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楽天・日記 by はやし浩司

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2009年08月16日
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カテゴリ:家族のこと
●重圧感

 だれでもそうなのだろうが、一度巣立ってしまうと、実家との関係はそこで
切れる。
共通の思い出をつくることもない。
母は、私たち家族を、そのつどていねいに迎えてはくれたが、すでに他人以上の
他人になっていた。
言葉の使い方で、私には、それがよくわかった。

 母との関係ですら、そうであった。
いわんや、兄をや、ということになる。
私にとって、兄、準二は、家のお荷物、あるいは、家の家具のような存在だった。
実家に帰っても、小遣いを渡すのは、私のほう。
話しかけて、あれこれと世話を焼くのも、私のほう。
誓って言うが、兄が生涯、私におごってくれたものと言えば、ラーメン一杯だけ。
それも兄の意思からではない。
母にせかされて、そうした。

 弟の私ですらそうなのだから、兄は、さらに孤独な世界へと追いやられた。
友もなく、親には見捨てられ、そして兄弟とのつながりもなかった。
いつも独りで、レコードを聞いていた。

●母との確執

 30歳になったころだと思う。
ワイフの実家(浜松市)の近くに、授産施設のようなものができた。
身体や精神に障害のある人たちが共同で仕事をし、支えあうという施設である。

 当時としては、まだ珍しい施設だったが、私は最初に、その施設に兄を入れること
を考えた。
浜松へ来れば、私の自宅から、その施設に通えばよい。
ワイフも、快く同意してくれた。

 が、これに猛然と抵抗したのが、母だった。
狂ったように抵抗した。
すでにそのとき父も他界していた。
母にしてみれば、兄を手放すということは、稼業の廃止ということになる。
母としては、ぜったいに譲れない一線だった。

 私と母は、毎日、毎晩、電話で怒鳴りあうような喧嘩をした。
激しいものだった。
で、それを1週間から10日ほどつづけたところで、私のほうがギブアップ。
当時の私には、自転車屋を一軒開業することなど、何でもなかった。
仕事は順調だった。
収入も多かった。
私は、もし母や兄が望むなら、浜松で、自転車屋を開業する覚悟でいた。
その覚悟も、そのまま霧散した。

 「母もいっしょに浜松へ」という考え方もあった。
が、母には、M町を「出る」ことなど、想像もつかなかった。
私には、それがよくわかっていた。

●兄の性癖

 兄にも、問題があった。
ゆがんだ性癖という問題だった。
私の家に遊びにやってきたときも、ワイフの入浴をのぞく、私のスキをみては、
ワイフに抱きつく、あるいは留守番をさせておくと、ワイフの下着を手で触れて
遊ぶ、など。

 やがてワイフは、そういう兄に、恐怖感を覚えるようになっていた。
だから私は兄が私の家にいるときも、また私たちが私の実家に帰ったときも、
ぜったいに、兄とワイフを、2人だけにはしなかった。

 さらに兄は、ことあるごとに、病院へ入院した。
そこでも看護婦さんに抱きついたり、下半身を露出させたりした。
そういう話を知っていたから、兄との同居には、それなりの覚悟が必要だった。

 私はこう考えた。
「兄の問題は、一度、母と切り話さなければ、解決しない」と。

 兄は、今で言う、マザコン。
度を越したマザコンだった。
母と兄は、強烈な相互依存関係で成り立っていた。
「共依存」という関係である。

 そういうこともあって、それ以後、私は、兄を引き取るという話は、
二度としなかった。





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最終更新日  2009年08月17日 00時32分14秒
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