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楽天・日記 by はやし浩司

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2008年09月14日
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カテゴリ:●宗教
●和式仏教の終焉(2)

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日本の仏教は、何からなにまで、おかしい。
これについては、このところ毎日のように
考えている。

「葬式仏教」と揶揄(やゆ)されるように
なってから久しいが、さらに最近では、
それが「ビジネス仏教」になっている。
金儲けの道具として、仏教が利用されている。
人の死が、利用されている。

+++++++++++++++++

「私はカルトを信じていない」と豪語する人でも、そのカルトを信じて
いる人は、いくらでもいる。

葬儀に始まって、盆供養にしても、~回忌という法事にしても、カルトそのもの。
「葬儀には僧侶は、必要」
「僧侶の読経がなければ、死者は成仏できない」
「戒名がなければ、成仏できない」などということを信じているのは、
立派なカルト。

最近私も知って驚いたが、同じ宗派でも、別の寺で葬儀をしたら、ほかの寺では、
それを受け入れてくれないそうだ。
たとえば私の母は、現在、静岡県の浜松市にいる。
おそらく最期は、この浜松市で迎えることになるだろう。
で、私は葬儀はこの浜松市で、そして49日の法要は、郷里のG県のM市でと、
考えていた。

が、それができない、と。

どういうしくみになっているのか、私にはよくわからないが、こういうケースのばあい、
郷里の寺は、母の遺骨を受け取ってくれないという。
もちろん郷里にある墓の中へも、入ることができないという。
地元の葬儀社の責任者の人が、そう教えてくれた。

ヘ~~~エ?

これひとつとっても、日本の宗教は、「型」のかたまりということがわかる。
「作法」「作法」「作法」……。
作法ばかり。

どうしてこういう馬鹿げた仏教になってしまったのか?

今朝私は、法要の原点となっている「地蔵十王経」が、鎌倉時代にできた、
偽経であるということについて書いた。
が、寺の住職で、それを教えてくれた人はだれもいない。
おそらくみな、偽経であることを百も承知の上で、過去700年以上にわたって、
信者をだましつづけている。

もちろん、金儲けのためである。
「地蔵十王経」は、寺の金儲けの方便としては、まことにもって、都合がよい。
死者を成仏させるためと言いながら、49日まで、1週間ごとに、信者から布施を
取ることができる。

もしこの日本に、誠意があって、勇気がある僧侶がいたら、こう言ってほしい。
「戒名などというものは、日本だけにある奇習です」
「葬儀に僧侶による読経がなければ、成仏できないというのは、嘘です」
「初七日だの、49日だの、そんなものは、鎌倉時代にできた偽経がもとになっている、
インチキです」
「盆の供養などというのは、アフガニスタンの奇習が伝わっただけです」と。

もしそんなことを言ったら、日本の仏教は、総崩れになってしまうだろう。
しかしそれはそれで仕方のないことではないか。
世界的に見れば、大乗仏教(北伝仏教)がかろうじて残っている国は、
この日本だけ。
アフガニスタンにもない。
中国ではごく一部。
韓国でも、キリスト教が主流。
もちろん本家のインドには、ほとんど何も残っていない。
(仏陀は、クリシュナの弟子というふうに、位置づけられている。)

しかも日本の仏教は、どこかオカルト的。
(教え)によるというよりは、儀式が中心。
が、これでは、日本の仏教に、未来はない。
それともこれから先も、ずっと、僧侶たちは、私たち日本人をだましつづけると
でもいうのだろうか。

今、多くの日本人が、日本の仏教のもつ(おかしさ)に気がつき始めている。
その(おかしさ)を、日本の僧侶たちも、謙虚に反省してほしい。
門構え、建築物だけをいくら立派にとりつくろっても、中身がなければ、
ソッポを向かれるだけ。
あるいは原点にもう一度立ち返って、仏教がどうあるべきか、再構築してほしい。
鎌倉時代の昔ならいざ知らず、現在の庶民は、あなたがたが考えているほど、
馬鹿ではない。
少なくとも、人の(死)を、もっともらしい嘘でくるみながら、もてあそぶことだけは、
もうやめてほしい。

(付記)
もし釈迦が生きていて、この日本の現状を見たら、釈迦だって怒るだろう。
戒名なるものがあるのはまだ許せるとしても、その戒名には値段があって、
その戒名に応じて、葬儀の仕方もちがう?

このひとつをとっても、釈迦が説いた仏法の精神と違背していることは、
明らか。

「葬儀に僧侶を呼ばなければ、成仏できませんよ」とか、「3代先まで、たたりがでますよ」
とか言って、信者を脅す。
その手法は、まさにカルト。
そこらのカルト教団がとっている手法と、どこもちがわない。

もしそこに地獄に落ちるような人を見かけたら、その人のために救済の手を
さしのべてやることこそが、仏道の本来の精神というものではないのか。

(妻へ、息子たちへ)

私が死んでも、ぜったいに僧侶を呼ぶな。
読経などあげさせるな。
みなで、お別れ会をすればよい。
もし晃子がさみしがっているようなら、どうか、晃子を支えてやってほしい。
話し相手になってやってほしい。

2008年9月14日、しかと記す。





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最終更新日  2008年09月14日 23時01分09秒
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