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別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2024年09月24日
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【セミナー】

 

●3人

 

 昨日、2019年7月会のセミナー(浜松会)の案内を出した。

セミナーの申し込みがあった人は、計3人プラス1人。

低調である。

ワイフが「3人だけ?」と言った。

「そうだよ」と私は答えた。

 

 が、おかしなことに、本当におかしなことに、私は内心ではほっとしている。

「あとのことは、上の人に任せればいい」と。

 

●怪光事件

 

 昨年(2018年)の7月に、第1回目の怪光事件が起きた。

その直前のこと。

私は勉強会(セミナー)を、その7月会で中止することにしていた。

申込者は、10数名。

それでそう決めていた。

低調、あまりにも低調。

 

 何人かの人たちには、内々では、口頭でそれを伝えていた。

「7月で、勉強会はやめます」と。

同時に、8月の勉強会の予定は立てなかった。

連絡もしなかった。

が、その7月に、あの怪光事件が起きた。

 

 みなさんが見ている前で、怪光事件が、起きた!

 

●「やるしかない」

 

 その事件があり、私は「やるしかない」と思った。

が、すでにそのとき8月(2018)に入っていた。

そんな私の気持ちをM氏に伝えると、M氏はこう言った。

「私が会場を手配します」と。

 

 そのとき、つまり8月。

私とM氏は、熱海市(静岡県、浜松からは新幹線で1時間)へ、いっしょに旅行することになっていた。

8月ということもあり、公的な会場はどこもいっぱい。

公的な会場でないと、料金も高い。

その旅行をかねて、熱海市で8月の勉強会を開くことにした。

 

会場はM氏が手配してくれた。

ホテルの会議室。

料金については聞いていないが、公的会場の10倍以上。

夏休みのホテルは、さらに高額。

M氏はこう言った。

「私の方で、すべて払いますから、心配しないでいい」と。

その前後に、私とM氏との間で、こんな会話があった。

 

「7月で勉強会はやめるんじゃ、なかったですか、先生?」とM氏。

私はこう答えた。

「こうなったら、やるしかないでしょう」と。

つまり「怪光事件が起きたから、やるしかないでしょう」と。

 

 その熱海市での勉強会で、第二回目の怪光事件が起きた。

 

●仕事

 

 「もし、相手が人間だったら・・・」とは、よく私は考える。

今も考える。

「もし、相手が人間だったら、私は今の仕事はしないだろう」と。

少なくとも、2012年以前の私なら、しない。

それまで私が生きてきた、『経済観念』が、そこにある。

その経済観念に照らし合わせたら、私は、しない。

 

 今の仕事は、損得を考えたら、損をすることはあっても、得をすることは何もない。

教育講演会の仕事は、激減した。

実際には、ゼロになった。

塾の生徒も、動画の発表をするようになって、毎年20%前後の割合で、減り始めた。

 

 「本を書く」ということも考えたが、その時間がなかった。

 

●書籍

 

 本を書くというのは、20代から私の仕事になっていた。

いろいろなことをした。

が、本を書くというのは、たいへんな重労働。

ゴーストライターもしていたが、そのたびに東京―浜松を往復しなければならなかった。

お金にはなったが、得るものは何もなかった。

ゴーストライターというのは、言うなれば、闇稼業。

すべてが隠密(おんみつ)。

出版社によっては、「絶対、名を明かさない」という念書まで書かされる。

 

 が、本を書くことそのものは、私にとっては、何でもない。

その気にさえなれば、7~10日で、1冊の本を書く。

実際、当時は、それくらいの速度で、本を書いていた。

1年間で、10冊以上の本を書いたこともある。

 

 が、「別バージョンの人間史」については、勝手がちがった。

毎日が新発見の連続。

それが怒濤のごとく押し寄せた。

本を書くヒマさえなかった。

書いているうちに、謎解きはさらに先に進んでしまう。

つまり1日とて、(立ち止まる)ことができなかった。

 

●パクり

 

 当初から、パクりが始まった。

私が新しい発見をするたびに、それをパクる人が続出した。

中には、その翌日には、ブロッグ化(文章化)して発表する人がいた。

(今も、いる!)

 

 YOUTUBE動画を私は無料で、配信している。

だから多くの人は、パクるのも無料(ただ)と考えている・・・らしい。

あるいはそえだけ軽く見られているのかもしれない。

(パクる)という意識もないのかもしれない。

これは私の知らなかった世界である。

予想もしていなかった。

が、これほどまでにパクりが多いとは!

 

●老後

 

 こうした状況の上に、私の老後が重なった。

時間がないというより、体力、気力の衰えは、何ともしがたい。

つまりどうしようもない。

が、何より心配だったのは、知力の減退。

集中力が続かない。

 

 ・・・もっともこれは塾の仕事をしているときに、よく感じた。

2012年前後には、中学3年生の生徒にすら、負けるようなことが、ときどきあった。

数学の問題で、である。

自分の力の限界を感じ始めていた。

 

 老後の問題は、すべて不可逆的。

悪くなることはあっても、よくなることはない。

私はいつもそうだったが、そして今もそうだが、ある種の強迫観念から解放されることはなかった。

「急げ」「時間がない」と。

そうした思いは、結局は私の老後の問題と重なった。

わかりやすく言えば、私自身のボケ。

それが心配だった。

 

●神の仕事

 

 が、2016年に、豪雨事件と、『今、行くよ』事件が起きた。

考え方が一変した。

そして2018年に、勉強会での怪光事件が起きた。

考え方が、さらに一変した。

 

 私は自分のしていることを、「神の仕事」ととらえるようになった。

人間ではない。

神。

相手は、神。

 

 が、この私の意識に対して、ワイフがすかさず、ストップをかけてきた。

「あなた、そんなことを言ってはだめよ」と。

 

 理由を聞くと、「みんなが不愉快に思うわよ」と。

「あなたね、よく『人間なんか・・・』と言うでしょ。あれはやめたほうがいい。だって、あなたの動画を見てくれる人は、みんな人間なんだから」と。

 

私「だって、その通りだろ」

ワ「それがいけないのよ」

私「どうして?」

ワ「だって、人間をバカにしているでしょ」

私「バカにしている? だってバカだろ」

ワ「一般の人には、それがわからないのよ」

私「あのね、神の目から見れば、人間はみな、バカなんだよ」

ワ「だから、それがいけないのよ。そんなことを言うと、敵を作るだけよ」と。

 

●現実離れ

 

 申込者が3人なら、つまりふつうの人なら、会は開かない。

10人でも、開かない。

4年前には、いつも20人は集まった。

が、今は、3人。

 

 その私が、7月会を開く。

迷いはない。

楽しいとは思わないが、そのほうが気が楽。

が、こうした現実離れ的な発想は、どこから生まれるのか?

 

 ひとつには、このところ過負担感がある。

毎日、時間に追われる。

自分の時間がない。(ほしいとも思わないが・・・。)

家事もしなければならない。

運動もしなければならない。

日々雑多なことが、つぎからつぎへと起きてくる。

その中での謎解き。

動画づくり。

 

 今の私は限界状況の中で、綱渡りをしているようなもの。

そう、その「限界状況」を、このところ、私は強く感ずる。

それが私をして、「気が楽」と思わせる?

 

●新発見

 

 そういう中、新発見がつづいた。

そのひとつ、シャマーシュ(当初のキリスト)を殺したのは、マリアだった。

直接手をくだしたかどうかまではわからないが、イエスの死について、マリアが何らかの形で、かかわっていた。

 

 さらにそのイエスの死後、マルドックとカインが別々に、人間世界を指導していた。

わかりやすく言えば、「キリスト2人説」。

私たちが今、「イエス」と呼ぶ人は、2人、いる。

当初は、シャマーシュがイエスだった。

が、そのシャマーシュは処刑されてしまった。

で、そのあとの今。

今は、マルドックとカイン。

 

 ・・・キリストの謎を解いていくと、やがて矛盾にぶつかる。

で、私は、2方向から、キリストの謎を解いていた。

ひとつは、マルドックの側から。

マルドックを調べていくと、マルドックが「キリスト」ということになる。

 

 一方、カインを調べていくと、カインが、これまた「キリスト」ということになる。

ともに、キリスト。

が、マルドックとカインのつながりは、今ひとつはっきりしない。

そこで私は、デッドロックに乗り上げてしまった。

 

 マルドックは、神。

カインは、神によって創造されたアダムの子ども。

そのマルドックとカインが、別々?

同じ?

 

●助け船

 

 マルドックとカイン?

謎解きが行き詰まっているとき、ワイフがふと、横でこう助け船を出してくれた。

「別々の神じゃあ、ないの?」と。

が、このとき、謎が解けた。

 

 マルドックとカインは、別々の神だった!

そう考えると、今までの矛盾が、そのまま粉々になって宙に舞った。

同時に、いくつかに補強証拠が、つぎつぎと現れた。

 

●シャマーシュのフンババ

 

 決め手はフンババ。

フンババの彫刻を見ると、どこか猿のよう。

(ミケランジェロの「埋葬」、ミケランジェロが彫ったとされる「瀕死に奴隷」に表現されているのが、フンババ。)

大きくそり上がった鼻。

キバ(牙)。

 

 が、某大学のHPにはこうある。

『シャマーシュは、フンババを育てた』と。

 

 ここでシャマーシュという神と、フンババがつながった。

(「埋葬」の中のフンババも、「瀕死の奴隷」の中のフンババは、小柄。

「ジャイアント・フンババ」と言えるほど、巨人ではない。)

 

 が、「シャマーシュが育てたフンババ」ということになれば、小柄でもよい。

子どものフンババということになる。

フンババで、「埋葬」(イエスが処刑されたあとの様子)、「瀕死の奴隷」(処刑される前のイエス)が、つながった!

 

 (このあたりの話はわかりにくいと思うので、どうか動画のほうを見てほしい。)

 

https://www.youtube.com/watch?v=I_QohxCkw3U

 

●結論

 

 ともかくも、マルドックとカインは別人であった。(「別神」と書くべきか?)

つまりこうして私の謎解きは、続く。

今日も続く。 

 

 それが私の仕事。

同時に、私の生きがい。

また、それ以上に、私は何を望むのか?

望むことができるのか?

 

 言いかえると、「神の仕事」は楽しい。

その楽しさがあるから、神の仕事はやめられない。

だから今日もがんばる。

がんばることができる。

 

 動画作りの傍(かたわ)ら、私は今度のセミナーの準備を始めた。

 

(2019年7月27日記)

 

 

*************2019年7月28日、発表*********

 

【主神(マルドック)と救世主(カイン)】

 

●主神と救世主

 

 この1~2週間、ミケランジェロの謎解きにかかりきりになっている。

合間を見て、ほかの謎解きもしてみるが、あまり長続きしない。

が、こういうときは、迷う。

「自分の好きなことをするか」、それとも「話題を変えて、みなの希望に沿うか」と。

つまり視聴者の希望を、どこまで考慮するか、と。

 

 視聴者のみなさんあっての、動画作り。

それはよくわかっている。

みなさんのおかげで、ここまで来ることができた。

が、媚(こ)びを売るのは、私のやり方ではない。

一方、視聴者を、無視することもできない。

とは言っても、毎回、イエスの話だけでは、つまらない。

飽(あ)きられる。

 

 が、このところ、何をしていても、イエスの話に戻ってしまう。

 

●カイン

 

 ミケランジェロの作品に、『埋葬』(絵画)と、『瀕死の奴隷』(彫刻)がある。

この両者には、共通点がある。

 

(1)    胸に奇妙な帯がある。(両者、まったく同じ。)

(2)    奇妙な動物らしきものが、表現されている。(あとでフンババと判明。)

(3)    2人の人物のポーズがよく似ている。(ただし一方は他方の左右反転。)

(4)    ともに「未完の大作」と言われている。(未完成の部分がある。)

 

 が、それだけではない。

『埋葬』の中には、イエスのほかに、4人の人物が描かれている。

マリア、マグダラのマリア、天使(ガブリエル?)、それにヨハネ(?)。

その4人の目つきは冷たい。

マリアと判断した人物は、イエスを冷ややかに見下ろしている。

『埋葬』という題名だから、イエスはそのとき死んでいることになる。

が、イエスの体には、どこにも傷がない。

もちろん聖痕もない。

(だから「未完の大作」ということになっているのか・・・?)

 

 私は最初、ここがおかしいと思った。

と、同時に、ある美術評論家の英文の説明にはこうあった。

 

「ふつう、白抜きの部分には、下書きのスケッチが残っているものだが、そのスケッチがないのが、おかしい」と。

 

 『埋葬』の絵の中には、2カ所、白抜きの部分がある。

まったくの白抜きになっているが、下絵として残っているスケッチがない、と。

 

(これはダビンチの『東方三博士の礼拝』(未完の大作)、『セント・ジェローム』(未完の大作)、ミケランジェロのもう一枚の『聖母像』(未完の大作)にも共通している。

白抜きになっているだけで、ふつうならあるはずのスケッチ部がない。)

 

 が、私は、『埋葬』の中のイエスがあまりにも、美しいのが気になった。

加えて、実におだやかな顔をしている。

 

●検証

 

 が、検証そのものは、楽しかった。

私が予想したとおりに、(論理的には仮説を立てたとおり)に、スイスイと謎が解けた。

結論は、最初からわかっていた。・・・そんな感じだった。

 

(1)    イエスは処刑される前に、すでに死んでいた。

(2)    殺されたイエスは、シャマーシュだった。

(3)    イエスの処刑には、マリアがからんでいた。

 

 考えてみれば、これほどまでスケールの大きなサスペンスがあるだろうか。

マリアとイエス。

それ以上の登場人物は、人類史上においても、また地球規模で考えても、ない。

まさに壮大なドラマ。

壮大な死闘劇。

マリアがイエスの死に、何らかの形で関与していた。

 

 ・・・あとはそれをどう証明するか。

さらにはそれをどう動画化するか。

 

●特殊技術

 

 動画作りには、動画作り独特の、つまり動画作り独特の苦労というのがある。

作法、といってもよい。

 

一方、文章で書くというのは、動画作りと比べたら、薄っぺらい。

奥行きがない。

時間の流れもない。

視覚効果はない。

が、何よりも大きな違いは、「動き」がない。

 

 こうした違いを、どうつなげていくか。

もっとわかりやすく言えば、(文章的な思い)を、どう視覚的に表現していくか?

が、簡単なことではない。・・・簡単なことではなかった。

 

 あとで見直してみると、最初に意図した内容とは別のものになっていることがよくあった。

 

●経験

 

 が、今はちがう。

動画を作り始めると、かすかだが、結末を感ずる。

で、動画を作っていくと、その結末が見えてくる。

わかりやすく言えば、今は、ほとんどのばあい、思い通りの動画ができあがってくる。

が、それが楽しい。

気持ちよい。

 

 正確な本数はわからないが、YOUTUBEにアップした動画はすでに1万数千本になる。

この世界でも、経験がものをいう。

当初は1日がかりで、せいぜい一本の制作が限度だった。

が、今は、それが数時間で、できる。

 

●イエスの証明

 

 こうしてイエスの証明が、できた。・・・と思う。

正しくはないが、まちがってはいない、と思う。

7年前には、「神の謎を解くのは不可能」と考えていた。

「300年あっても、解けない」と思っていた。

が、それが7年で、解けた。

 

 イエスは、シャマーシュであった。

が、そのシャマーシュは、処刑され、殺されてしまう。

で、そのあと、マルドックが主神、カインがキリスト(救世主)となった。

一方、マリアはマリア教を主宰し、のちのローマン・カトリックへとつながっていく。

 

だから、(1)イエスの復活という話は、流れからしても、ありえない。

(2)ローマン・カトリックには、最初から今に至るまで、イエス・キリストなる神は存在しない。

 

 わかりやすく言えば、(マリア)と(イエス・キリスト)の対立は、太古の昔から、今の今もつづいているということ。

そして(イエス・キリスト)は、2人の神、マルドック(主神)とカイン(救世主)のことということになる。

 

 その証拠が、続々と出てきた。

ミケランジェロの『埋葬』(絵画)と『瀕死の奴隷』(彫刻)も、その中のひとつということになる。

 

●イスラム教

 

 今日(2019-8-3)までに、ブッダの謎とキリストの謎を解いた。

ほぼ解いた。

残るは、イスラム教の謎ということになる。

が、イスラム教のばあいは、神そのものがわからない。

一般には、ガブリエルと言われている。

が、ガブリエルとは、だれなのか?

あるいは、本当にガブリエルなのか?

 

 イスラム教においては、ムハンマドは、イエスと同じ「メッセッンジャー」ということになっている。

神ではない。

人間である。

つまり、ブッダやキリストとは、一線を画す。

 

●女性神

 

 そのガブリエルは一般には、女性神として表現される。

女性の神(あるいは天使)か?

 

 だいたい神は人間には、自らの名前を語ることはない。

神の名前は、人間が、人間側で勝手につけた名前である。

だから神の名前は、それぞれの地域で、それぞれの時代でみな異なる。

「イエス」にしても、当時のエルサレム周辺では、ごくありふれた名前だったという。

日本風にいえば、「ヒロシ」か「タロウ」。

神が、自らの名前を、「イエス」にするはずがない。

 

 ガブリエルにしても、またしかり。

が、流れからすると、マリアか?

 

 この地球(冥界・地獄)に残った女神は、消去法的に考えるなら、マリアしかいない。

が、どうしてマリアなのか?

マリア教(ローマン・カトリック)なるものは、すでにあった。

 

 となると、アナヒータか?

旧約聖書を聖書といている。

思想がエンキのそれと共通している。

あるいはニンフルサグの可能性もある。

 

 謎が深まる。

 

●聖徳太子

 

 気になる神がいる。

聖徳太子である。

聖徳太子とミトラには、不思議な共通点がある。

生まれたのが(馬屋)。

処女懐胎。

さらに聖徳太子とムハンマドは、ほぼ同じ時代の人物。

 

 こんな話も残っている。

 

 ムハンマドは、一夜にして、カーバとエルサレムを往復している。

天馬ブラークに乗っていったという。

一方、聖徳太子は、馬に乗ったまま、アメリカのデビルズ・タワーに行っている。

こうした共通点をどう理解するか?

 

 ・・・となると、ガブリエルはアナヒータということになるのか?

 

●仮説

 

 こうして一本の仮説が立った。

「イスラム教の神は、アナヒータである」と。

 

 あとはその証拠を探せばよい。

が、探すと言っても、私の頭の中。

1万数千本の動画が、私の頭の中にある。

その中から、探す。

やはり私の経験がものを言う。

 

 で、仮にこの仮説が正しいとして、次なる謎も生まれる。

アナヒータはミトラのバージン・マザー。

だったら、ミトラ教にすればよかった。

が、なぜかイスラム教はイスラム教、ミトラ教はミトラ教。

(もっとも7世紀にはミトラ教は、ローマン・カトリック教によって、「悪魔教」と位置づけられ、徹底的に弾圧されていた。)

 

 が、私の仮説は、まちがっていないと思う。

なぜなら、ゾロアスター教の礼拝の仕方と、イスラム教の礼拝の仕方は、似ているというより、酷似している。

 

 ゾロアスター教の主神は、そのアナヒータであった。

 

●アナヒータ

 

 アナヒータとマルドックの関係について言うなら、アナヒータは太陽の女神。

4頭立ての戦車に乗って天空を行き来していた。

マルドックとは比較にならないほど、上位の神であった。

が、そのアナヒータが処女解体で、マルドックをもうけた。

 

 が、この説には穴(欠陥)がある。

 

 マルドック、つまりミトラ(ギリシャ名:アポロ)は、そのアナヒータから生まれたということになっている。

つまり息子。

 

 ・・・複雑!

 

 神々の世界は、本当に複雑!

一筋縄ではいかない。

 

●謎解き

 

 こうして今日も、私の謎解きは続く。

明日も続く。

 

 が、楽しい。

ワクワク感は、今日の今日もある。

(かなり色あせてきたところもあるが・・・。)

 

 ともあれ、イエス・キリストの謎は、ほぼ解けた。

 

+++++++++++++++++++++++++++

 

今日、2019年の9月会の場所を申し込んだ。

JR岐阜駅前の会館で開くことにした。

一部屋だけ空いていた。

 

 2019年の4月14日に、セミナーを開いた会館である。

5人の人たちが、不思議な現象を目撃し、一部はスマホにも撮影された。

その会館である。

 

 申し込んだ後、電話で確認すると、今度も、同じ部屋だった。

これも何かの因縁か?

 

 2019年9月29日(日)、JR岐阜駅前「じゅうろくプラザ」、午後2時~4時まで。

(開始時刻が2時なのは、その時間帯しか部屋が空いていなかったことによる。)

 

+++++++++++++++++++++++++++

 

●8月4日、後記

 

 今日も暑かった。

ときどき書斎を出て、台所へ行くのだが、そのつどドカッとした熱気を感じた。

が、私は子どものころから、暑さには慣れている。

実家は、田舎町だが、商店街の中にあった。

風通しは悪い。

2面が、アスファルトの道路に囲まれている。

そういう環境で育った。

 

 が、それでも30度を超える日は、それほど多くはなかった。

つづいても、1~2週間。

昔の夏は、短かった。

盆の8月15日を過ぎると、冷たい川風が吹いた。

 

 ・・・そんなことを思い出しながら、台所に座って、暑さに耐える。

扇風機を「強」にする。

ところでみなさんは、ご存じかもしれないが、サトイモとウコン。

その巨大な葉が、庭の畑の何分の一かを、覆っている。

巨大!

 

 今年、友人のI氏が、勝手にもってきて、勝手に植えつけておいてくれた。

それが巨大になった。

そのサトイモとウコンの葉が、乾いた夏風の中で、さわさわと揺れている。

「夏だなあ」と。

そう思う。

 

 そして鼻歌。

 

『・・・麦わら帽子はもう消えた

たんぼの蛙ももう消えた

それでも待っている夏休み・・・・」

 

 いい歌ですね。

 

 ではみなさん、ありがとう!

今月も、よろしくお願いします。

 

(2019年8月4日)

 

**************2019年8月4日発表*************

 

【ひとつの発見】

 

●ライオン・キング

 

 昨夜(2019-08-09)、ディズニーの『ライオン・キング』を見てきた。

映像技術がすばらしかった。

圧倒された。

「ここまでやるか!」と驚いた。

いろいろな映画を見てきたが、ライオン・キングは群を抜いている。

が、同時に、こうも思った。

「ますます日本映画は衰退するだろうな」と。

 

 映画の前に、何本か予告編を見た。

T映画会社も必死なのだろう。

邦画の紹介をしていた。

が、どれも見るに堪(た)えない。

わかりやすく言えば、へたくそ!

どの役者も、演技、演技といった感じ。

心から演じていない。

心が入っていない。

(酷評して、ごめん!)

 

 少し前、戦争映画の予告編(邦画)を見た。

第二次大戦中の映画。

その中で、ある女優は、ノルディック(白人)のような化粧をしていた。

(戦時中の日本人は化粧など、しなかったぞ!)

歩き方も、ぎこちない。

不自然。

その不自然さが、私を映画から遠ざけてしまう。

なぜか?

 

●「Drama」という科目

 

 英語国には、中学生から、ドラマ(演技)という科目が選択できる。

が、日本にはそれがない。

音楽や美術と並んで、重要な科目になっている。

さらに進んで大学には、演劇学部というのがある。

2000年に入ってから、日本の大学でも、それが始まった。

が、時、すでに遅し。

オーストラリアでは、すでに、1970年にはあった。

遅れること、30~50年。

 

 で、日本には、「劇団」というのがある。

あの声を張り上げて、わざとらしい演技を繰り返す、劇団である。

私はそれはそれとして、その存在感は認める。

が、その演技が、映画の中でも、出てくる。

出てきたとたん、興がさめる。

先にも書いたが、自然ぽさがない。

 

 映画で、何よりも重要なことは、自然ぽさではないのか。

20近く前、コロンボ警部で有名な、ピーター・フォークがニューヨークの大学で演技指導をしていた。

その中で、ピーター・フォークは、こう言っていた。

 

「自然に演技せよ」「自然に演技せよ」と。

映画は、その一言に尽きる。

 

 『ライオン・キング』はCGアニメだが、その自然ぽさが、自然に表現されていた。

その自然ぽさがないと、観客は感情移入する前に、映画からはじき飛ばされてしまう。

(映画の酷評は、ここまで。)

 

 映画を見ながら、別の脳みそで、私はそんなことを考えていた。

 

●エジプト神話

 

 ライオン・キングの筋書きと、エジプト神話の筋書きが同じ。

そのため、当初は、こう考えていた。

ライオン・キングはエジプト神話を土台にして作られたのではないか、と。

が、こんなことに気づいた。

 

 エジプトには、『ホルスの目』と呼ばれる目がある。

ホルスというのは、オシリス(父親)とイシス(母親)の息子。

が、オシリスは、ホルスから見て、叔父のイシスに殺される。

で、ホルスはいったんは王家から離れるが、やがて復帰。

叔父を殺し、復讐を果たす。

そしてエジプトの王となる。

 

 ライオン・キングの筋書きは、これとまったく同じ。

 

●第二地帯

 

 古代、神々の世界では、エジプトは、第二地帯(エンキの管轄地)と位置づけられていた。

(これに対して、第三地帯は、インダス・バリー周辺。イナンナの管轄地。)

そのエジプトは、ピラミッド戦争なるものを繰り返す(ゼカリア・シッチン説)。

一時は、あのエンキも、ピラミッドに投獄されたという。

(ピラミッドは神々を閉じ込めておくための牢獄?)

 

 そのためエジプトの神話が、シュメールの古代神々の系図と一致していたとしても、何らおかしくない。

(同時に日本の神話が、シュメールの古代神話の系図と一致してとしても、何らおかしくない。)

 

 考えなおしてみれば、当然のこと。

つまりエジプト神話は、シュメール神話の別バージョン。

すなおに考えれば、そうなる。

このちっぽけな地球に、神々が何種類もいるわけがない。

神々の物語が、何種類もあるわけがない。

言い換えると、エジプト神話をていねいに解読すれば、シュメールの神々の系図がわかる。

(同じように日本の神話をていねいに解読すれば、シュメールの神々の系図がわかる。

反対に、日本の神々の系図がわかる。)

 

●ホルスの目

 

 ホルスの目。

マルドックの目。

ともに、片目。

右目。

 

 偶然の一致ではありえない。

・・・ということで、神々の世界が、つながった。

点と点が線でつながった。

 

 となると、ひとつ、大きな疑問が生まれる。

ギリシア彫刻の、あのミトラ像である。

どの像も、ミトラが雄牛にまたがり、雄牛の首に短剣を突き刺している。

言い換えると、息子のミトラが、父親以上の父親のエンキの首に短剣を突き刺している。

私の常識からすれば、ありえない。

ありえないことが、起きた。

 

 もっともこうした事実がわかったのは、最近のこと。

またそれを発見したのも、私、はやし浩司。

「片目のマルドック」説も、そのひとつ。

わかったからこそ、「ありえないこと」ということになる。

(今までは、そうした(事実)すら知り得なかったのだから、「おかしい」とも思わなかったのだろう。)

 

●発想の逆転

 

 そこで発想を逆転させる。

私はそうした。

つまり「短剣を突き刺している」のではなく、ミトラは「短剣を抜いている」と。

書き忘れたが、雄牛は、エンキそのもの。

代名詞ではない。

エンキそのもの。

 

 そのエンキから、短剣を抜いている。

もっとわかりやすく言えば、ミトラはエンキの命を救った。

 

●ミトラの表情

 

 その証拠に、ミトラの表情を見たらよい。

雄牛にまたがっているミトラは、気高く、気品があり、穏やかで落ち着いている(ギリシヤ彫刻)。

とても、雄牛を殺している表情には見えない。

いわんや、父親をや!

 

 繰り返すが、ミトラは父親を救っている!

父親を殺してはいない!

 

 ・・・というように、今日は謎解きがはずんだ。

楽しかった。

 

*************2019年8月10日記****************

 

【2019-08-17】

 

●猜疑心(さいぎしん)

 

 私は子どものころから、疑い深かった。

人を信じなかった。

いつもその人の、心の裏を見た。

 

 が、その分だけ、私は孤独だった。

さみしかった。

いつもひとりぼっちだった。

 

 見た目には派手な性格で、人づきあいもよかった。

笑わせ上手で、だれとでもすぐ友だちになれた。

が、そこまで。

いつも表面的。

心までは許さなかった。

 

●原因

 

 原因は、よくわかっている。

理由もよくわかっている。

が、それがわかったのは、私の仕事が、そうだったから。

 

私は40年以上も、幼児を相手に、仕事をしてきた。

そういう経験が、自分を知る手がかりとなった。

 

 端的に言えば、幼児期の「基本的信頼関係の構築」に失敗した。

わかりやすく言えば、母子関係の不全。

家庭が家庭として機能していなかった。

 

 戦後の混乱期ということもあった。

やがて父は、酒に溺れるようになり、たいていは夕方になると暴れた。

ふだんは学者肌の静かな父親だったが、酒が入ると、人が変わった。

私が4~7歳のころのことで、私は数日おきに、父の姿におびえた。

 

 が、ここで何も、私の家庭環境について書くつもりはない。

私が書きたいことは、私の猜疑心は、そういう家庭環境から生まれたということ。

わかりやすく言えば、私は家族にさえ、全幅に心を開くことができなかった。

もっとわかりやすく言えば、家族ですら、信ずることができなかった。

 

●信ずる

 

 「信ずる」ということは、「疑わない」こと。

が、それだけでは「信ずる」の意味を、定義することはできない。

「疑わない」ということは、いうなれば「無」をいう。

「疑わない」という意識もないまま、相手を受け入れる・・・それが「信ずる」ということ。

「疑わない」と意識したとたん、実はその相手を疑っていることになる。

 

●勉強会

 

 勉強会の席で、怪光現象が起きた。

2018年の7月(浜松会)

2018年の8月(熱海会)

そして2019年4月14日。

 

 が、奇妙なことに、私自身はそれを見ていない。

まったく気づかなかった。

2018年の7月には、会を始めて10分前後のとき、赤い怪光が2つ天井から下りてきて、私の左肩の上で消えた(MKさんの証言)。

まぶしいばかりの光だったという。

 

 が、私は気がつかなかった。

 

 つづいて2018年の8月にも、同じような怪光事件が起きた。

が、決定的だったのは、2019年の4月14日。

日曜日。

私のワイフが、それを目撃した。

やはりまぶしいばかりの光だったという。

私の背中側だが、スクリーンの上端あたりを、向かって左から右へ移動した。

かなり速いスピードだったというが、しっかりと目で追いかけられる速さだったという。

が、その光にしても、私はもちろん会場にいた、ほかのだれも気づかなかった。

 

●光の質

 

 これについては、私はこう考える。

「光の質、そのものが違うのではないか」と。

 

 つまり人間が使う光は、発光体そのものが光り、その光がものに乱反射して、明るさを出す。

が、神の使う光は、発光体そのものは光らない。

直進性があって、その発光体がめがけた相手だけが、その光をとらえることができる。

 

 同じような光が、英国で起きた『レンデルシャムの森・UFO遭遇事件』でも、目撃されている(?)。

証言者の言葉をつなぎあわせると、こうだ。

 

UFO自体は、まぶしく輝いていた。が、その下の地面は暗いままだった」と。

つまりふつうなら、UFOの光は、当然地面にも反射して、その地面が明るくなるはずだが、それがなかった、と。

 

 人間には、まだ未知の光ということになる。

 

●動画

 

 2019年4月14日に起きた怪光事件のときは、スマホにそれが撮影されていた!

つまり怪光の物的証拠が、手に入ったということになる。

が、ここからが、私。

私の話。

 

 こんなことを書くと驚く人も多いかと思うが、何と、その怪光を疑っているのが、この私自身ということになる。

つまりこの私が、信じていない。

「本当に、怪光だったのか?」と。

「何か、別の光が反射して、写り込んだのではないか」とも。

 

いつもそうだが、私という人間は、どこかひねくれている。

ものごとを何でも否定したがる。

(一方、何でもないできごとを、誇大妄想的にふくらませてしまう人も多いが・・・。)

 

だから、あらゆる可能性を考え、考えながら、自分自身を否定していく。

 

 ・・・と書くと、こう反論する人がいるかもしれない。

「だって、あなたは動画まで発表して、他人には信じなさい」と言っているではないか、と。

 

 が、ちょっと待ってほしい。

 

 私はいまだかって、一度も、「信じてほしい」などとは言った記憶がない。

「信じたければ信じればいい」「信じたくなければ信じなくてもいい」と。

その点、私はサバサバいている。

信じてもらったところで、どうということはない。

信じてもらえなかったところで、これまたどうということはない。

 

この基本的なスタンス(姿勢)は、この7年間、まったく変わっていない。

言い換えると、私はそういう動画を発表しながらも、心のどこかでいつも自分と闘っている。

私は私自身に向かって、いつもこう叫んでいる。

「浩司、信じろ」「もう信じろ」「もう疑うな」と。

 

 が、私には、どうしてもそれができない。

心が開けない。

怪光が写り込んだ動画を見ながらも、「ああ、そんなことがあったのか」と思ったが、そこまで。

それ以上、自分の魂の中にまでは、入ってこない。

心のどこかで、たぶん心の中の遠い世界で、いつも自分がこう叫んでいる。

「そんなことはありえない。本気にしてはだめだ」と。

 

 私という人間は、いつも、こうだ。

 

●2018年4月25日

 

 2018年4月25日の朝、午前9時ごろから、あのパーティ事件が起きた。

それが1時間もつづいた。

その事件が起きたときも、私はその事件を信じなかった。

「夢だった」「幻聴だった」「幻覚だった」と。

懸命に否定した。

上の人が、そして神が、私の横にいた。

1時間近くも、私の横にいた。

 

 が、その話をワイフに詳しく話すと、ワイフはこう言った。

「あなた、それね、上の人があなたを励ましに来てくれたのよ」と。

私はその前日、まさに死線をさまよった。

その翌日の朝のことだった。

それがあのパーティ事件だった。

 

 が、その事件にしても、私は自分で自分を即座に否定した。

「そんなことはありえない」と。

が、その一方で、自分の脳みその中を何度も何度も、見直した。

「正常か、正常でないか」と。

 

 ・・・繰り返す。

私は、そう、子どものころからそういう人間だった。

心のさみしい人間だった。

 

●怪光事件

 

 怪光事件に話をもどす。

 

 怪光事件は確かにあった。

述べ11人の人たちが、それを直接目撃した。

その中には、私のワイフも含まれる。

 

 が、おかしなことだが、ほかの人はともかくも、私はワイフの話だけはすなおに信ずることができる。

ワイフは、先にも書いたように、その怪光を目撃している(4月14日)。

 

私「本当に見たのか」

ワ「見たわよ」

私「ふ~~ん」と。

 

 ワイフの言葉だけは、ストンと私の心の中に入ってくる。

が、ほかの人の話は、そうはいかない。

その間にはいつも壁がある。

少なくとも2016年の(大豪雨事件)以前の私が、今の今も、私の中に同居している。

その私が、壁を作る。

2016年以前の私なら、即座にこう言っただろう。

「そんなバカなことが、あるものか!」と。

 

 2016年以前の私は、ガチガチの合理主義者。

理屈人間。

思考回路は理科系。

 

●目的

 

 なぜあの怪光事件が起きたか。

実は、その理由を、私は知っている。

私が死線をさまよった事件と、深く関係している。

2018年7月の第1回目の怪光事件の直後に、それがわかった。

が、それに2つの相反した考え方が、私の心の中で揺れ動いた。

 

「私のためだったのか」「それとも警告、あるいは罰を与えるためだったのか」と。

 

 ワイフは、そのつどいつもこう言う。

「あなたのためよ。わかりきったことよ」と。

 

 が、私にはそれが信じられない。

だからこんな会話が、繰り返し、繰り返し、つづく。

「ぼくため?」

「そうよ、あなたのためよ」

「そんなはずはない」と。

 

●2019年8月15日

 

 詳しくは書けないが、あることが起きた(ごめん!)

2019年の8月15日。

そのあることが起きたとき、私の心の底に穴があいた。

ストンと、穴があいたような感じだった。

その瞬間、同時に心の重しが取り除かれたように感じた。

 

 ・・・私はその瞬間、神の存在を感じた。

「信ずる」とか「疑わない」という時限を超えた、純粋、無色無臭の世界。

クリスタルで、透明な世界。

静寂とやすらぎの世界。

穏やかで、やさしさに包まれた世界。

そこにある世界が、今まで見ていた世界とは別の世界に見えた。

あとでワイフに、「急に世界が明るくなったように感じた」と話したが、実際、そんな印象をもった。

 

●変化

 

 人というのは、自分が変化して、それまでの自分が見えてくるものか。

が、変化するまで、それが見えない。

今回も、そうだ。

ストンと心に穴があいてはじめて、それまでの自分が、その向こうに見えてきた。

猜疑心が強く、心の閉ざされた自分。

それが見えてきた。

 

●帰依?

 

 心が軽かった。

不思議なほど、軽かった。

そこは恨みも、憎しみもない世界。

怒りも、迷いもない世界。

どこまでおだやかで、澄んでいた。

 

 ワイフとそのあと食事をしながら、こんな会話をした。

 

私「ぼくね、生まれてはじめて、心を開くことができたよ」

ワ「・・・そう」

私「ぼくね、生まれてはじめて、人を信ずることができるようになったよ」

ワ「人って?」

私「上の人だよ。上の人だよ。上の人は、ぼくを守ってくれたよ。そしてね、今の今も、ぼくを見守ってくれているよ」

ワ「だから、私もいつも、そう言っているでしょ。あなたは上の人に守られているわよ。横で見ていると、それがわかるわよ」

私「うん、それがぼくにもわかった。・・・わかる」と。

 

●上の人

 

 上の人はいる。

そこにいる。

いつもいる。

いつも私の近くにいて、私を見守ってくれている。

確信とか、そういうことではなく、また実感とか、そういうことではない。

私自身と一体となって、そこにいる。

 

その神が、穏やかでやさしく、温もりのある空気で包んでくれている。

それがわかった。

同時に、そこにいる私は、汚れをしらない幼児のまま。

あのいつもの猜疑心はどこにもなかった。

あるはずの猜疑心は、どこにもなかった。

そこにいる神の存在を、そのまま素直に私は受け入れていた。

 

私「神はいるね」

ワ「わかりきったことでしょ」

私「でもね、今日、ぼくは生まれてはじめて、人を信ずることができたよ」

ワ「私の言葉は信じていなかったの?」

私「うん、信じていなかった」

ワ「かわいそうな人ね」

私「だって、それはぼくの問題だよ。お前が怪光を見たという話とは、わけがちがう」

ワ「そうねえ」

私「今まで、何度もお前にそう言われたけれど、今日はじめて、その意味がわかったよ」

ワ「・・・」

私「ぼくって、かわいそうな人間だったんだね」と。

 

●仕事

 

 私はたしかに「仕事」を与えられている。

今の動画づくりが、その仕事ということになる。

が、同時に「与えられている」というよりは、「自分で楽しんでしている」とも思う。

私は私。

私はいつも、自分で考え、そして「仕事」をしている。

 

 が、それは私だけに限らない。

この世の中で、無数の人が、それぞれの「仕事」をしている。

・・・してきた。

 

 その結果が「現在」ということになる。

つまりそういう「仕事」が集合化して、現在につながっている。

ある人は、無意識のまま。

またある人は、それを意識しながら。

真・善・美の追求は、まさに「神の仕事」。

私がしている仕事は、そのうちのほんの一部でしかない。

が、そんな仕事でも、これほどまでに楽しい。

 

 無私、無欲?

 

 ・・・というより、私の心を支配しているのは、上の人。

神。

人間世界のことは、ほとんど気にならない。

それはたとえて言うなら、猿ヶ島に住む、猿の世界で絵を描いている画家のようなもの。

猿たちの評価など、気にしない。

気にしても、意味がない。

 

 ああ、私は新しい謎が解けるたびに、天に向かってこうつぶやく。

「また、新しい謎を解きましたよ。どうですか?」と。

実際には、もっと汚い言葉で、そうつぶやく。

 

●使命

 

 新しい使命感が生まれた。

まだ生まれたばかりなので、この先のことはわからない。

が、今は、こう思う。

 

 この希望を、みなと共有したい、と。

 

 まさに希望。

絶対的な真・善・美がそこにある。

あると思うこと自体が、希望。

その希望を、みなと、共有したい。

 

 ・・・ともあれ、あとはそれを証明するだけ。

神の存在を証明するだけ。

あとは、みなが、私が歩んだ道を歩んでくれる・・・はず。

みなも、それに気づいてくれるはず。

 

「神はいる」と。

 

 それをするのが、私の仕事。

あとのことは、あとの人たちに任せればよい。

俗な言い方かもしれないが、私の知ったことではない。

それぞれの人が、それぞれの幸福の追求をすればよい。

というのも、いくら私ががんばっても、(まただれががんばっても)、私は私。

人は人。

それぞれの人が、神とのパイプを育てればよい。

つながりをもてばよい。

言い換えると、私の仕事はそこまで。

だからあのガンジーは、こう言った。

 

『神には宗教はないんだよ(God has no religion.)』と。

 

 みなが、神との一対一の対話を始めたとき、人間は変わる。

世の中は変わる。

それこそ、世界中が温かい陽光に包まれる。

 

(2019年8月18日、記)

 

 

*************以上、2019年8月18日発表*********

 

【もうすぐ2019年、8月も終わり】

 

●現在

 

 現在は、8月21日、水曜日。

時刻は午前5時24分。

時計を見ながら、この原稿を書き始める。

 

 台所で山の水音が聞こえる。

山の水は、常時、出しっ放し。

一度、庭先でホースにつなぎ、そのホースを窓から台所へ引っ張っている。

その水が、出しっ放し。

新鮮な山の湧き水。

先ほど、その水を飲んだ。

コップに注いで、飲んだ。

おいしかった。

 

●水

 

 このところ水の出は、悪くない。

というか、水では苦労をしている。

少し前、近所の人がこう言った。

「2週間おきに、清掃に行っていますよ」と。

 

 「2週間!」と、私は驚いた。

私「うちなんか、3~4か月ごとです」と。

 

 つまり近所のその人は、水源地の清掃を2週間おきにしている、と。

つまりそれくらい、山の水は、難しい。

管理がたいへん。

少し雨が降ると、取水口がこまかい砂利で塞(ふさ)がれる。

 

 ああ、今、思い出した。

昔、パキスタン人のアーマド君がこう言った(1970年)。

「ヒロシ、イン・パ紛争の本当の理由は、水だよ。カシミールの水だよ」と。

 

 インドとパキスタンは、源泉の水を取り合って、今の今も、紛争をつづけている。

川をはさんで、二重、三重のフェンスを作り、領有権を争っている。

つまり、「水」の問題は、それほどまでに深刻ということ。

「蛇口をひねれば水が出る」「その水をを飲むことができる」というのは、この日本の話。

日本だけの話。

 






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最終更新日  2024年09月24日 04時50分17秒



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