは、そうでない。
その人の心を、裏から操る。
そういう隠されたエゴイズムを、末那識というが、仏教の世界では、この末那識を、強く
戒める。

 で、日本では、「自己愛」というと、どこか「自分を大切にする人」と考えられがちであ
る。しかしそれは誤解。自己愛は、軽蔑すべきものであって、決して、ほめたたえるべき
ものではない。

 わかりやすく言えば、自己中心性が、極端なまでに肥大化した状態を、「自己愛」という。
どこまでも自分勝手でわがまま。
「この世界は、私を中心にして回っている」と錯覚する。「大切なのは、私だけ。あとは、
野となれ、山となれ」と。

 その自己愛が基本にあって、自己愛者は、自分を飾るため、善人ぶることがある。繰り
かえしになるが、それが愛他的自己愛。つまり、偽善。

 こんな例がある。

●恩着せ

 そのときその男性は、24歳。その日の食費にも、ことかくような貧しい生活をしてい
た。

 その男性から、相談を受けたXさん(女性、40歳くらい)がいた。その男性と、たま
たま知りあいだった、そこでXさんは、その男性を、ある陶芸家に紹介した。
町の中で、クラブ制の窯(かま)をもっていた。
教室を開いていた。その男性は、その陶芸家の助手として働くようになった。

 が、それがその男性の登竜門になった。その男性は、思わぬ才能を発揮して、あれよ、
あれよと思う間に、賞という賞を総なめにするようになった。20年後には、陶芸家とし
て、全国に、名を知られるようになった。

 その男性について、Xさんは、会う人ごとに、こう言っている。

 「あの陶芸家は、私が育ててやった」「私が口をきいてやっていなければ、今でも、貧乏
なままのはず」「私が才能をみつけてやった」と。
そして私にも、こう言った。

 「恩知らずとは、ああいう人のことを言うのね。あれだけの金持ちになっても、私には
1円もくれない。あいさつにもこない。盆暮れのつけ届けさえくれない」と。

 わかるだろうか?

 このXさんは、親切な人だった。そこでその男性を、知りあいの陶芸家に紹介した。
が、その親切は、ある意味で、計算されたものだった。
本当に親切であったから、Xさんは、その男性を、陶芸家に紹介したわけではなかった。
それに一言、つけ加えるなら、その男性が、著名な陶芸家になったのは、あくまでもその
男性自身の才能と努力によるもの。

 ここに末那識(まなしき)がある。

●愛他的自己愛

 この末那識は、ちょっとしたことで、嫉妬、ねたみ、ひがみに変化しやすい。
Xさんが、「恩知らず」とその男性を、非難する背景には、それがある。そこで仏教の世界
では、末那識つまり、自分の心の奥底に潜んで、人間を裏から操(あやつ)るエゴイズム
を、問題にする。

 心理学の世界では、愛他的自己愛というが、いろいろな特徴がある。ここに書いたのは、
偽善者の特徴と言いかえてもよい。

(1)行動がどこか不自然で、ぎこちない。
(2)行動がおおげさで、演技ぽい。
(3)行動が、全体に、恩着せがましい。
(4)自分をよく見せようと、ことさら強調する。
(5)他人の目を、強く意識し、世間体を気にする。
(6)行動が、計算づく。損得計算をいつもしている。
(7)裏切られるとわかると(?)、逆襲しやすい。
(8)他人をねたみやすく、嫉妬しやすい。
(9)他人の不幸をことさら笑い、話の種にする。

 こんな例もある。同じ介護指導員をしている、私の姉から聞いた話である。






最終更新日  2009年08月25日 07時34分08秒
カテゴリ:心の問題


●Yさんの仮面

 Yさん(60歳、女性)は、老人介護の指導員として、近所の老人家庭を回っていた。
介護士の資格はもっていなかったから、そのため、無料のボランティア活動である。

 とくにひとり住まいの老人の家庭は、数日ごとに、見舞って、あれこれ世話を焼いてい
た。
もともと世話好きな人ということもあった。

 やがてYさんは、町役場の担当の職員とも対等に話ができるほどまでの立場を、自分の
ものにした。
そして市から、介護指導員として、表彰状を受けるまでになった。

 だからといって、Yさんが、偽善者というわけではない。
またYさんを、非難しているわけでもない。仮に偽善者であっても、そのYさんに助けら
れ、励まされた人は、多い。
またYさんのような親切は、心のかわいたこの社会では、一輪の花のように、美しく見え
る。

 が、Yさんは、実は、そうした老人のために、指導員をしているのではなかった。
またそれを生きがいにしていたわけでもない。
Yさんは、「自分が、いい人間に思われることだけ」を考えながら、介護の指導員として活
動していた。

 みなから、「Yさんは、いい人だ」と言われるために、だ。Yさんにしてみれば、それほ
ど、心地よい世界は、なかった。

 しかしやがて、そのYさんの仮面が、はがれる日がやってきた。

 Yさんが、実父の介護をするようになったのである。

実父は、元気な人だったが、脳梗塞(こうそく)を起こしてしまった。
トイレや風呂くらいは、何とか自分で行けたが、それ以外は、寝たきりに近い状態になっ
てしまった。
年齢は、73歳(当時)。

 最初は、Yさんは、このときとばかり、介護を始めたが、それが1か月もたたないうち
に、今度は、実父を虐待するようになった。
風呂の中で、実父が、大便をもらしたのがきっかけだった。

 Yさんは、激怒して、実父に、バスタブを自分で洗わせた。
実父に対する、執拗な虐待が始まったのは、それからのことだった。

 食事を与えない。与えても、少量にする。
同じものしか与えない。初夏の汗ばむような日になりかけていたが、窓を、開けさせない。
風呂に入らせない。
実父が腹痛や、頭痛を訴えても、病院へ連れていかない、など。

 こうした事実から、介護指導員として活動していたときの、Yさんは、いわば仮面をか
ぶっていたことがわかったという。
ケアマネの人は、こう言った。

 「他人の世話をするのは、遊びでもできるけど、身内の世話となるいと、そうはいかな
いからね」と。

●子育ての世界でも

 親子の間でも、偽善がはびこることがある。無条件の愛とか、無償の愛とかはいうが、
しかしそこに打算が入ることは、少なくない。

 よい例が、「産んでやった」「育ててやった」「言葉を教えてやった」という、あの言葉で
ある。
昔風の、親意識の強い人ほど、この言葉をよく使う。

 中には、子どもに、そのつど、恩を着せながら、その返礼を求めていく親がいる。
子どもを1人の人間としてみるのではなく、「モノ」あるいは、「財産」、さらには、「ペッ
ト」としてみる。
またさらには、「奴隷」のように考えている親さえいる。

 息子(当時29歳)が、新築の家を購入したとき、その息子に向って、「親よりいい生活
をするのは、許せない」「親の家を、建てなおすのが先だろ」と、怒った母親さえいた。

 あるいは結婚して家を離れた娘(27歳)に、こう言った母親もいた。

 「親を捨てて、好きな男と結婚して、それでもお前は幸せになれると思うのか」「死んで
も墓の中から、お前を、のろい殺してやる」と。

 そうでない親には、信じがたい話かもしれないが、事実である。
私たちは、ともすれば、「親だから、まさかそこまではしないだろう」という幻想をもちや
すい。
しかしこうした(ダカラ論)ほど、あてにならないものはない。

 親にもいろいろある。

 もっとも、こうしたケースは、稀(まれ)。
しかしそれに近い、代償的過保護となると、「あの人も……」「この人も……」というほど、
多い。

●代償的過保護

 代償的過保護……。ふつう「過保護」というときは、その奥に、親の深い愛情がある。
愛情が基盤にあって、親は、子どもを過保護にする。

しかし代償的過保護というときは、その愛情が希薄。あるいはそれがない。「子どもを自分
の支配下において、自分の思いどおりにしたい」という過保護を、代償的過保護という。

 見た目には、過保護も、代償的過保護も、よく似ている。
しかし大きくちがう点は、代償的過保護では、親が子どもを、自分の不安や心配を解消す
る道具として、利用すること。
子どもが、自分の支配圏の外に出るのを、許さない。よくある例は、子どもの受験勉強に
狂奔する母親たちである。

 「子どものため」を口にしながら、その実、子どものことなど、ほとんど考えていない。
人格さえ認めていないことが多い。
自分の果たせなかった夢や希望を、子どもに強要することもある。
世間的な見得、メンツにこだわることもある。

 代償的過保護では、親が子どもの前に立つことはあっても、そのうしろにいるはずの、
子どもの姿が見えてこない。

 つまりこれも、広い意味での、末那識(まなしき)ということになる。
子どもに対する偽善といってもよい。
勉強をいやがる息子に、こう言った母親がいた。

 「今は、わからないかもしれないけど、いつか、あなたは私に感謝する日がやってくる
わよ。SS中学に合格すれば、いいのよ。お母さんは、あなたのために、勉強を強いてい
るのよ。わかっているの?」と。

●教育の世界でも

 教育の世界には、偽善が多い。
偽善だらけといってもよい。
教育システムそのものが、そうなっている。

 その元凶は「受験競争」ということになるが、それはさておき、子どもの教育を、教育
という原点から考えている親は、いったい、何%いるだろうか。
教師は、いったい、何%いるだろうか。

 教育そのものが、受験によって得る欲得の、その追求の場になっている。
教育イコール、進学。
進学イコール、教育というわけである。

さらに私立中学や高校などにいたっては、「進学率」こそが、その学校の実績となっている。
今でも夏目漱石の「坊ちゃん」の世界が、そのまま生きている。
数年前も、関東地方を中心にした、私立中高校の入学案内書を見たが、どれも例外なく、
その進学率を誇っていた。

 SS大学……5人
 SA大学……12人
 AA大学……24人、と。

 中には、付録として、どこか遠慮がちに別紙に刷りこんでいる案内書もあったが、良心
的であるから、そうしているのではない。
毎年、その別紙だけは、案内書とは分けて印刷しているために、そうなっている。

 この傾向は、私が住む、地方都市のH市でも、同じ。
どの私立中高校も、進学のための特別クラスを編成して、親のニーズに答えようとしてい
る。

 で、さらにその元凶はいえば、日本にはびこる、職業による身分差別意識と、それに不
公平感である。
それらについては、すでにたびたび書いてきたのでここでは省略するが、ともかくも、偽
善だらけ。

 つまりこうした教育のあり方も、仏教でいう、末那識(まなしき)のなせるわざと考え
てよい。

●結論

 私たちには、たしかに表の顔と、裏の顔がある。
文明という、つまりそれまでの人間が経験しなかった、社会的変化が、人間をして、そう
させたとも考えられる。

 このことは、庭で遊ぶスズメたちを見ていると、わかる。
スズメたちの世界は、実に単純、わかりやすい。礼節も文化もない。
スズメたちは、「生命」まるだしの世界で、生きている。

 それがよいとか、はたまた、私たちが営む文明生活が悪いとか、そういうことを言って
いるのではない。

 私たち人間は、いつしか、自分の心の奥底に潜む本性を覆(おお)い隠しながら、他方
で、(人間らしさ)を追求してきた。
偽善にせよ、愛他的自己愛にせよ、そして末那識にせよ、人間がそれをもつようになった
のは、その結果とも言える。

 そこで大切なことは、まず、そういう私たち人間に、気づくこと。
「私は私であるか」と問うてみるのもよい。
「私は本当に善人であるか」と問うてみるのもよい。あなたという親について言うなら、「本
当に、子どものことを考え、子どものために教育を考えているか」と問うてみるのもよ
い。

 こうした作業は、結局は、あなた自身のためでもある。あなたが、本当のあなたを知り、
ついで、あなたが「私」を取りもどすためでもある。

 さらにつけたせば、文明は、いつも善ばかりとはかぎらない。
悪もある。その悪が、ゴミのように、文明にまとわりついている。それを払いのけて生き
るのも、文明人の心構えの一つということになる。
(はやし浩司 末那識 自己愛 偽善 愛他的自己愛 愛他的自己像 私論)
(050304)






最終更新日  2009年08月25日 07時33分38秒
カテゴリ:心の問題


【補記】

●みんなで偽善者を排斥しよう。偽善者は、そこらの犯罪者やペテン師より、さらに始末
が悪い

++++++++++++++++++

もう1作、見つかったので、
そのまま紹介します。

++++++++++++++++++

●仏教聖典
(Buddah’s Teaching)

仏教伝道協会発行の「仏教聖典」を座右の書とするようになって、そろそろ1年になる。
この本は、どこの旅館やホテルにも置いてある。そこでこの本のことを知った。
一度、あるホテルのマネージャーに売ってくれないかと頼んだことがあるが、断られた。
そこで協会のほうへ直接注文して、取り寄せた。料金は後払いでよいということだった。

内容については、私のBLOGやマガジンのほうでも、たびたび、
引用させてもらっている。

まず「因縁(いんねん)」について……。

因と縁のことを、「因縁」という。
因とは、結果を生じさせる直接的原因。縁とは、それを助ける外的条件である。
あらゆるものは、因縁によって生滅するので、このことを「因縁所生」などという。
この道理をすなおに受け入れることが、仏教に入る大切な条件とされる。
世間では転用して、悪い意味に用いられることもあるが、本来の意味を逸脱したもので
あるから、注意を要する。
なお縁起というばあいも、同様である。(同書、P318)

+++++++++++++++++

仏教聖典、いわく、

『この人間世界は苦しみに満ちている。
生も苦しみであり、老いも、病も、死も、みな苦しみである。
怨みのあるものと会わなければならないことも、
愛するものと別れなければならないことも、
また求めて得られないことも苦しみである。
まことに執着(しゅうじゃく)を離れない人生は、すべて苦しみである。
これを苦しみの真理、「苦諦(くたい)」という』(P42)

こうした苦しみが起こる原因として、仏教は、「集諦(じったい)」をあげる。
つまりは、人間の欲望のこと。この欲望が、さまざまに姿を変えて、苦しみの原因となる。

では、どうするか。

この苦しみを滅ぼすために、仏教では、8つの正しい道を教える。
いわゆる「八正道」をいう。

正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

(1) 正見 ……正しい見解
(2) 正思惟……正しい思い
(3) 正語 ……正しい言葉
(4) 正業 ……正しい行い
(5) 正命 ……正しい生活
(6) 正精進……正しい努力
(7) 正念 ……正しい記憶
(8) 正定 ……正しい心の統一(同書)をいう。

仏教聖典には、こうある。

『これらの真理を人はしっかりと身につけなければならない。
というのは、この世は苦しみに満ちていて、この苦しみから逃れようとするものは、
だれでも煩悩を断ち切らなければならないからである。
煩悩と苦しみのなくなった境地は、さとりによってのみ、到達し得る。
さとりはこの8つの正しい道によってのみ、達し得られる(同書、P43)。

以前、「空」について書いたことがある。

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●すべて「空」

 大乗仏教といえば、「空(くう)」。この空の思想が、大乗仏教の根幹をなしているといっても過言ではない。つまり、この世のすべてのものは、幻想にすぎなく、実体のあるものは、何もない、と。

 この話は、どこか、映画、『マトリックス』の世界と似ている。あるいは、コンピュータの中の世界かもしれない。

 たとえば今、目の前に、コンピュータの画面がある。しかしそれを見ているのは、私の目。そのキーボードに触れているのは、私の手の指、ということになる。そしてその画面には、ただの光の信号が集合されているだけ。

 私たちはそれを見て、感動し、ときに怒りを覚えたりする。

 しかし目から入ってくる視覚的刺激も、指で触れる触覚的刺激も、すべて神経を介在して、脳に伝えられた信号にすぎない。「ある」と思うから、そこにあるだけ(?)。

 こうした「空」の思想を完成したのは、実は、釈迦ではない。釈迦滅後、数百年後を経て、紀元後200年ごろ、竜樹(りゅうじゅ)という人によって、完成されたと言われている。釈迦の生誕年については、諸説があるが、日本では、紀元前463年ごろとされている。

 ということは、私たちが現在、「大乗仏教」と呼んでいるところのものは、釈迦滅後、600年以上もたってから、その形ができたということになる。そのころ、般若経や法華経などの、大乗経典も、できあがっている。

 しかし竜樹の知恵を借りるまでもなく、私もこのところ、すべてのものは、空ではないかと思い始めている。私という存在にしても、実体があると思っているだけで、実は、ひょっとしたら、何もないのではないか、と。

 たとえば、ゆっくりと呼吸に合わせて上下するこの体にしても、ときどき、どうしてこれが私なのかと思ってしまう。

 同じように、意識にしても、いつも、私というより、私でないものによって、動かされている。仏教でも、そういった意識を、末那識(まなしき)、さらにその奥深くにあるものを、阿頼那識(あらやしき)と呼んでいる。心理学でいう、無意識、もしくは深層心理と、同じに考えてよいのでは(?)。

 こう考えていくと、肉体にせよ、精神にせよ、「私」である部分というのは、ほんの限られた部分でしかないことがわかる。いくら「私は私だ」と声高に叫んでみても、だれかに、「本当にそうか?」と聞かれたら、「私」そのものが、しぼんでしまう。

 さらに、生前の自分、死後の自分を思いやるとよい。生前の自分は、どこにいたのか。億年の億倍の過去の間、私は、どこにいたのか。そしてもし私が死ねば、私は灰となって、この大地に消える。と、同時に、この宇宙もろとも、すべてのものが、私とともに消える。

 そんなわけで、「すべてが空」と言われても、今の私は、すなおに、「そうだろうな」と思ってしまう。ただ、誤解しないでほしいのは、だからといって、すべてのものが無意味であるとか、虚(むな)しいとか言っているのではない。私が言いたいのは、その逆。

 私たちの(命)は、あまりにも、無意味で、虚しいものに毒されているのではないかということ。私であって、私でないものに、振りまわされているのではないかということ。そういうものに振りまわされれば振りまわされるほど、私たちは、自分の時間を、無駄にすることになる。

●自分をみがく

 そこで仏教では、修行を重んじる。その方法として、たとえば、八正道(はっしょうどう)がある。これについては、すでに何度も書いてきたので、ここでは省略する。正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道という。

 が、それでは足りないとして生まれたのが、六波羅密ということになる。六波羅密では、布施、持戒、忍辱、精進、善定、知恵を、6つの徳目と位置づける。

 八正道が、どちらかというと、自己鍛錬のための修行法であるのに対して、六波羅密は、「布施」という項目があることからもわかるように、より利他的である。

 しかし私は、こうしてものごとを、教条的に分類して考えるのは、あまり好きではない。こうした教条で、すべてが語りつくされるとは思わないし、逆に、それ以外の、ものの考え方が否定されてしまうという危険性もある。「まあ、そういう考え方もあるのだな」という程度で、よいのではないか。

 で、仏教では、「修行」という言葉をよく使う。で、その修行には、いろいろあるらしい。中には、わざと体や心を痛めつけてするものもあるという。怠(なま)けた体には、そういう修行も必要かもしれない。しかし、私は、ごめん。

 大切なことは、ごくふつうの人間として、ごくふつうの生活をし、その生活を通して、その中で、自分をみがいていくことではないか。悩んだり、苦しんだりしながらして、自分をみがいていくことではないか。奇をてらった修行をしたからといって、その人の人格が高邁(こうまい)になるとか、そういうことはありえない。

 その一例というわけでもないが、よい例が、カルト教団の信者たちである。信者になったとたん、どこか世離れしたような笑みを浮かべて、さも自分は、すぐれた人物ですというような雰囲気を漂わせる。「お前たち、凡人とは、ちがうのだ」と。

 だから私たちは、もっと自由に考えればよい。八正道や、六波羅密も参考にしながら、私たちは、私たちで、それ以上のものを、考えればよい。こうした言葉の遊び(失礼!)に、こだわる必要はない。少なくとも、今は、そういう時代ではない。

 私たちは、懸命に考えながら生きる。それが正しいとか、まちがっているとか、そんなことを考える必要はない。その結果として、失敗もするだろう。ヘマもするだろう。まちがったこともするかもしれない。

 しかしそれが人間ではないか。不完全で未熟かもしれないが、自分の足で立つところに、「私」がいる。無数のドラマもそこから生まれるし、そのドラマにこそ、人間が人間として、生きる意味がある。

 今は、この程度のことしかわからない。このつづきは、もう少し頭を冷やしてから、考えてみたい。
(050925記)
(はやし浩司 八正道 六波羅密 竜樹 大乗仏教 末那識 阿頼那識)

++++++++++++++++

八正道の中でも、私は、正精進こそが、
もっとも重要だと思う。

とくに、今の私のように、健康で、何一つ
不自由のない生活をしているものにとっては、
そうである。

けっして今の状況を、怠惰に過ごしてはいけない。
時間にはかぎりがあり、人生にも、それゆえに
限界がある。

それこそ死を宣告されてから、悟りを求めても、
遅いということ。

たとえば肺ガンを宣告されてから、タバコをやめたり、
胃ガンを宣告されてから、飲酒をやめても、遅い。

健康であるなら、さらに今の生活が満ち足りたものであるなら、
なおさら、私たちは、精進に精進を重ねる。

一瞬、一秒たりとも、無駄にできる時間はない。
また無駄にしてはいけない。

正精進について書いた原稿がある。
一部内容がダブるが、許してほしい。

++++++++++++++++++++






最終更新日  2009年08月25日 07時32分48秒
カテゴリ:心の問題


●正精進

 釈迦の教えを、もっともわかりやすくまとめたのが、「八正道(はっしょうどう)」ということになる。仏の道に至る、修行の基本と考えると、わかりやすい。

 が、ここでいう「正」は、「正しい」という意味ではない。釈迦が説いた「正」は、「中正」の「正」である。つまり八正道というのは、「八つの中正なる修行の道」という意味である。

 怠惰な修行もいけないが、さりとて、メチャメチャにきびしい修行も、いけない。「ほどほど」が、何ごとにおいても、好ましいということになる。が、しかし、いいかげんという意味でもない。

 で、その八正道とは、(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正念、(7)正精進(8)正定、をいう。広辞苑には、「すなわち、正しい見解、決意、言葉、行為、生活、努力、思念、瞑想」とある。

 このうち、私は、とくに(8)の正精進を、第一に考える。釈迦が説いた精進というのは、日々の絶えまない努力と、真理への探究心をいう。そこには、いつも、追いつめられたような緊迫感がともなう。その緊迫感を大切にする。

 ゴールは、ない。死ぬまで、努力に努力を重ねる。それが精進である。で、その精進についても、やはり、「ほどほどの精進」が、好ましいということになる。少なくとも、釈迦は、そう説いている。

 方法としては、いつも新しいことに興味をもち、探究心を忘れない。努力する。がんばる。が、そのつど、音楽を聞いたり、絵画を見たり、本を読んだりする。が、何よりも重要なのは、自分の頭で、自分で考えること。「考える」という行為をしないと、せっかく得た情報も、穴のあいたバケツから水がこぼれるように、どこかへこぼれてしまう。

 しかし何度も書いてきたが、考えるという行為には、ある種の苦痛がともなう。寒い朝に、ジョギングに行く前に感ずるような苦痛である。だからたいていの人は、無意識のうちにも、考えるという行為を避けようとする。

 このことは、子どもたちを見るとわかる。何かの数学パズルを出してやったとき、「やる!」「やりたい!」と食いついてくる子どももいれば、逃げ腰になる子どももいる。中には、となりの子どもの答をこっそりと、盗み見する子どももいる。

 子どもだから、考えるのが好きと決めてかかるのは、誤解である。そしてやがて、その考えるという行為は、その人の習慣となって、定着する。

 考えることが好きな人は、それだけで、それを意識しなくても、釈迦が説く精進を、生活の中でしていることになる。そうでない人は、そうでない。そしてそういう習慣のちがいが、10年、20年、さらには30年と、積もりに積もって、大きな差となって現れる。

 ただ、ここで大きな問題にぶつかる。利口な人からは、バカな人がわかる。賢い人からは、愚かな人がわかる。考える人からは、考えない人がわかる。しかしバカな人からは、利口な人がわからない。愚かな人からは、賢い人がわからない。考えない人からは、考える人がわからない。

 日光に住む野猿にしても、野猿たちは、自分たちは、人間より、劣っているとは思っていないだろう。ひょっとしたら、人間のほうを、バカだと思っているかもしれない。エサをよこせと、キーキーと人間を威嚇している姿を見ると、そう感ずる。

 つまりここでいう「差」というのは、あくまでも、利口な人、賢い人、考える人が、心の中で感ずる差のことをいう。

 さて、そこで釈迦は、「中正」という言葉を使った。何はともあれ、私は、この言葉を、カルト教団で、信者の獲得に狂奔している信者の方に、わかってもらいたい。彼らは、「自分たちは絶対正しい」という信念のもと、その返す刀で、「あなたはまちがっている」と、相手を切って捨てる。

 こうした急進性、ごう慢性、狂信性は、そもそも釈迦が説く「中正」とは、異質のものである。とくに原理主義にこだわり、コチコチの頭になっている人ほど、注意したらよい。
(はやし浩司 八正道 精進 正精進)

【補足】

 子どもの教育について言えば、いかにすれば、考えることが好きな子どもにするか。それが、一つの重要なポイントということになる。要するに「考えることを楽しむ子ども」にすればよい。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て はやし浩司 Hiroshi Hayashi education essayist writer Japanese essayist 正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の8つをもって、八正道 仏教聖典 はやし浩司)


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●自分の中のバカとの戦い

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長野県に住む大学の同窓生と、しばらく電話で話す。
その同窓生が、こんな話をしてくれた。

その同窓生は、2年前、父親を亡くした。
で、昨年、一周忌の法要をした。
その法要でのこと。

同窓生は、法要を簡単にすますつもりでいた。
が、当日、親戚同士が連絡を取り合い、なんと25人前後の
人たちが集まってしまったという。

同窓生の姉に、1人、節介好きの人がいて、その女性が
みなに連絡したという。
同窓生は、かなり怒っていた。

++++++++++++++++++++

●儀式論

 愛知県や岐阜県では、冠婚葬祭を派手にする。
が、「長野県もそうだ」と。
一方、この静岡県(西部)では、全体的に質素。

 それについて、長野県に住む同窓生は、冒頭に書いたようなことを話してくれた。
で、私が、「どういうやり方をすれば、みんなが満足するのか」と聞くと、
こう言った。

「ああいう連中は、どんなやり方をしても、満足しねえだろうね」と。

 そこでしばらく、たがいに儀式論について、話し合った。

 儀式は生活につきもの。
その儀式には、たいてい「形」がある。
形を決めておけば、あとが、楽。
何も考えず、過去を踏襲すればよい。

 で、「ふつうはどんなやり方をするのか?」と聞くと、こう教えてくれた。
「このあたりでは、仏壇の前で僧侶による読経法要が済むと、みなで墓参りを
する。そのあと、どこかの料亭を借りて、飲み食いをする」と。

●変わる時代

私「しかしそれぞれの家庭には、それぞれの事情というものがあるだろ?」
友「あっても、関係ねえな」
私「関係ないって?」
友「形が決まっているからな」
私「それで君は、どうした?」
友「あんなくだらねえこと、やらなかったよ」と。

 時代はたしかに変わりつつある。
が、それよりも問題なのは、同窓生の親類の1人が、こう言ったということ。

「あいつ(=同窓生のこと)は、大学で法学まで学んだのに、常識が備わっていない。
いくら偉そうなことを言っても、そんな常識も知らねえのは、人間のクズ」と。

 その話を、同窓生の姉が、同窓生に伝えたという。
同窓生が、姉を非難したときのことだった。
「私はいいけど、みんなが陰でなんて言っているか、あなたは知っているの!」と。

●アラ探し

 私ももうすぐ、母と兄の一周忌の法要をする。
連絡したのは、実姉のみ。
たぶん姉のことだから、喪主の私をさておいて、同じようにあちこちに連絡するだろう。
姉は、姉の常識(?)に従って行動する。

 同窓生の姉も、そして私の姉も、(伝統)という(鎧(よろい))を身につけているから、
強い。
その伝統を破るのは、簡単なことではない。
よい例が、地域の(祭り)。
祭りというのは、作るのは簡単。
しかし一度、できあがってしまうと、今度は、変えるのはむずかしい。
(形)の上に、また別の(形)ができてしまう。

 そういう(形)に抵抗を示すと、それだけで(変わり者)というレッテルを張られて
しまう。
先の同窓生も、そう見られているという。

私「大学で教育を受けたというと、そういうのが教育と、みな、思うからね」
友「学歴コンプレックスの裏返しではないかなあ・・・」
私「そういう面もあるよな」
友「あいつら、何かにつけて、オレのアラ探しをするからな」
私「そうそう、ぼくもそうだ。先日も、ぼくに向かって、『偉そうなこと言うな』と
言った人もいたぞ」
友「そりゃあ、ちょっと、ひでえな~」と。

●同じ長野県でも・・・

 もう一人、長野県には同窓生がいる。
彼は長野市から、車で1時間ほどの町に住んでいる。
その町では、「質素運動」というのが、10年以上も前から進められているという。
香典の額にしても、1世帯当たり、一律に1000円と決められているという。
香典袋にしても、市役所のほうで、販売しているという。

 また寺が出す戒名にしても、一律、同名、同額に決められているという。

 同じ長野県でも、地域によって、みな、それぞれとのこと。
私が「長野市のA君の話とは、だいぶちがうな?」と言うと、その同窓生は、
「ああ、あそこは派手だからな。ここは貧乏村なんだよな」と。

 これはあくまでも補足。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW 法事 儀式 一周忌の法要)


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最終更新日  2009年08月25日 07時32分09秒
2009年08月14日
カテゴリ:心の問題
●トラウマ(心的外傷)

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覚えているというような、生やさしいものではない。
脳の一部に、(焼きついている)といった感じ。
それがいつまでも、心の中に残り、その人を苦しめる。
それがトラウマ、つまり「心的外傷」ということになる。

人は、何か強烈な体験をすると、それを抑圧という形で、
心の別室に押し込む。
押し込んで、それ以外の脳がダメージを受けるのを守ろうとする。
それを「防衛」という言葉を使って、心理学の世界では説明する。

強烈な印象といっても、慢性的にダラダラとつづくものであることもある。
これを「蓄積的外傷」という。
必ずしも瞬間的なものとはかぎらない。

育児拒否や親の冷淡、無視など。
家庭内騒動、夫婦喧嘩、離婚騒動など。
断片的な記憶が積み重なって、それがトラウマになることもある。
もちろん瞬間的な強烈な印象が、そのままトラウマになることもあるが・・・。
(ふつう「トラウマ」というと、そういうケースによるものいう。)

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●トラウマ、マイ・ケース

 だれにでも、ひとつやふたつトラウマはある。
・・・という前提で、話をしたい。
「私だけが特殊な経験をした」と考えるのは、それだけでも荷が重い。
またもしそうであるなら、普遍性に欠けるという点で、こうして文章にしても意味がない。

 私のばあい、トラウマの原因となったのは、主に2つある。

(1) 父の酒乱
(2) 商売の行き詰まり

 さきに父を擁護しておく。
父とて、あの戦争の犠牲者にすぎなかったということ。
戦地の台湾で、アメリカ軍と接近戦を経験している。
貫通銃創といって、1~2発、銃弾が腹を通り抜けている。
それがどういう経験なのかは、現在のベトナムやイラクへ派遣された、アメリカ軍兵士の
それを知ればわかる。
だから父は酒に溺れるようになった・・・というように、短絡的に結びつけることは
できない。
が、戦争は関係ないとは、さらに言えない。

 心というのは、もう少し複雑な手順を経て、それをトラウマと化す。

●稼業の衰退

 私が中学生になるころから、稼業は衰退の一途をたどった。
近くに大型スーパーができ、そこで自転車を安く売るようになったこともある。
私には、苦しくて、つらい毎日だった。

 基本的には、私は慢性的な不安神経症をかかえていた。
最近では、それを「パニック障害」と呼ぶ。
病名がなんであるにせよ、さらにその原因がなんであるにせよ、私は不安だった。

 父と母が、それなりに和合していれば、まだよかったのかもしれない。
家庭が「家庭」としての機能を果たしていれば、まだ救われたかもしれない。
が、事実は、そうでなかった。
そこへ商売不振が重なった。
私が感じていた不安は、父や母が感じていた不安と言ってもよい。
私は知らず知らずのうちに、それを受け継いでいた。

●伝染する心

 心というのは、伝染する。
ためしにこんなことを調べてみるとよい。

 あなたの親類、あるいは近所の人たちには、いろいろな人がいる。
それらの人のうち、あなたとあなたの母親が、共通してよく知っている人の名前を
書き出してみる。
たとえば・・・

愛子さん(  )
石尾くん(  )
宇佐さん(  )
江藤くん(  )
緒方さん(  )・・・、と。

それらの人を、つぎのように評価して、( )の中に書き込んでみる。
(あなたが子どものころ、どう思っていたかを思い出しながら、評価する。)

たいへん好意的に思っている人・・・(◎)
好意的に思っている人    ・・・(○)
なんでもない人       ・・・(-)
不愉快に思っている人    ・・・(x)
たいへんいやば人      ・・・(xx)と。

 そしてあなたの結果を伏せたまま、同じテストをあなたの母親にしてもらう。
このテストを通してあなたは、あなたの心が、実は母親によって作られている
ことを知るだろう。

●フラッシュ・バック

 私にも、子どものころ、好きな人や、嫌いな人がいた。
しかしそれはずっとあとになってわかったことだが、それはそっくりそのまま母の
心だと知った。

 「心の伝染」というのは、それをいう。

話はそれたが、私は子どもながらに、稼業の衰退を、父や母と同じように、肌で
強く感じていた。
「私が感じていた」というよりは、「そういう心になっていた」ということになる。
だから社会へ出てからも、私は貧乏というのが、なによりも怖かった。
たとえばこんなことがあった。

 コンビニで弁当を買おうとしたときのこと。
ポケットの中を見ると、わずか、数百円しかなかった。
気づかなかった。
で、私はその数百円で買える弁当をさがした。
が、適当なのがなかった。
とたん、言いようのない不安感に襲われた。
鼓動が激しくなり、体が固まっていくのを感じた。

 私が感じたのは、軽いフラッシュ・バックということになる。
過去の、抑圧されたいやな体験が、心の別室から顔を出し、それが私を裏から操った?

●こだわり

 そんなわけで、私は(お金)について、強いこだわりをもっている。
たとえば借金にしても、返済を1週間以上、延ばしたことはない。
どんな借金でも、即日、もしくは数日以内に返済するようにしている。

 もちろんお金を借りたことは、ただの一度もない。
(一度だけ、幼稚園の先生に、電話料として10円借りたことがある。
私にとっては、それが生涯でただ一度の、借金ということになる。)

 だから今でも、(失業)することについて、強い恐怖感を覚える。
失業というより、収入として入ってくる(お金の流れ)が、止まることが怖い。

 私がここでいう(こだわり)というのは、それをいう。
だから以前から、私をよく知る人は、みな、こう言う。
「浩司は、お金の話ばかりする」と。

 しかし誤解しないでほしい。
私がケチで、守銭奴というのではない。
また金儲けばかりしているというのでもない。
そういう私だから、相手に対しても、同じように期待してしまう。
相手が、私に払うべきお金を、予定をすぎても払わなかったりすると、強い苛立ち感を
覚える。

●症状

 こうしてそれぞれの人の中に、なんらかのトラウマが作られていく。
もちろん強烈な印象が、そのままトラウマになることはある。
先にも書いたように、私は父の酒乱に苦しんだ。
その中でも、(あの夜)のことは忘れない。
私はそのとき、6歳だったと思う。
その夜、いつもになく父は酒を飲み、暴れに暴れた。

 私と姉は、物干し台の陰に隠れて、「怖いよ、怖いよ」と言って、抱き合って泣いた。

 そのこともあって、私は、今でもときどきフラッシュ・バックに襲われる。
ただ症状といっても、それを並べて書くというのは、むずかしい。
症状の出方そのものが、トラウマと直接、結びつかない。
いろいろ、ある。

(1) 今でも、ひとりで寝るのが苦手。(・・・できない。)
(2) ワイフに冷たくされると、「離婚」というレベルまで突っ走ってしまう。
(3) ヒャッとした恐怖感を覚えると、車(バスやタクシー)から降りてしまう。
(4) 他人を信じなく、嫉妬深い、など。

 一般的には、睡眠障害や驚愕反応、神経の異常な高ぶりや、感覚の鈍磨などの
症状を示すといわれている(「心理学用語辞典」)。
もちろんうつ病を引き起こすことも多い。

 私のばあいは、抑圧が転じて、二重人格性をもつようになってしまった。
ただ救われるのは、どちらが主人格であるか、自分ではっきりとわかっていること。
副人格になる時間が短く、そのときでも主人格のほうが、副人格をコントロール
していること。
他人に対しては、副人格がめったに出てこないこと、など。
正確には、「解離性同一障害」というべきか。

 こうした制約、壁がなくなってしまったら、私はほんとうに人格障害者ということに
なってしまう。

●では、どうするか?

 私がもっているようなトラウマをもっている人は、多い。
恵まれた環境で生まれ育った人のほうが、少ない。
それぞれの人は、それぞれ、何らかの(こだわり)をもって生きている。
こだわりのない人はいない。

 心理学の世界では、そうした(こだわり)を「固着」という言葉で説明する。
(ただしこだわりイコール、固着ではないので、注意!)

 その(こだわり)の中から、コンプレックスが生まれる。
(「コンプレックス」についても、「劣等感」と考えている人は多い。
しかしコンプレックスイコール、劣等感ではないので、注意!
「コンプレックス」というのは、複雑な心的反応を総称する。)

 で、そこで重要なことは、(1)まず、自分を知るということ。
たいていの人は、「私は私のことをいちばん、よく知っている」と思い込んでいる。
しかし実際には、なにも知らない。
・・・と断言してよいほど、知らない。
「知っている」と思い込んでいるだけ。

 こうした(心の問題)は、それが(ある)ということよりも、それに気付かないまま、
それに振り回されることが、問題。
それによって、いつも同じ失敗を繰り返す。

 親子喧嘩にせよ、夫婦喧嘩にせよ、友人、知人とのトラブルなど、形を問わない。
そういったものが、繰り返し起こるようなら、その向こうにあるものをさぐる。
薬などで治すという方法もないわけではないが、こうした(心の問題)は、
できるだけ人との接触の中で、解決していくのがよい。
グループディスカッションに出たり、カウンセリングを受けるなど。
(ついでに私の原稿を読むのも、よい!)

 自分に気がつけば、あるいは「私」がわかれば、あとは時間が解決
してくれる。
「時間が解決する」というのは、「それだけ時間がかかる」ということ。
5年や10年は、かかる。

 ただし一言。
トラウマというのは、一度心に刻み込まれると、一生消えることはない。
それはちょうど顔についた、切り傷のようなもの。
あとは、その「傷」と、じょうずにつきあっていく。
私のばあいも、そのつど、「ああ、これは本当の私ではないぞ」とか、「今の
私はおかしいぞ」と判断しながら、つきあっている。
そういう姿勢も大切である。

(はやし浩司 家庭教育 育児 育児評論 教育評論 幼児教育 子育て Hiroshi Hayashi 林浩司 BW トラウマ 心的外傷 はやし浩司 心の傷 パニック障害 不安神経症 はやし浩司 心的外傷後ストレス症候群 解離性同一障害 PTSD)


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