全て
| カテゴリ未分類
| 育児問題
| 教育問題
| 子どもの問題
| 育児エッセー
| 人生論
| 時事問題
| 日々の随筆
| 家族のこと
| 自分(はやし浩司)史
| 友人より
| BW教室のこと
| 生きザマの問題
| 心の問題
| 育児のコツ
| 親子の問題
| 宗教問題(心の問題)
| 幼児・子どもの心理
| 老人問題
| 【保存原稿・SS】
| 旅行記
| ニュース
| 子どもの世界
| 私が見た映画
| ●宗教
| ●日本について
| 社会時評
| 夫婦の問題
| ●経済について(日本+国際)
| 英語のことわざ
| ★BW方式
| 小説
| BW教室
カテゴリ:家族のこと
●重圧感
だれでもそうなのだろうが、一度巣立ってしまうと、実家との関係はそこで 切れる。 共通の思い出をつくることもない。 母は、私たち家族を、そのつどていねいに迎えてはくれたが、すでに他人以上の 他人になっていた。 言葉の使い方で、私には、それがよくわかった。 母との関係ですら、そうであった。 いわんや、兄をや、ということになる。 私にとって、兄、準二は、家のお荷物、あるいは、家の家具のような存在だった。 実家に帰っても、小遣いを渡すのは、私のほう。 話しかけて、あれこれと世話を焼くのも、私のほう。 誓って言うが、兄が生涯、私におごってくれたものと言えば、ラーメン一杯だけ。 それも兄の意思からではない。 母にせかされて、そうした。 弟の私ですらそうなのだから、兄は、さらに孤独な世界へと追いやられた。 友もなく、親には見捨てられ、そして兄弟とのつながりもなかった。 いつも独りで、レコードを聞いていた。 ●母との確執 30歳になったころだと思う。 ワイフの実家(浜松市)の近くに、授産施設のようなものができた。 身体や精神に障害のある人たちが共同で仕事をし、支えあうという施設である。 当時としては、まだ珍しい施設だったが、私は最初に、その施設に兄を入れること を考えた。 浜松へ来れば、私の自宅から、その施設に通えばよい。 ワイフも、快く同意してくれた。 が、これに猛然と抵抗したのが、母だった。 狂ったように抵抗した。 すでにそのとき父も他界していた。 母にしてみれば、兄を手放すということは、稼業の廃止ということになる。 母としては、ぜったいに譲れない一線だった。 私と母は、毎日、毎晩、電話で怒鳴りあうような喧嘩をした。 激しいものだった。 で、それを1週間から10日ほどつづけたところで、私のほうがギブアップ。 当時の私には、自転車屋を一軒開業することなど、何でもなかった。 仕事は順調だった。 収入も多かった。 私は、もし母や兄が望むなら、浜松で、自転車屋を開業する覚悟でいた。 その覚悟も、そのまま霧散した。 「母もいっしょに浜松へ」という考え方もあった。 が、母には、M町を「出る」ことなど、想像もつかなかった。 私には、それがよくわかっていた。 ●兄の性癖 兄にも、問題があった。 ゆがんだ性癖という問題だった。 私の家に遊びにやってきたときも、ワイフの入浴をのぞく、私のスキをみては、 ワイフに抱きつく、あるいは留守番をさせておくと、ワイフの下着を手で触れて 遊ぶ、など。 やがてワイフは、そういう兄に、恐怖感を覚えるようになっていた。 だから私は兄が私の家にいるときも、また私たちが私の実家に帰ったときも、 ぜったいに、兄とワイフを、2人だけにはしなかった。 さらに兄は、ことあるごとに、病院へ入院した。 そこでも看護婦さんに抱きついたり、下半身を露出させたりした。 そういう話を知っていたから、兄との同居には、それなりの覚悟が必要だった。 私はこう考えた。 「兄の問題は、一度、母と切り話さなければ、解決しない」と。 兄は、今で言う、マザコン。 度を越したマザコンだった。 母と兄は、強烈な相互依存関係で成り立っていた。 「共依存」という関係である。 そういうこともあって、それ以後、私は、兄を引き取るという話は、 二度としなかった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009年08月17日 00時32分14秒
|