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【セミナー】
●3人
昨日、2019年7月会のセミナー(浜松会)の案内を出した。 セミナーの申し込みがあった人は、計3人プラス1人。 低調である。 ワイフが「3人だけ?」と言った。 「そうだよ」と私は答えた。
が、おかしなことに、本当におかしなことに、私は内心ではほっとしている。 「あとのことは、上の人に任せればいい」と。
●怪光事件
昨年(2018年)の7月に、第1回目の怪光事件が起きた。 その直前のこと。 私は勉強会(セミナー)を、その7月会で中止することにしていた。 申込者は、10数名。 それでそう決めていた。 低調、あまりにも低調。
何人かの人たちには、内々では、口頭でそれを伝えていた。 「7月で、勉強会はやめます」と。 同時に、8月の勉強会の予定は立てなかった。 連絡もしなかった。 が、その7月に、あの怪光事件が起きた。
みなさんが見ている前で、怪光事件が、起きた!
●「やるしかない」
その事件があり、私は「やるしかない」と思った。 が、すでにそのとき8月(2018)に入っていた。 そんな私の気持ちをM氏に伝えると、M氏はこう言った。 「私が会場を手配します」と。
そのとき、つまり8月。 私とM氏は、熱海市(静岡県、浜松からは新幹線で1時間)へ、いっしょに旅行することになっていた。 8月ということもあり、公的な会場はどこもいっぱい。 公的な会場でないと、料金も高い。 その旅行をかねて、熱海市で8月の勉強会を開くことにした。
会場はM氏が手配してくれた。 ホテルの会議室。 料金については聞いていないが、公的会場の10倍以上。 夏休みのホテルは、さらに高額。 M氏はこう言った。 「私の方で、すべて払いますから、心配しないでいい」と。 その前後に、私とM氏との間で、こんな会話があった。
「7月で勉強会はやめるんじゃ、なかったですか、先生?」とM氏。 私はこう答えた。 「こうなったら、やるしかないでしょう」と。 つまり「怪光事件が起きたから、やるしかないでしょう」と。
その熱海市での勉強会で、第二回目の怪光事件が起きた。
●仕事
「もし、相手が人間だったら・・・」とは、よく私は考える。 今も考える。 「もし、相手が人間だったら、私は今の仕事はしないだろう」と。 少なくとも、2012年以前の私なら、しない。 それまで私が生きてきた、『経済観念』が、そこにある。 その経済観念に照らし合わせたら、私は、しない。
今の仕事は、損得を考えたら、損をすることはあっても、得をすることは何もない。 教育講演会の仕事は、激減した。 実際には、ゼロになった。 塾の生徒も、動画の発表をするようになって、毎年20%前後の割合で、減り始めた。
「本を書く」ということも考えたが、その時間がなかった。
●書籍
本を書くというのは、20代から私の仕事になっていた。 いろいろなことをした。 が、本を書くというのは、たいへんな重労働。 ゴーストライターもしていたが、そのたびに東京―浜松を往復しなければならなかった。 お金にはなったが、得るものは何もなかった。 ゴーストライターというのは、言うなれば、闇稼業。 すべてが隠密(おんみつ)。 出版社によっては、「絶対、名を明かさない」という念書まで書かされる。
が、本を書くことそのものは、私にとっては、何でもない。 その気にさえなれば、7~10日で、1冊の本を書く。 実際、当時は、それくらいの速度で、本を書いていた。 1年間で、10冊以上の本を書いたこともある。
が、「別バージョンの人間史」については、勝手がちがった。 毎日が新発見の連続。 それが怒濤のごとく押し寄せた。 本を書くヒマさえなかった。 書いているうちに、謎解きはさらに先に進んでしまう。 つまり1日とて、(立ち止まる)ことができなかった。
●パクり
当初から、パクりが始まった。 私が新しい発見をするたびに、それをパクる人が続出した。 中には、その翌日には、ブロッグ化(文章化)して発表する人がいた。 (今も、いる!)
YOUTUBE動画を私は無料で、配信している。 だから多くの人は、パクるのも無料(ただ)と考えている・・・らしい。 あるいはそえだけ軽く見られているのかもしれない。 (パクる)という意識もないのかもしれない。 これは私の知らなかった世界である。 予想もしていなかった。 が、これほどまでにパクりが多いとは!
●老後
こうした状況の上に、私の老後が重なった。 時間がないというより、体力、気力の衰えは、何ともしがたい。 つまりどうしようもない。 が、何より心配だったのは、知力の減退。 集中力が続かない。
・・・もっともこれは塾の仕事をしているときに、よく感じた。 2012年前後には、中学3年生の生徒にすら、負けるようなことが、ときどきあった。 数学の問題で、である。 自分の力の限界を感じ始めていた。
老後の問題は、すべて不可逆的。 悪くなることはあっても、よくなることはない。 私はいつもそうだったが、そして今もそうだが、ある種の強迫観念から解放されることはなかった。 「急げ」「時間がない」と。 そうした思いは、結局は私の老後の問題と重なった。 わかりやすく言えば、私自身のボケ。 それが心配だった。
●神の仕事
が、2016年に、豪雨事件と、『今、行くよ』事件が起きた。 考え方が一変した。 そして2018年に、勉強会での怪光事件が起きた。 考え方が、さらに一変した。
私は自分のしていることを、「神の仕事」ととらえるようになった。 人間ではない。 神。 相手は、神。
が、この私の意識に対して、ワイフがすかさず、ストップをかけてきた。 「あなた、そんなことを言ってはだめよ」と。
理由を聞くと、「みんなが不愉快に思うわよ」と。 「あなたね、よく『人間なんか・・・』と言うでしょ。あれはやめたほうがいい。だって、あなたの動画を見てくれる人は、みんな人間なんだから」と。
私「だって、その通りだろ」 ワ「それがいけないのよ」 私「どうして?」 ワ「だって、人間をバカにしているでしょ」 私「バカにしている? だってバカだろ」 ワ「一般の人には、それがわからないのよ」 私「あのね、神の目から見れば、人間はみな、バカなんだよ」 ワ「だから、それがいけないのよ。そんなことを言うと、敵を作るだけよ」と。
●現実離れ
申込者が3人なら、つまりふつうの人なら、会は開かない。 10人でも、開かない。 4年前には、いつも20人は集まった。 が、今は、3人。
その私が、7月会を開く。 迷いはない。 楽しいとは思わないが、そのほうが気が楽。 が、こうした現実離れ的な発想は、どこから生まれるのか?
ひとつには、このところ過負担感がある。 毎日、時間に追われる。 自分の時間がない。(ほしいとも思わないが・・・。) 家事もしなければならない。 運動もしなければならない。 日々雑多なことが、つぎからつぎへと起きてくる。 その中での謎解き。 動画づくり。
今の私は限界状況の中で、綱渡りをしているようなもの。 そう、その「限界状況」を、このところ、私は強く感ずる。 それが私をして、「気が楽」と思わせる?
●新発見
そういう中、新発見がつづいた。 そのひとつ、シャマーシュ(当初のキリスト)を殺したのは、マリアだった。 直接手をくだしたかどうかまではわからないが、イエスの死について、マリアが何らかの形で、かかわっていた。
さらにそのイエスの死後、マルドックとカインが別々に、人間世界を指導していた。 わかりやすく言えば、「キリスト2人説」。 私たちが今、「イエス」と呼ぶ人は、2人、いる。 当初は、シャマーシュがイエスだった。 が、そのシャマーシュは処刑されてしまった。 で、そのあとの今。 今は、マルドックとカイン。
・・・キリストの謎を解いていくと、やがて矛盾にぶつかる。 で、私は、2方向から、キリストの謎を解いていた。 ひとつは、マルドックの側から。 マルドックを調べていくと、マルドックが「キリスト」ということになる。
一方、カインを調べていくと、カインが、これまた「キリスト」ということになる。 ともに、キリスト。 が、マルドックとカインのつながりは、今ひとつはっきりしない。 そこで私は、デッドロックに乗り上げてしまった。
マルドックは、神。 カインは、神によって創造されたアダムの子ども。 そのマルドックとカインが、別々? 同じ?
●助け船
マルドックとカイン? 謎解きが行き詰まっているとき、ワイフがふと、横でこう助け船を出してくれた。 「別々の神じゃあ、ないの?」と。 が、このとき、謎が解けた。
マルドックとカインは、別々の神だった! そう考えると、今までの矛盾が、そのまま粉々になって宙に舞った。 同時に、いくつかに補強証拠が、つぎつぎと現れた。
●シャマーシュのフンババ
決め手はフンババ。 フンババの彫刻を見ると、どこか猿のよう。 (ミケランジェロの「埋葬」、ミケランジェロが彫ったとされる「瀕死に奴隷」に表現されているのが、フンババ。) 大きくそり上がった鼻。 キバ(牙)。
が、某大学のHPにはこうある。 『シャマーシュは、フンババを育てた』と。
ここでシャマーシュという神と、フンババがつながった。 (「埋葬」の中のフンババも、「瀕死の奴隷」の中のフンババは、小柄。 「ジャイアント・フンババ」と言えるほど、巨人ではない。)
が、「シャマーシュが育てたフンババ」ということになれば、小柄でもよい。 子どものフンババということになる。 フンババで、「埋葬」(イエスが処刑されたあとの様子)、「瀕死の奴隷」(処刑される前のイエス)が、つながった!
(このあたりの話はわかりにくいと思うので、どうか動画のほうを見てほしい。)
https://www.youtube.com/watch?v=I_QohxCkw3U
●結論
ともかくも、マルドックとカインは別人であった。(「別神」と書くべきか?) つまりこうして私の謎解きは、続く。 今日も続く。
それが私の仕事。 同時に、私の生きがい。 また、それ以上に、私は何を望むのか? 望むことができるのか?
言いかえると、「神の仕事」は楽しい。 その楽しさがあるから、神の仕事はやめられない。 だから今日もがんばる。 がんばることができる。
動画作りの傍(かたわ)ら、私は今度のセミナーの準備を始めた。
(2019年7月27日記)
*************2019年7月28日、発表*********
【主神(マルドック)と救世主(カイン)】
●主神と救世主
この1~2週間、ミケランジェロの謎解きにかかりきりになっている。 合間を見て、ほかの謎解きもしてみるが、あまり長続きしない。 が、こういうときは、迷う。 「自分の好きなことをするか」、それとも「話題を変えて、みなの希望に沿うか」と。 つまり視聴者の希望を、どこまで考慮するか、と。
視聴者のみなさんあっての、動画作り。 それはよくわかっている。 みなさんのおかげで、ここまで来ることができた。 が、媚(こ)びを売るのは、私のやり方ではない。 一方、視聴者を、無視することもできない。 とは言っても、毎回、イエスの話だけでは、つまらない。 飽(あ)きられる。
が、このところ、何をしていても、イエスの話に戻ってしまう。
●カイン
ミケランジェロの作品に、『埋葬』(絵画)と、『瀕死の奴隷』(彫刻)がある。 この両者には、共通点がある。
(1) 胸に奇妙な帯がある。(両者、まったく同じ。) (2) 奇妙な動物らしきものが、表現されている。(あとでフンババと判明。) (3) 2人の人物のポーズがよく似ている。(ただし一方は他方の左右反転。) (4) ともに「未完の大作」と言われている。(未完成の部分がある。)
が、それだけではない。 『埋葬』の中には、イエスのほかに、4人の人物が描かれている。 マリア、マグダラのマリア、天使(ガブリエル?)、それにヨハネ(?)。 その4人の目つきは冷たい。 マリアと判断した人物は、イエスを冷ややかに見下ろしている。 『埋葬』という題名だから、イエスはそのとき死んでいることになる。 が、イエスの体には、どこにも傷がない。 もちろん聖痕もない。 (だから「未完の大作」ということになっているのか・・・?)
私は最初、ここがおかしいと思った。 と、同時に、ある美術評論家の英文の説明にはこうあった。
「ふつう、白抜きの部分には、下書きのスケッチが残っているものだが、そのスケッチがないのが、おかしい」と。
『埋葬』の絵の中には、2カ所、白抜きの部分がある。 まったくの白抜きになっているが、下絵として残っているスケッチがない、と。
(これはダビンチの『東方三博士の礼拝』(未完の大作)、『セント・ジェローム』(未完の大作)、ミケランジェロのもう一枚の『聖母像』(未完の大作)にも共通している。 白抜きになっているだけで、ふつうならあるはずのスケッチ部がない。)
が、私は、『埋葬』の中のイエスがあまりにも、美しいのが気になった。 加えて、実におだやかな顔をしている。
●検証
が、検証そのものは、楽しかった。 私が予想したとおりに、(論理的には仮説を立てたとおり)に、スイスイと謎が解けた。 結論は、最初からわかっていた。・・・そんな感じだった。
(1) イエスは処刑される前に、すでに死んでいた。 (2) 殺されたイエスは、シャマーシュだった。 (3) イエスの処刑には、マリアがからんでいた。
考えてみれば、これほどまでスケールの大きなサスペンスがあるだろうか。 マリアとイエス。 それ以上の登場人物は、人類史上においても、また地球規模で考えても、ない。 まさに壮大なドラマ。 壮大な死闘劇。 マリアがイエスの死に、何らかの形で関与していた。
・・・あとはそれをどう証明するか。 さらにはそれをどう動画化するか。
●特殊技術
動画作りには、動画作り独特の、つまり動画作り独特の苦労というのがある。 作法、といってもよい。
一方、文章で書くというのは、動画作りと比べたら、薄っぺらい。 奥行きがない。 時間の流れもない。 視覚効果はない。 が、何よりも大きな違いは、「動き」がない。
こうした違いを、どうつなげていくか。 もっとわかりやすく言えば、(文章的な思い)を、どう視覚的に表現していくか? が、簡単なことではない。・・・簡単なことではなかった。
あとで見直してみると、最初に意図した内容とは別のものになっていることがよくあった。
●経験
が、今はちがう。 動画を作り始めると、かすかだが、結末を感ずる。 で、動画を作っていくと、その結末が見えてくる。 わかりやすく言えば、今は、ほとんどのばあい、思い通りの動画ができあがってくる。 が、それが楽しい。 気持ちよい。
正確な本数はわからないが、YOUTUBEにアップした動画はすでに1万数千本になる。 この世界でも、経験がものをいう。 当初は1日がかりで、せいぜい一本の制作が限度だった。 が、今は、それが数時間で、できる。
●イエスの証明
こうしてイエスの証明が、できた。・・・と思う。 正しくはないが、まちがってはいない、と思う。 7年前には、「神の謎を解くのは不可能」と考えていた。 「300年あっても、解けない」と思っていた。 が、それが7年で、解けた。
イエスは、シャマーシュであった。 が、そのシャマーシュは、処刑され、殺されてしまう。 で、そのあと、マルドックが主神、カインがキリスト(救世主)となった。 一方、マリアはマリア教を主宰し、のちのローマン・カトリックへとつながっていく。
だから、(1)イエスの復活という話は、流れからしても、ありえない。 (2)ローマン・カトリックには、最初から今に至るまで、イエス・キリストなる神は存在しない。
わかりやすく言えば、(マリア)と(イエス・キリスト)の対立は、太古の昔から、今の今もつづいているということ。 そして(イエス・キリスト)は、2人の神、マルドック(主神)とカイン(救世主)のことということになる。
その証拠が、続々と出てきた。 ミケランジェロの『埋葬』(絵画)と『瀕死の奴隷』(彫刻)も、その中のひとつということになる。
●イスラム教
今日(2019-8-3)までに、ブッダの謎とキリストの謎を解いた。 ほぼ解いた。 残るは、イスラム教の謎ということになる。 が、イスラム教のばあいは、神そのものがわからない。 一般には、ガブリエルと言われている。 が、ガブリエルとは、だれなのか? あるいは、本当にガブリエルなのか?
イスラム教においては、ムハンマドは、イエスと同じ「メッセッンジャー」ということになっている。 神ではない。 人間である。 つまり、ブッダやキリストとは、一線を画す。
●女性神
そのガブリエルは一般には、女性神として表現される。 女性の神(あるいは天使)か?
だいたい神は人間には、自らの名前を語ることはない。 神の名前は、人間が、人間側で勝手につけた名前である。 だから神の名前は、それぞれの地域で、それぞれの時代でみな異なる。 「イエス」にしても、当時のエルサレム周辺では、ごくありふれた名前だったという。 日本風にいえば、「ヒロシ」か「タロウ」。 神が、自らの名前を、「イエス」にするはずがない。
ガブリエルにしても、またしかり。 が、流れからすると、マリアか?
この地球(冥界・地獄)に残った女神は、消去法的に考えるなら、マリアしかいない。 が、どうしてマリアなのか? マリア教(ローマン・カトリック)なるものは、すでにあった。
となると、アナヒータか? 旧約聖書を聖書といている。 思想がエンキのそれと共通している。 あるいはニンフルサグの可能性もある。
謎が深まる。
●聖徳太子
気になる神がいる。 聖徳太子である。 聖徳太子とミトラには、不思議な共通点がある。 生まれたのが(馬屋)。 処女懐胎。 さらに聖徳太子とムハンマドは、ほぼ同じ時代の人物。
こんな話も残っている。
ムハンマドは、一夜にして、カーバとエルサレムを往復している。 天馬ブラークに乗っていったという。 一方、聖徳太子は、馬に乗ったまま、アメリカのデビルズ・タワーに行っている。 こうした共通点をどう理解するか?
・・・となると、ガブリエルはアナヒータということになるのか?
●仮説
こうして一本の仮説が立った。 「イスラム教の神は、アナヒータである」と。
あとはその証拠を探せばよい。 が、探すと言っても、私の頭の中。 1万数千本の動画が、私の頭の中にある。 その中から、探す。 やはり私の経験がものを言う。
で、仮にこの仮説が正しいとして、次なる謎も生まれる。 アナヒータはミトラのバージン・マザー。 だったら、ミトラ教にすればよかった。 が、なぜかイスラム教はイスラム教、ミトラ教はミトラ教。 (もっとも7世紀にはミトラ教は、ローマン・カトリック教によって、「悪魔教」と位置づけられ、徹底的に弾圧されていた。)
が、私の仮説は、まちがっていないと思う。 なぜなら、ゾロアスター教の礼拝の仕方と、イスラム教の礼拝の仕方は、似ているというより、酷似している。
ゾロアスター教の主神は、そのアナヒータであった。
●アナヒータ
アナヒータとマルドックの関係について言うなら、アナヒータは太陽の女神。 4頭立ての戦車に乗って天空を行き来していた。 マルドックとは比較にならないほど、上位の神であった。 が、そのアナヒータが処女解体で、マルドックをもうけた。
が、この説には穴(欠陥)がある。
マルドック、つまりミトラ(ギリシャ名:アポロ)は、そのアナヒータから生まれたということになっている。 つまり息子。
・・・複雑!
神々の世界は、本当に複雑! 一筋縄ではいかない。
●謎解き
こうして今日も、私の謎解きは続く。 明日も続く。
が、楽しい。 ワクワク感は、今日の今日もある。 (かなり色あせてきたところもあるが・・・。)
ともあれ、イエス・キリストの謎は、ほぼ解けた。
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今日、2019年の9月会の場所を申し込んだ。 JR岐阜駅前の会館で開くことにした。 一部屋だけ空いていた。
2019年の4月14日に、セミナーを開いた会館である。 5人の人たちが、不思議な現象を目撃し、一部はスマホにも撮影された。 その会館である。
申し込んだ後、電話で確認すると、今度も、同じ部屋だった。 これも何かの因縁か?
2019年9月29日(日)、JR岐阜駅前「じゅうろくプラザ」、午後2時~4時まで。 (開始時刻が2時なのは、その時間帯しか部屋が空いていなかったことによる。)
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●8月4日、後記
今日も暑かった。 ときどき書斎を出て、台所へ行くのだが、そのつどドカッとした熱気を感じた。 が、私は子どものころから、暑さには慣れている。 実家は、田舎町だが、商店街の中にあった。 風通しは悪い。 2面が、アスファルトの道路に囲まれている。 そういう環境で育った。
が、それでも30度を超える日は、それほど多くはなかった。 つづいても、1~2週間。 昔の夏は、短かった。 盆の8月15日を過ぎると、冷たい川風が吹いた。
・・・そんなことを思い出しながら、台所に座って、暑さに耐える。 扇風機を「強」にする。 ところでみなさんは、ご存じかもしれないが、サトイモとウコン。 その巨大な葉が、庭の畑の何分の一かを、覆っている。 巨大!
今年、友人のI氏が、勝手にもってきて、勝手に植えつけておいてくれた。 それが巨大になった。 そのサトイモとウコンの葉が、乾いた夏風の中で、さわさわと揺れている。 「夏だなあ」と。 そう思う。
そして鼻歌。
『・・・麦わら帽子はもう消えた たんぼの蛙ももう消えた それでも待っている夏休み・・・・」
いい歌ですね。
ではみなさん、ありがとう! 今月も、よろしくお願いします。
(2019年8月4日)
**************2019年8月4日発表*************
【ひとつの発見】
●ライオン・キング
昨夜(2019-08-09)、ディズニーの『ライオン・キング』を見てきた。 映像技術がすばらしかった。 圧倒された。 「ここまでやるか!」と驚いた。 いろいろな映画を見てきたが、ライオン・キングは群を抜いている。 が、同時に、こうも思った。 「ますます日本映画は衰退するだろうな」と。
映画の前に、何本か予告編を見た。 T映画会社も必死なのだろう。 邦画の紹介をしていた。 が、どれも見るに堪(た)えない。 わかりやすく言えば、へたくそ! どの役者も、演技、演技といった感じ。 心から演じていない。 心が入っていない。 (酷評して、ごめん!)
少し前、戦争映画の予告編(邦画)を見た。 第二次大戦中の映画。 その中で、ある女優は、ノルディック(白人)のような化粧をしていた。 (戦時中の日本人は化粧など、しなかったぞ!) 歩き方も、ぎこちない。 不自然。 その不自然さが、私を映画から遠ざけてしまう。 なぜか?
●「Drama」という科目
英語国には、中学生から、ドラマ(演技)という科目が選択できる。 が、日本にはそれがない。 音楽や美術と並んで、重要な科目になっている。 さらに進んで大学には、演劇学部というのがある。 2000年に入ってから、日本の大学でも、それが始まった。 が、時、すでに遅し。 オーストラリアでは、すでに、1970年にはあった。 遅れること、30~50年。
で、日本には、「劇団」というのがある。 あの声を張り上げて、わざとらしい演技を繰り返す、劇団である。 私はそれはそれとして、その存在感は認める。 が、その演技が、映画の中でも、出てくる。 出てきたとたん、興がさめる。 先にも書いたが、自然ぽさがない。
映画で、何よりも重要なことは、自然ぽさではないのか。 20近く前、コロンボ警部で有名な、ピーター・フォークがニューヨークの大学で演技指導をしていた。 その中で、ピーター・フォークは、こう言っていた。
「自然に演技せよ」「自然に演技せよ」と。 映画は、その一言に尽きる。
『ライオン・キング』はCGアニメだが、その自然ぽさが、自然に表現されていた。 その自然ぽさがないと、観客は感情移入する前に、映画からはじき飛ばされてしまう。 (映画の酷評は、ここまで。)
映画を見ながら、別の脳みそで、私はそんなことを考えていた。
●エジプト神話
ライオン・キングの筋書きと、エジプト神話の筋書きが同じ。 そのため、当初は、こう考えていた。 ライオン・キングはエジプト神話を土台にして作られたのではないか、と。 が、こんなことに気づいた。
エジプトには、『ホルスの目』と呼ばれる目がある。 ホルスというのは、オシリス(父親)とイシス(母親)の息子。 が、オシリスは、ホルスから見て、叔父のイシスに殺される。 で、ホルスはいったんは王家から離れるが、やがて復帰。 叔父を殺し、復讐を果たす。 そしてエジプトの王となる。
ライオン・キングの筋書きは、これとまったく同じ。
●第二地帯
古代、神々の世界では、エジプトは、第二地帯(エンキの管轄地)と位置づけられていた。 (これに対して、第三地帯は、インダス・バリー周辺。イナンナの管轄地。) そのエジプトは、ピラミッド戦争なるものを繰り返す(ゼカリア・シッチン説)。 一時は、あのエンキも、ピラミッドに投獄されたという。 (ピラミッドは神々を閉じ込めておくための牢獄?)
そのためエジプトの神話が、シュメールの古代神々の系図と一致していたとしても、何らおかしくない。 (同時に日本の神話が、シュメールの古代神話の系図と一致してとしても、何らおかしくない。)
考えなおしてみれば、当然のこと。 つまりエジプト神話は、シュメール神話の別バージョン。 すなおに考えれば、そうなる。 このちっぽけな地球に、神々が何種類もいるわけがない。 神々の物語が、何種類もあるわけがない。 言い換えると、エジプト神話をていねいに解読すれば、シュメールの神々の系図がわかる。 (同じように日本の神話をていねいに解読すれば、シュメールの神々の系図がわかる。 反対に、日本の神々の系図がわかる。)
●ホルスの目
ホルスの目。 マルドックの目。 ともに、片目。 右目。
偶然の一致ではありえない。 ・・・ということで、神々の世界が、つながった。 点と点が線でつながった。
となると、ひとつ、大きな疑問が生まれる。 ギリシア彫刻の、あのミトラ像である。 どの像も、ミトラが雄牛にまたがり、雄牛の首に短剣を突き刺している。 言い換えると、息子のミトラが、父親以上の父親のエンキの首に短剣を突き刺している。 私の常識からすれば、ありえない。 ありえないことが、起きた。
もっともこうした事実がわかったのは、最近のこと。 またそれを発見したのも、私、はやし浩司。 「片目のマルドック」説も、そのひとつ。 わかったからこそ、「ありえないこと」ということになる。 (今までは、そうした(事実)すら知り得なかったのだから、「おかしい」とも思わなかったのだろう。)
●発想の逆転
そこで発想を逆転させる。 私はそうした。 つまり「短剣を突き刺している」のではなく、ミトラは「短剣を抜いている」と。 書き忘れたが、雄牛は、エンキそのもの。 代名詞ではない。 エンキそのもの。
そのエンキから、短剣を抜いている。 もっとわかりやすく言えば、ミトラはエンキの命を救った。
●ミトラの表情
その証拠に、ミトラの表情を見たらよい。 雄牛にまたがっているミトラは、気高く、気品があり、穏やかで落ち着いている(ギリシヤ彫刻)。 とても、雄牛を殺している表情には見えない。 いわんや、父親をや!
繰り返すが、ミトラは父親を救っている! 父親を殺してはいない!
・・・というように、今日は謎解きがはずんだ。 楽しかった。
*************2019年8月10日記****************
【2019-08-17】
●猜疑心(さいぎしん)
私は子どものころから、疑い深かった。 人を信じなかった。 いつもその人の、心の裏を見た。
が、その分だけ、私は孤独だった。 さみしかった。 いつもひとりぼっちだった。
見た目には派手な性格で、人づきあいもよかった。 笑わせ上手で、だれとでもすぐ友だちになれた。 が、そこまで。 いつも表面的。 心までは許さなかった。
●原因
原因は、よくわかっている。 理由もよくわかっている。 が、それがわかったのは、私の仕事が、そうだったから。
私は40年以上も、幼児を相手に、仕事をしてきた。 そういう経験が、自分を知る手がかりとなった。
端的に言えば、幼児期の「基本的信頼関係の構築」に失敗した。 わかりやすく言えば、母子関係の不全。 家庭が家庭として機能していなかった。
戦後の混乱期ということもあった。 やがて父は、酒に溺れるようになり、たいていは夕方になると暴れた。 ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると、人が変わった。 私が4~7歳のころのことで、私は数日おきに、父の姿におびえた。
が、ここで何も、私の家庭環境について書くつもりはない。 私が書きたいことは、私の猜疑心は、そういう家庭環境から生まれたということ。 わかりやすく言えば、私は家族にさえ、全幅に心を開くことができなかった。 もっとわかりやすく言えば、家族ですら、信ずることができなかった。
●信ずる
「信ずる」ということは、「疑わない」こと。 が、それだけでは「信ずる」の意味を、定義することはできない。 「疑わない」ということは、いうなれば「無」をいう。 「疑わない」という意識もないまま、相手を受け入れる・・・それが「信ずる」ということ。 「疑わない」と意識したとたん、実はその相手を疑っていることになる。
●勉強会
勉強会の席で、怪光現象が起きた。 2018年の7月(浜松会) 2018年の8月(熱海会) そして2019年4月14日。
が、奇妙なことに、私自身はそれを見ていない。 まったく気づかなかった。 2018年の7月には、会を始めて10分前後のとき、赤い怪光が2つ天井から下りてきて、私の左肩の上で消えた(MKさんの証言)。 まぶしいばかりの光だったという。
が、私は気がつかなかった。
つづいて2018年の8月にも、同じような怪光事件が起きた。 が、決定的だったのは、2019年の4月14日。 日曜日。 私のワイフが、それを目撃した。 やはりまぶしいばかりの光だったという。 私の背中側だが、スクリーンの上端あたりを、向かって左から右へ移動した。 かなり速いスピードだったというが、しっかりと目で追いかけられる速さだったという。 が、その光にしても、私はもちろん会場にいた、ほかのだれも気づかなかった。
●光の質
これについては、私はこう考える。 「光の質、そのものが違うのではないか」と。
つまり人間が使う光は、発光体そのものが光り、その光がものに乱反射して、明るさを出す。 が、神の使う光は、発光体そのものは光らない。 直進性があって、その発光体がめがけた相手だけが、その光をとらえることができる。
同じような光が、英国で起きた『レンデルシャムの森・UFO遭遇事件』でも、目撃されている(?)。 証言者の言葉をつなぎあわせると、こうだ。
「UFO自体は、まぶしく輝いていた。が、その下の地面は暗いままだった」と。 つまりふつうなら、UFOの光は、当然地面にも反射して、その地面が明るくなるはずだが、それがなかった、と。
人間には、まだ未知の光ということになる。
●動画
2019年4月14日に起きた怪光事件のときは、スマホにそれが撮影されていた! つまり怪光の物的証拠が、手に入ったということになる。 が、ここからが、私。 私の話。
こんなことを書くと驚く人も多いかと思うが、何と、その怪光を疑っているのが、この私自身ということになる。 つまりこの私が、信じていない。 「本当に、怪光だったのか?」と。 「何か、別の光が反射して、写り込んだのではないか」とも。
いつもそうだが、私という人間は、どこかひねくれている。 ものごとを何でも否定したがる。 (一方、何でもないできごとを、誇大妄想的にふくらませてしまう人も多いが・・・。)
だから、あらゆる可能性を考え、考えながら、自分自身を否定していく。
・・・と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。 「だって、あなたは動画まで発表して、他人には信じなさい」と言っているではないか、と。
が、ちょっと待ってほしい。
私はいまだかって、一度も、「信じてほしい」などとは言った記憶がない。 「信じたければ信じればいい」「信じたくなければ信じなくてもいい」と。 その点、私はサバサバいている。 信じてもらったところで、どうということはない。 信じてもらえなかったところで、これまたどうということはない。
この基本的なスタンス(姿勢)は、この7年間、まったく変わっていない。 言い換えると、私はそういう動画を発表しながらも、心のどこかでいつも自分と闘っている。 私は私自身に向かって、いつもこう叫んでいる。 「浩司、信じろ」「もう信じろ」「もう疑うな」と。
が、私には、どうしてもそれができない。 心が開けない。 怪光が写り込んだ動画を見ながらも、「ああ、そんなことがあったのか」と思ったが、そこまで。 それ以上、自分の魂の中にまでは、入ってこない。 心のどこかで、たぶん心の中の遠い世界で、いつも自分がこう叫んでいる。 「そんなことはありえない。本気にしてはだめだ」と。
私という人間は、いつも、こうだ。
●2018年4月25日
2018年4月25日の朝、午前9時ごろから、あのパーティ事件が起きた。 それが1時間もつづいた。 その事件が起きたときも、私はその事件を信じなかった。 「夢だった」「幻聴だった」「幻覚だった」と。 懸命に否定した。 上の人が、そして神が、私の横にいた。 1時間近くも、私の横にいた。
が、その話をワイフに詳しく話すと、ワイフはこう言った。 「あなた、それね、上の人があなたを励ましに来てくれたのよ」と。 私はその前日、まさに死線をさまよった。 その翌日の朝のことだった。 それがあのパーティ事件だった。
が、その事件にしても、私は自分で自分を即座に否定した。 「そんなことはありえない」と。 が、その一方で、自分の脳みその中を何度も何度も、見直した。 「正常か、正常でないか」と。
・・・繰り返す。 私は、そう、子どものころからそういう人間だった。 心のさみしい人間だった。
●怪光事件
怪光事件に話をもどす。
怪光事件は確かにあった。 述べ11人の人たちが、それを直接目撃した。 その中には、私のワイフも含まれる。
が、おかしなことだが、ほかの人はともかくも、私はワイフの話だけはすなおに信ずることができる。 ワイフは、先にも書いたように、その怪光を目撃している(4月14日)。
私「本当に見たのか」 ワ「見たわよ」 私「ふ~~ん」と。
ワイフの言葉だけは、ストンと私の心の中に入ってくる。 が、ほかの人の話は、そうはいかない。 その間にはいつも壁がある。 少なくとも2016年の(大豪雨事件)以前の私が、今の今も、私の中に同居している。 その私が、壁を作る。 2016年以前の私なら、即座にこう言っただろう。 「そんなバカなことが、あるものか!」と。
2016年以前の私は、ガチガチの合理主義者。 理屈人間。 思考回路は理科系。
●目的
なぜあの怪光事件が起きたか。 実は、その理由を、私は知っている。 私が死線をさまよった事件と、深く関係している。 2018年7月の第1回目の怪光事件の直後に、それがわかった。 が、それに2つの相反した考え方が、私の心の中で揺れ動いた。
「私のためだったのか」「それとも警告、あるいは罰を与えるためだったのか」と。
ワイフは、そのつどいつもこう言う。 「あなたのためよ。わかりきったことよ」と。
が、私にはそれが信じられない。 だからこんな会話が、繰り返し、繰り返し、つづく。 「ぼくため?」 「そうよ、あなたのためよ」 「そんなはずはない」と。
●2019年8月15日
詳しくは書けないが、あることが起きた(ごめん!) 2019年の8月15日。 そのあることが起きたとき、私の心の底に穴があいた。 ストンと、穴があいたような感じだった。 その瞬間、同時に心の重しが取り除かれたように感じた。
・・・私はその瞬間、神の存在を感じた。 「信ずる」とか「疑わない」という時限を超えた、純粋、無色無臭の世界。 クリスタルで、透明な世界。 静寂とやすらぎの世界。 穏やかで、やさしさに包まれた世界。 そこにある世界が、今まで見ていた世界とは別の世界に見えた。 あとでワイフに、「急に世界が明るくなったように感じた」と話したが、実際、そんな印象をもった。
●変化
人というのは、自分が変化して、それまでの自分が見えてくるものか。 が、変化するまで、それが見えない。 今回も、そうだ。 ストンと心に穴があいてはじめて、それまでの自分が、その向こうに見えてきた。 猜疑心が強く、心の閉ざされた自分。 それが見えてきた。
●帰依?
心が軽かった。 不思議なほど、軽かった。 そこは恨みも、憎しみもない世界。 怒りも、迷いもない世界。 どこまでおだやかで、澄んでいた。
ワイフとそのあと食事をしながら、こんな会話をした。
私「ぼくね、生まれてはじめて、心を開くことができたよ」 ワ「・・・そう」 私「ぼくね、生まれてはじめて、人を信ずることができるようになったよ」 ワ「人って?」 私「上の人だよ。上の人だよ。上の人は、ぼくを守ってくれたよ。そしてね、今の今も、ぼくを見守ってくれているよ」 ワ「だから、私もいつも、そう言っているでしょ。あなたは上の人に守られているわよ。横で見ていると、それがわかるわよ」 私「うん、それがぼくにもわかった。・・・わかる」と。
●上の人
上の人はいる。 そこにいる。 いつもいる。 いつも私の近くにいて、私を見守ってくれている。 確信とか、そういうことではなく、また実感とか、そういうことではない。 私自身と一体となって、そこにいる。
その神が、穏やかでやさしく、温もりのある空気で包んでくれている。 それがわかった。 同時に、そこにいる私は、汚れをしらない幼児のまま。 あのいつもの猜疑心はどこにもなかった。 あるはずの猜疑心は、どこにもなかった。 そこにいる神の存在を、そのまま素直に私は受け入れていた。
私「神はいるね」 ワ「わかりきったことでしょ」 私「でもね、今日、ぼくは生まれてはじめて、人を信ずることができたよ」 ワ「私の言葉は信じていなかったの?」 私「うん、信じていなかった」 ワ「かわいそうな人ね」 私「だって、それはぼくの問題だよ。お前が怪光を見たという話とは、わけがちがう」 ワ「そうねえ」 私「今まで、何度もお前にそう言われたけれど、今日はじめて、その意味がわかったよ」 ワ「・・・」 私「ぼくって、かわいそうな人間だったんだね」と。
●仕事
私はたしかに「仕事」を与えられている。 今の動画づくりが、その仕事ということになる。 が、同時に「与えられている」というよりは、「自分で楽しんでしている」とも思う。 私は私。 私はいつも、自分で考え、そして「仕事」をしている。
が、それは私だけに限らない。 この世の中で、無数の人が、それぞれの「仕事」をしている。 ・・・してきた。
その結果が「現在」ということになる。 つまりそういう「仕事」が集合化して、現在につながっている。 ある人は、無意識のまま。 またある人は、それを意識しながら。 真・善・美の追求は、まさに「神の仕事」。 私がしている仕事は、そのうちのほんの一部でしかない。 が、そんな仕事でも、これほどまでに楽しい。
無私、無欲?
・・・というより、私の心を支配しているのは、上の人。 神。 人間世界のことは、ほとんど気にならない。 それはたとえて言うなら、猿ヶ島に住む、猿の世界で絵を描いている画家のようなもの。 猿たちの評価など、気にしない。 気にしても、意味がない。
ああ、私は新しい謎が解けるたびに、天に向かってこうつぶやく。 「また、新しい謎を解きましたよ。どうですか?」と。 実際には、もっと汚い言葉で、そうつぶやく。
●使命
新しい使命感が生まれた。 まだ生まれたばかりなので、この先のことはわからない。 が、今は、こう思う。
この希望を、みなと共有したい、と。
まさに希望。 絶対的な真・善・美がそこにある。 あると思うこと自体が、希望。 その希望を、みなと、共有したい。
・・・ともあれ、あとはそれを証明するだけ。 神の存在を証明するだけ。 あとは、みなが、私が歩んだ道を歩んでくれる・・・はず。 みなも、それに気づいてくれるはず。
「神はいる」と。
それをするのが、私の仕事。 あとのことは、あとの人たちに任せればよい。 俗な言い方かもしれないが、私の知ったことではない。 それぞれの人が、それぞれの幸福の追求をすればよい。 というのも、いくら私ががんばっても、(まただれががんばっても)、私は私。 人は人。 それぞれの人が、神とのパイプを育てればよい。 つながりをもてばよい。 言い換えると、私の仕事はそこまで。 だからあのガンジーは、こう言った。
『神には宗教はないんだよ(God has no religion.)』と。
みなが、神との一対一の対話を始めたとき、人間は変わる。 世の中は変わる。 それこそ、世界中が温かい陽光に包まれる。
(2019年8月18日、記)
*************以上、2019年8月18日発表*********
【もうすぐ2019年、8月も終わり】
●現在
現在は、8月21日、水曜日。 時刻は午前5時24分。 時計を見ながら、この原稿を書き始める。
台所で山の水音が聞こえる。 山の水は、常時、出しっ放し。 一度、庭先でホースにつなぎ、そのホースを窓から台所へ引っ張っている。 その水が、出しっ放し。 新鮮な山の湧き水。 先ほど、その水を飲んだ。 コップに注いで、飲んだ。 おいしかった。
●水
このところ水の出は、悪くない。 というか、水では苦労をしている。 少し前、近所の人がこう言った。 「2週間おきに、清掃に行っていますよ」と。
「2週間!」と、私は驚いた。 私「うちなんか、3~4か月ごとです」と。
つまり近所のその人は、水源地の清掃を2週間おきにしている、と。 つまりそれくらい、山の水は、難しい。 管理がたいへん。 少し雨が降ると、取水口がこまかい砂利で塞(ふさ)がれる。
ああ、今、思い出した。 昔、パキスタン人のアーマド君がこう言った(1970年)。 「ヒロシ、イン・パ紛争の本当の理由は、水だよ。カシミールの水だよ」と。
インドとパキスタンは、源泉の水を取り合って、今の今も、紛争をつづけている。 川をはさんで、二重、三重のフェンスを作り、領有権を争っている。 つまり、「水」の問題は、それほどまでに深刻ということ。 「蛇口をひねれば水が出る」「その水をを飲むことができる」というのは、この日本の話。 日本だけの話。
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最終更新日
2024年09月24日 04時50分17秒
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