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別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

別ヴァージョンの人間史 by はやし浩司

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2024年09月27日
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●イエスの妻

 

  私はこのルカ書を呼んだとき、ピンと来た。

男の直感である。

イエスは、マリアをかばった。

一方、マリアはイエスに、傾注していた。

つまりイエスに妻がいたとするなら、このマリアしかいない、と。

ベタニアのマリア。

そのマリアこそが、イエスの妻!

 

 言いかえると、新約聖書に出てくる「マリア」は、ベタニアのマリア。

マグダラのマリアではない。

(注:中世までは、マグダラのマリアは、ベタニアのマリアと同一視されていたという。)

 

 ほかに女性名の信者の話はない。

消去法で考えても、イエスの妻は、ベタニアのマリアということになる。

 

●マグダラのマリア

 

 姦淫の罪で、群衆に囲まれていたマリアは、イエスによって助け出される。

『汝らの中で、罪なき者、最初に石を打て』とイエスは言った。

その言葉で、群衆はひとりひとり、その場を去った。

マリアは助けられた。

 

No Sin, any more(あなたの罪は消えた)」と。

 

 この女性が、マグダラのマリアということになる。

が、私が想像したマグダラのマリアは、どこかうらぶれた女性だった。

事実、ドナッテロという彫刻家は、『マグダラのマリア』像を彫刻しているが、そこに表現されているマリアは、かなり崩れている。

イエスの妻、あるいはイエスの元妻としては、どうも違和感がある。

少なくとも、若くて、清楚な女性ではない。

 

 で、なぜ私が、ここでドナテロの『マグダラのマリア』を取り上げたかについては、理由がある。

 

 ドナテロとレオナルド(ダビンチ)は、不思議な類似点でつながっている。

たとえば名前にしても、(ド)(ナ)(テロ)と、(レオ)(ナ)(ルド)は、アナグラムになっている、など。

(注:Donatello←→Leonardo)

ドナテロも、1500年後のカイン・キリストの指導を受けていた?

 

 そのドナテロが、『マグダラのマリア』を表現していた。

そのマリアは、どこからどう見ても、イエスの妻のイメージではない!

 

●『最後の晩餐』

 

 で、レオナルドは、『最後の晩餐』の絵を描いている。

私は、その絵を、『イエスの婚礼の絵』であると判断した。

イエスと、ベタニアのマリア。

その婚礼の絵である。

 

 だいたい晩餐(Supper)なのに、窓の外の景色がおかしい。

そこには、青い空とさんさんと輝く白い陽光が描かれている。

「晩餐」というのは、「晩餐」。

日没後、暗くなってからするのが、「晩餐」。

 

 これについては、最初、私のワイフがこう言った。

「なぜ、ローソクがないのかしら?」と。

その一言でその『最後の晩餐』の謎が解けた。

 

 (詳しくは動画の方で説明しているので、どうか、そちらを見てほしい。)

 

https://www.youtube.com/watch?v=JfOjXeCU4UI&feature=youtu.be

 

 ・・・こうして、つぎつぎと謎が解けていった。

 

●謎のピエタ像

 

 ここで登場するのが、ミケランジェロのピエタ像ということになる。

ミケランジェロは、若干20数歳にして、サン・ピエトロのピエタ像を発表している。

あとにも先にも、そして世界でも、最高傑作と言われている像である。

で、そのピエタ像について、一般では、聖母マリア(Mother Mary)と、十字架で処刑されたイエスを表現したものだと言われている。

 

 が、本当にそうだろうか?

 

 そのピエタ像に表現されているマリアの顔を見てほしい。

そのマリアは、どこからどうみても、イエスの母親のようには見えない。

もしイエスの母親なら、その当時50歳前後でなければならない。

が、そこに表現されているマリアは、20~30歳。

50歳には見えない。

 

 この謎を解く第一の仮説は、そこに描かれているのは、ベタニアのマリアと、シャマーシュ・イエスと考えることである。

 

 今までに書いてきたことを、まとめる。

 

(1)    当初、キリスト教の原型は、イナンア・マリアと、シャマーシュ・イエスによって立ち上げられた。

間に立ったのは、ヘイレル(エンキ)、つまり別名、プロメテウス、そしてルシファー。(証拠は、「HIS」という歴代ローマ教皇の紋章。)

 

(2)    が、そのヘイレル(エンキ)は、エンリルの息子でもあり、イナンナ・マリアの父親のネルガルによって殺される。(証拠は、ギリシア彫刻の『ミトラ像』。

 

(3)    シャマーシュ・イエスは、ベタニアのマリアと知りあいになり、結婚する。(証拠は、『イエスの妻の福音書』)。

 

(4)    シャマーシュ・イエスは、ミトラ教に寝返る。(証拠は、絵画『埋葬』。)

 

(5)    それを知ったイナンナ・マリア、バプティストのヨハネと、ユダと手を組んで、シャマーシュ・イエスを殺害する。(証拠は、絵画『埋葬』、彫刻『瀕死の奴隷』と『反抗的な奴隷』)。

 

(6)    十字架にかけられたのは、替え玉のイエスということになる。(証拠はミケランジェロの彫刻、『ピエタ像』)。

 

ミケランジェロのピエタ像のマリアは、イナンナ・マリア(=Mother Mary)ではなく、シャマーシュ・イエスの妻の、ベタニアのマリアということになる。

つまりこれならつじつまが合う。

ピエタ像のマリアは若い。

 

 が、ここでひとつの矛盾にぶつかる。

ピエタ像のイエスには、聖痕がある。

そのイエスが、シャマーシュ・イエスだとするなら、聖痕などあるはずがない。

なぜならシャマーシュ・イエスは、十字架で処刑される前に、すでに殺されてる。

 

 そこで調べてみると、(1)ピエタ像のイエスの聖痕は、きわめて小さく、三角形になっている。

鋭角に彫り込まれ、それに貧弱。

 

以前から、なぜ小さいかについて、学者の間でいろいろ問題になっていたという。

で、私のほうで調べてみると、他のピエタ像には、聖痕がないことがわかった。

生涯、ミケランジェロは、ピエタ像を4体、彫刻している。

つまりサン・ピエトロのピエタ像を除いて、他の3体には、聖痕がない。

 

 つまりサンピエトロの『ピエタ像』の聖痕は、あとから、だれかがつじつま合わせのため、だれかが彫り込んだ!

 

●聖母子像

 

 ミケランジェロは『ピエタ像』を彫った後、つづいて『聖母子像』を彫刻している。

で、この両者を比べてみると、『ピエタ像』に表現されているマリア像と、『聖母子像』に表現されているマリア像は、顔が同じ。

まったく同じ。

 

 となると、『ピエタ像』のマリアが、ベタニアのマリアであるとするなら、『聖母子像』のマリアも、ベタニアのマリアであるということになる。

ともに若い。

 

となると、つぎの謎。

『聖母子像』の中に表現されている、子どもは、誰かということになる。

年齢的には、3歳前後?

 

●ジェイムズ・キャメロン

 

 ここで登場するのが、ジェームズ・キャメロンということになる。

映画『タイタニック』の監督である。

そのジェームズ・キャメロンは、2013年に、ドキュメンタリー映画を発表している。

そのドキュメンタリー映画の中で、つぎのことを明確にしている。

 

 何でもイスラエルで、イエスの骨棺、マリアの骨棺、そして子どもの骨棺が見つかったという。

詳しくは、動画にて発表した。

 

327001新重】The Tragedy of Maria of Bethany, Wife of Jesus +Jesu had his Son

イエスの妻のベタニアのマリアとその悲劇+イエスには妻と、ユダという名前の息子がいた。

 

https://www.youtube.com/watch?v=WtAQV6Mcwv8&feature=youtu.be

 

                

02        327002新追補】Jesus had his Wife and His Son, Judah 

イエスには妻と「ユダ」という名前の息子がいた+証拠と証明

 

https://www.youtube.com/watch?v=7SD_-qpEP_8&feature=youtu.be

 

                

03        327003再補】A Rebellious Slave = Shamash Jesus

反抗する奴隷とは誰のことか?反抗する奴隷=シャマーシュ・イエス説

 

https://www.youtube.com/watch?v=xqdWQX7zx8I&feature=youtu.be

 

 そしてここが重要だが、その息子の名前が、「ユダ」だった!

 

●自分の息子の名前を「ユダ」としたベタニアのマリア

 

 ここからは、どうか私の動画を見てほしい。

文章では伝えることのできない、私の思いを、その動画の中に織り込んだ。

ベタニアのマリアの思いを、この動画を通して伝われば、うれしい。

 

https://youtu.be/OkctjxbuSRY

 

 この動画は、私のビデオ日誌の中でも、イエスの謎を解くという意味においても、最重要の動画ということになる。

イエスの謎の総集編ということになる。

 

 

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●虚と実のはざまで

 

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●基準

 

 自分を基準にして、ものを考えてはいけない。

そういうのを、自己中心性という。

が、自分の経験を基準にして、ものを考えることは、まちがっていない・・・と思う。

「経験」は、「事実」だし、より自分を客観的に見ることができればできるほど、事実は「真実」となる。

 

 そういう経験を原点に置くと、その反射的効果として、ウソがウソとわかるようになる。

簡単にわかるようになる。

 

●妄想家

 

 この世界、あまりにもわかりにくい。

虚と実の境目が、はっきりしない。

たとえば、妄想。

妄想家。

 

この世界には、ETUFOの世界には、妄想家と呼ばれる人がいる。

空想が空想という領域を超え、その空想の世界に住んでしまう人たちである。

英語では、「空中の楼閣」という。

そういう世界に住んでしまう人たちである。

つまりその分だけ、現実感を喪失してしまう。

 

 いろいろな経験をした。

 

(1)    パクリ妄想

 

 最初に気づいたのは、ある男性からの投稿だった。

2017年になってからのことだった。

私が『今、行くよ』事件を経験してからのこと。

その断片を、他人に話すようになってからのこと。

福岡県に住む男性だった。

その男性は、こう書いてきた。

 

「私もV字型UFOを見ました」と。

 

 「仕事の帰りでしたが、『こちらを見て』という言葉が聞こえてきました。

で、何だろうと思って、空を見あげると、夜空にV字型UFOが、浮かんでいました」と。

 

 私はそのコメントに、強い衝撃を受けた。

私の経験と、あまりにも酷似していた。

で、その翌日の夜、電話した。

しばらく話をしたが、そのうち言いようのない奇異感を覚えた。

その男性は、こう言った。

 

「私は、尾羽のないカラスだと思いました」(私は、「頭のないカラスだ」と思った。)

「目にしみるような黒でした」(私は「この世のものとは思われない黒」と思った。)

「いろいろなことを同時に考えました」(私はそのとき、無数の思いがどっと浮かんできた。)

「スマホで写真を撮りませんでした」(私はカメラのことは忘れていた。)

 

 その男性は、私がどこかで話したことを、そっくりそのまま繰り返した。

で、最初は、「私がした経験と同じ経験をしたのだな」と思った。

が、そのうち、つまり10分も話さないうちに、不気味さを覚えるようになった。

その男性は、電話が終わるころには、こう言い始めた。

「前世で、私とあなたは、同じ世界に住んでいました」と。

 

UFOキャッチャー

 

 この世界には、「UFOキャッチャー」と呼ばれる人たちがいる。

何でも空に向かって、呪文などを唱えると、UFOが現れるという。

UFOが飛ぶときに発する音をまねるという人もいる。

以前は、バラエティ番組などで、よく紹介されていた。

 

 が、この話はどう考えてもおかしい。

その第一、(上の人)は、そんな無意味なことはしない。

無駄なことはしない。

私が知る限り、しない。

しても意味がない。

その前後に、こんなことがあった。

 

 30年来の知人だが、その当時は2~3か月ごとに連絡を取りあっていた。

メールを交換したり、時々、電話をかけあっていた。

で、そのつど知人の妻が電話口に出て、こう言った。

「林さん、うちへも寄ってください。こちらへおいでになることもあるでしょう」と。

 

 実は、その当時はきちんと年賀状を交換していた。

その年賀状にも、そう書いてあった。

毎年、そう書いてあった。

「こちらへおいでの際には、ぜひうちへおいでください」と。

 

 で、ある日のこと。

検証旅行をかねて、知人の住んでいるところの近くに行くことになった。

近くのホテルにも予約した。

わざわざそのホテルにした。

歩いて、10分もかからない距離?、だった。

 

 で、そのあと、その知人宅に電話した。

「今度、そちらのほうへ行きますので、ホテルでいっしょに食事でもしませんか」と。

が、知人の妻の返事は意外なものだった。

 

「えっ、あさってですか? あさっては・・・。あまりにも急ですね・・・などなど」と。

そして最後はこう言った。

「今度、こちらへおいでになるようなときは、せめて一週間ほど前に連絡してくださいね」と。

 

 誤解しないでほしい。

けっしてその知人の悪口を書いているのではない。

 

 ・・・それはそのあとわかったことだが、その知人の住む地方では、そういう言い方を、つまりはあいさつ代わりにするらしい。

「うちへ寄ってください」と。

つまり(あいさつ)は(あいさつ)。

あいさつとしての言葉。

それを真に受けてはいけない。

 

・・・その話を別の人に話すと、こう言った。

 

「そう、あのあたりでは、それが会話になっているよ」と。

 

 たとえば道で誰かに出会ったとしても、こう言う。

「おい、あんた、うちで飯でも食べていかないか?」と。

が、このとき、誘われたほうも、こう言う。

「ありがとう。今、食べたところですから、結構です」と。

 

 が、(あいさつ)は(あいさつ)。

つまり、それを真に受けた私が、軽率だった。

 

 話を戻す。 

・・・つまり、UFOを呼ぶのは勝手だが、呼んでどうするのかという、招待のつづきがないまま、UFOを呼んではいけない。

またそんなふうにしてUFOを呼んだとしても、かえってUFOに、迷惑をかけるだけ?

 

 もっとわかりやすく言えば、たとえば京都に住む知人が、東京に住むあなたに、何度も何度も電話をかけてきたとする。

「おいでください」「おいでください」「おいでください」「おいでください」と。

 

 そこであなたは、その知人の言葉を真に受けて、京都駅まで行ったとする。

が、その知人は、あなたを京都駅で見て、こう言った。

 

「あなたに会えて、うれしい」「ありがとう」「本当に来てくれて、ありがとう」と。

涙まで流して、感激した。

が、話はそこまで。

そのあと、その知人はあなたにこう言った。

「では、さようなら」と。

 

●妄想

 

 実は、こういう話は、多い。

本当に、多い。

UFOに乗せてもらったとか、エイリアンがやってきたとか、など。

さらに言えば、私が「大豪雨事件」(2016年9月と10月)を告白した後もそうだった。

「私も同じ経験をしました」という人が、ざっと数えても、7、8人もいた。

怪光事件となると、もっと多い。

さらには、超小型UFO事件(2020年4月)となると、さらに多い。

たいていはデジタルカメラに写り込んだレンズフレア。

あるいは虫。

 

 が、私の立場からすれば、それを否定することもできない。

わかっていても、否定することもできない。

というのも、私の事件でも、それぞれ真っ先にそれを疑った。

で、そのつど、私はこう思った。

ひょっとしたら、レンズフレアだったかもしれない。

ひょっとしたら、虫だったかもしれない、と。

そんな思いがあったから、どうしても弱気になる。

頭から否定することができない。

 

●心理反応

 

 が、そうした話が妄想かどうかは、簡単に判断できた。

妄想は妄想。

つまり作り話。

そのため妄想家の話は、どうしても薄っぺらくなる。

重量感がない。

あれこれ言っても、それは言葉だけ。

中身がない。

 

 たとえばUFOに乗せてもらったという人がいた。

滋賀県の人だった。

夜道を歩いていたら、UFOが飛んできて、気がついたらそのUFOの中にいたという。

そしてそのUFOの中から、外の景色を楽しんだという。

ついでに九州まで行ってきたという。

 

 が、この話は、どう考えても、お・か・し・い。

それがわからなければ、あなた自身が、突然、誘拐されたような場合を想像してみればよい。

夜道を歩いていたら、突然、通りがかった車に連れ込まれた、とかなど。

あなたはそれに対して、どう反応するだろうか。

 

 恐怖と混乱の中で、あなたは錯乱状態になるにちがいない。

大声をあげ、激しくそれに抵抗するかもしれない。

またそうであっても、何もおかしくない。

が、「外の景色を楽しんだ?」「九州まで行ってきた?」。

 

 が、その人はこう言った。

UFOに連れ込まれる前に、恐怖心を消されていました」と。

 

 が、この話もおかしい。

どうやって、その(消されたこと)が、わかったというのか!

 

 わかりやすく言えば、妄想家の話には、いつもこうした「穴=矛盾」がついて回る。

が、それではまずい。

だから一応それらしい説明をする人もいる。

ある男性は、自著の中でこう書いている。

 

「私はUFOに連れ込まれたとき、不思議と恐怖心は覚えませんでした」と。

 

 この男性のばあい、先手を打って、そう書いた?

ふつうなら恐怖心を覚えるはず・・・ということをどこかで知っていて、そう書いた?

「不思議と・・・」と書きながら、他人の目を意識している?

どうして「不思議と」ということがわかったのか?

 

 そこであれこれ考えたのだろう。

その男性も同じく、自分の本の中でこう書いている。

「私の恐怖心を先に消したのではないか」と。

(もっともその本は、代筆によるものと判断している。

私も若いころ、ゴーストライターの仕事をしていた。

それでそれがよくわかる。

つまりその本は、どこかでそのゴーストライターの視点を通していた。

つまり不思議に思ったのは、ゴーストラーター自身ということになる。

だから、そのように書いた?)

 

●大豪雨事件

 

 私の経験に戻る。

私は2016年9月と10月に、大豪雨事件を経験している。

その事件が私に与えたショックは、経験した人ではないとわからないだろう。

が、大豪雨事件そのものが、ショックだったというわけではない。

私がなぜ、あれほどまでのショックを受けたか?

理由は何度も書いた。

私はこう思った。

「とうとう私の脳みそは狂った」と。

 

 その恐怖感は、それまでに私が経験したことがないものだった。

病名はいろいろある。

・・・というか、私は自分の仕事を通して、そういう病気をもった親や子どもと、いつも接してきた。

そのつど母親からの相談もあった。

 

 さらに死の恐怖も覚えた。

「殺されるかもしれない」という恐怖感である。

そのころすでに私は、(上の人)に対して、殺されてもしかたないような動画を、何百本も発表していた。

マリア=ラミア説も、その中のひとつである。

混乱につづく混乱。

精神的な混乱も、あるにはあった。

が、それ以上に、つまりその何百倍も、思想的な混乱。

それまでの私のものの考え方が、それによって、(あくまでも結果論だが)、180度、ひっくり返ってしまった。

 

 が、これはあくまでも、私のケースだけかもしれないが、私のばあいは、(恐怖感を先に消してもらう)ということは、なかった。

いきなりガツーンと。

しかも怒濤のようにやってきた。

そうした衝撃は、経験したものでないと、わからない。

つまり妄想家には、そうした心理反応がない。

「こわかった」「足が震えました」「気を失いそうでした」とかは言う。

しかしそれは言葉だけ。

薄っぺらい言葉だけ。

それ以上のものが、何もない。

つまり、ウソ。

 

 わかりやすく言えば、こういうことになる。

 

 ・・・自分を基準にして、ものを考えてはいけない。

そういうのを、自己中心性という。

それはよくわかっている。

が、自分の経験を基準にして、ものを考えることは、まちがっていない・・・と思う。

「経験」は、「事実」だし、より自分を客観的に見ることができればできるほど、事実は「真実」となる。

 

 そういう経験を原点に置くと、その反射的効果として、ウソがウソとわかるようになる。

簡単にわかるようになる。

 

●特別視

 

 「私は特別(スペシャル)だ」と思っている人は多い。

そう思って、当然。

そういうのを心理学の世界では、自己愛という。

程度の差こそあれ、ほとんどみな、そうではないか。

だれしも、自分がかわいい。

自分中心に、ものを考える。

ある子ども(小2男児)は、こう言った。

 

「ぼくが前を向いたとき、前の世界が現れ、うしろの世界は消える」と。

で、私が「それはないよ。君が向こうを見ても、ぼくは消えないよ」と教えると、その子どもはこう言った。

「先生は、声だけになる」と。

こうした自己中心性は、発達心理学的には、幼少期から少年期にかけて発達する。

 

が、そうした発達段階的な自己中心性が、おとなになってからも残ることがある。

一般的には精神的な発達が未熟によるものとされる。

ものの考え方に一貫性がなく、他人との共鳴性が乏しい。

わかりやすく言えば、自分勝手で、無責任。

が、さらにそれが一歩進んで、妄想の世界に踏み込んでしまうと、わけがわからなくなってしまう。

 

 「私はナポレオンの生まれ変わり」などと言い出したりする。

さらに「私は、ブッダの生まれ変わり」「イエスの生まれ変わり」などと言い出したりする。

 

●現実感

 

 私はもともとは、現実主義者であった・・・と思う。

手相、占い、運勢に始まり、迷信という迷信を、ことごとく否定してきた。

が、面と向かってそういうことを、その相手に言ったことはない。

これは現実主義者の特徴かも知れない。

 

数学の証明問題と同じ。

解くことができる数学の問題は解く。

それは、簡単なこと。

が、「この問題は解けないことを証明しなさい」という問題は難しい。

同じように、「霊は存在しない」ということを証明するのは、難しい。

実際には、不可能。

 

 だからたとえば前世論、来世論については、どうしても口が重くなる。

そこに現実感がともなわないからである。

現実的な話なら、私にも取り組める。

が、そもそもその現実感のない話は、苦手。

苦手というより、取り組みようがない。

 

 が、その一方で、論理的にものを考えることはできる。

 

●前世論

 

 たとえば前世論は、矛盾だらけ。

最近でも、こんなことを言う人がいた。

「私は彦根藩の家老、○○の生まれ変わり」と。

 

 で、一人の男女が結婚し、それぞれが3人の子どもをもうけたとする。

単純に対数計算をしてみると、30年で一世代で、約30代=900年で、その子孫は約1億人になる。

わかりやすく言えば、あなたの子孫は、900年で、一億人になるということ。

(実際には、系図は複雑にからみあうので、もっと多いかもしれないし、もっと少ないかもしれない。)

 

 が、子孫が一億人になるとしても、逆に考えると、あなたという個人には、一億人の先祖がいることになる。

900年前には、一億人の先祖!

 

(あなたには、2人の父母=2代がいる。それぞれに2人の祖父母がいるから、祖父母は4人=3代。そのまた祖祖父母は8人=4代。祖祖祖父母は16人=5代。こうして祖xx・・・父母は、32,64,128,256,512,1024、2048,4096人=13代・・・と累乗に増えていく。たった13代=13x30年=390年で、4096人!)

 

 「私の先祖は、彦根藩の家老」と言っている人は、その4096人の中から、自分のつごうのよい先祖の一人だけを選んで、そう言っているにすぎない。

つまり現実主義的に考えるなら、馬鹿げている。

 

 さらに言えば、彦根藩?

家老?

それがどうした?

ただの行政職(失礼!)。

高位の役人が「偉い=すばらしい」と考えるのは、東洋の土着人種だけ!

 

 ほかにも矛盾は多い。

多いが、この話はここまで。

 

●妄想との戦い

 

 UFO問題、エイリアン問題を考えるということは、同時に、妄想との戦いということになる。

ふと油断すると、その妄想の世界に引きずり込まれてしまう。

たとえば私は、2016年9月の段階では、糖尿病だった。

医師にも、そう診断された。

が、2016年9月26日のあの「大豪雨事件」以後、一日も欠かさず、運動を始めた。

一日、30分x4回=2時間のランニング。

同時に徹底した食事管理。

 

 で、結果的に、その2~3か月後には、糖尿病は消えていた。

医院の医師が、首をかしげるほどの激変だった。

医師は私にこう聞いた。

2度も聞いた。

「どうやって治しましたか?」と。

で、そのときのこと。

私はこう言いかけた。

「エイリアンに治してもらいました」と。

 

 が、それは言わなかった。

言ったら、あの若い医師ならそこらにあるものを私に投げつけたかもしれない。

私の糖尿病が治ったのは、私の努力によるもの。

以後、数値が安定しているのは、私の努力によるもの。

現在の今も、運動をつづけている。

一日も欠かさず、つづけている。

けっして、(上の人)のおかげではない。

 

 私にとって、妄想と戦うということは、それを言う。

 

 

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【生きる目標】

 

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(あらすじ)

 

 1975年の夏の夜。

私とワイフは、夜中の散歩中に、巨大なUFOを目撃した。

以後、25年間、その経験は、私とワイフの間だけの秘密だった。

が、2000年ちょうどに、地元の新聞社(中日新聞)で、それについてのコラムを書いた。

そのときのことだった。

「死ぬまでに、あの夜見た、あのUFOの正体を暴いてやる」と。

 

 で、64歳になったとき、つまり2012年の夏(8月1日)から、その謎解きを始めた。

つまりそれが私の目的だった。

謎を解く目的だった。

が、その謎は解いた。

2016年の11月28日、早朝。

「今、行くよ」の声で、私は家の外に飛び出た。

全体で20歩、歩くか歩かないかのうち、ぐるりと頭を回し、頭上を見ると、そこにV字型のUFOが、ホバリングしていた。

1975年に見た、UFOと同じものだった。

 

・・・以来、もうすぐ満8年になる(2020年7月19日)。

で、気がついてみると、その私から、目的が消えていた。

少なくとも、当初の目的は達した。

その正体はわかった。

 

が、その私は、今の今も、上(神)の仕事をしている。

謎解きをしている?

で、振り返ってみると、その目的がない?

目的そのものが、消えてしまった。

そこで自分に問いかけてみる。

「なぜ、私はこんな仕事をしているのか?」と。

が、その答えが返ってこない。

ふと気がついてみたら、そこに何もない。

 

 私は何を目的に、今の仕事をしているのか?

 

+++++++++++++++++++++

 

●目的

 

 若いころは、楽だった。

そこにあるものが、すべて、目的になった。

車を買う、家を買う、あるいは子育てをする、など。

名誉や地位は求めなかったが、人からは認められたかった。

懸命に努力した分だけ、それを人に認められたかった。

が、そのうちすぐ、懸命に努力していない人など、いないことを知った。

みんな努力していた。

懸命に努力していた。

努力している人は、私だけではなかった。

 

 認められるようになるためには、まず人を認める。

言いかえると、自分だけが認められようと願うのは、あまりにも身勝手。

この世の中には、特別な人はいない。

同時に、特別でない人もいない。

やがて私は自分が、特別な人間ではないことを知った。

 

 ・・・が、それでも目標はあった。

それは私の子どものころから夢でもあった。

つまり山の中に住むこと。

森に囲まれた、山の中に住むこと。

私は若いころから、町の中が苦手だった。

人の往来を見ているだけで、すぐ疲れた。

町の騒音や、臭いはいつも不快だった。

 

 一方、「山」というと、そこには楽しい思い出がいっぱい詰まっていた。

そう、私は子どものころから、山が好きだった。

一年のうち、4~5回は、母の実家で休みを過ごした。

そしてそのたびに、山の中を走り回って日々を過ごした。

そんな思い出が、今でもすぐ蘇(よみがえ)ってくる。

私にとっては、「山」というのは、そういうところ。

 

 だから、結婚をしてからも、すぐ私はワイフにこう言った。

「田舎に住もう」と。

が、ワイフは、根っからの都会型人間。

「山」というものをまったく知らなかった。

「山に中に家を作ろう」という私。

「そんなところはいや」というワイフ。

 

●山の家

 

 結果的に、なんだかんだといって、私は夢を果たした。

ちょうど40歳のときに、今の山の家を手にすることができた。

土地づくりに、6年をかけた。

小さな山を買い、毎週土日はユンボを借り、それで山を平らにした。

石垣も組んだ。

水も引いた。

が、家だけは、地元の建築業者に頼んだ。

ワイフに来てもらわねばならない。

ワイフに気に入ってもらわねばならない。

 

 ・・・よく野鳥の動画がテレビなどで紹介される。

雄はその時期になると、懸命に巣作りを始める。

その「巣」の善し悪しで、雌がやってくる。

巣のできが悪いと、雌はやってこない。

それと同じ?

多分?

当時、いちばん仲がよかったT氏がいる。

同年齢。

趣味も同じ。

T氏は、自分で山荘を建てた。

が、そのT氏の山荘は、言うなれば、バラック。

建築廃材を使って、山荘を建てた。

そのためか、T氏の妻も、娘も、その山荘を嫌った。

だからときどき、こうこぼした。

「家内に気に入ってもらわなければ、どうしようもないよ」と。

 

 T氏の山荘へ遊びにいっても、いつも独(ひと)りだった。

それもあって、家だけは建築業者に頼んだ。

そしてワイフには、こう約束した。

「山の家では、家事はすべてぼくがするから」「お前はいつもお客さんにするよ」と。

 

 ・・・こうして私はひとつの夢を自分のものにすることができた。

つまり目的を果たした。

が、今の私には、その目標がない。

 

●希望と目標

 

 希望と目標は、違う。

若い人には同じかもしれないが、60歳をすぎると、違う。

「希望」は、生きることそのものに直結する。

「目標」は、要するに、欲望の完遂(かんすい)。

『希望だけは人は生きていかれない。しかし希望なくして、人は生きてはいかれない』(ある賢者)。

 

一方、目標というのは、その前にぶらさがっているものを、手でつかむこと。

それに向かって、行動すること。

わかりやすく言えば、充実感。

それを得るために行動すること。

・・・と、私は考えていた。

 

 もっとわかりやすく考えると、こうだ。

 

 たとえば今。

2020年7月19日、午前5時45分。

こうして原稿を書いている。

夕方までには電子マガジンを発行したい。

昼頃までは、仕事をすまし、夕方からは山の家に行きたい。

梅雨時は雑草が伸びる。

除草剤もまかなければならない。・・・などなど。

つまりそれが今日の目標。

 

 が、その目標は、一日単位だけのものではない。

一週単位にもなり、一か月単位にもなる。

さらに一年単位のものもある。

「今年中に、~~しよう」とか。

 

●虚しさ

 

 このところそうした目標に、どこか虚しさを覚えるようになった。

その一方で、焦(あせ)りを覚えるようになった。

「こんなことしていて何になるのだろう」という虚しさ。

「早く、何かをしなければならない」という焦り。

 

 老後は、おしなべて言えば、その虚しさと焦りとの闘いということになる。

俗欲的な目標は消え、その一方で、命は日々に短くなる。

「命」というより、「健康」。

毎日とまでは言わない。

しかし毎月、体のどこかしこが、何かの不調を訴えるようになる。

今年は、たしかに去年より、体がガタつき始めた。

来年は、もっとガタつくだろう。

そんな思いが、焦りとなって、はね返ってくる。

だから私は毎朝、自分にこう言って聞かせる。

 

「ようし、今日もがんばろう。がんばるしかない!」と。

そう言って、書斎へ入る。

それが日課になっている。

 

 が、このところ、その声も弱くなった。

「何をがんばればよいのか?と。

 

●謎解き

 

 この一か月、大きな謎をいくつか解いた。

その中には、世界の常識をひっくり返すようなものもある。

が、世間の反応は、ほとんど、ない。・・・なかった。

思ったほど、ない。・・・なかった。

理由や原因を考えれば、どうしてもグチになる。

だから考えない。

気にしない。

 

 それはそれだが、充足感が、急に薄れてきたのも事実。

「神の仕事」とは言うが、「だからそれがどうしたの?」と問われると、そこには何もない。

恐ろしいほど、何もない。

言うなれば、そこは限りない自己満足の世界。

目標のない、自己満足の世界。

 

 ・・・これには、今度の、コロナ19問題が絡んでいるのかもしれない。

何かにつけて、暗い。

さみしい。

近所の商店や飲食店が、店を閉めている。

事務所も、会社も、閉めている。

こういうときというのは、気が滅入る。

さらに、なんでも今度、JRが半額切符を売り出すという。

そういう話を聞いても、さみしい。

つらい。

世界が元気なときには、笑顔でそれを喜ぶはずだが、その笑顔もない。

近くのホテルも、宿泊半額を打ち出した。

が、いくら半額でも、行く人は少ない。

楽しめない。

かえって、そんなホテルに止まれば、気が滅入る。

申し訳ない気分に落とされる。

 

 ・・・こんな気分を振り払うように、「がんばるぞ!」と。

空元気で、そう叫ぶ。

 

●目的

 

 数日前、私はつい、ワイフにこうこぼした。

「今のぼくには、目標がない・・・」と。

するとワイフは、こう言った。

「そうねえ」と。

しみじみと、そう言った。

 

 毎日、書斎へ入っても、その目標が浮かんでこない。

あるとすれば、一日、最低でも3本の動画を発表すること。

視聴者の人からの情報を、しっかりと受け止め、それを動画化すること。

それだけを心に決めること。

それを決められた時間内ですますこと。

が、その先がない。

 

●心細さ

 

 だからときどき私は、ワイフにこう聞く。

「ぼくは何のために、こんなことをしているんだろう・・・」と。

同時に、こんなことも聞く。

「お前は、本当にあの黄金の光を見たのか」「緑の怪光を見たのか」と。

で、そのつどワイフはこう言う。

 

 「見たわよ」と。

そして「あなただって見たでしょ」と。

 

 黄金の光というのは、2019年4月14日の勉強会で起きた事件をいう。

緑の光というのは、2019年9月29日の勉強会で起きた事件をいう。

ついでに言えば、ワイフは2019年10月27日の、横浜会でのUFOも目撃している。

が、すべて私の背中側で起きた事件で、私は見ていない。

 

 だからワイフはこう言う。

「上の人は、いつもあなたを見ているわ」と。

そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

が、だからといって、それがどうしたというのか?

 

 2020年の4月14日には、超小型のUFOが、書斎の中を飛び回った。

それはしっかりと動画の中に映り込んでいた。

が、それについても世間の人たちは、「画像合成だ」「合成写真だ」「CGでもできる」と。

堂々とケチをつけてくる。

 

 以前の私なら、ひとつずつていねいに説明した。

が、今はちがう。

「どうぞご勝手に」とつぶやいて、そのまま削除。

ついでに書き込みをブロック。

 

世間の愚評など気にしない。

が、「気にしない」と言うこと自体が、気にしているということになる。

どうしようもないほど、つまらない雑音。

それはよくわかっているが、言うなれば、都会の雑音。

そういうものを知るたびに、今の仕事の虚しさを覚える。

いくらそこにある事実を話しても、それが人々の心には届かない?

 

 あとはその繰り返し。

今日もその繰り返し。

 

 それにしても、私がブロックをかけると、たいていの視聴者は怒る。

猛烈な抗議をかけてくる人もいる。

そのあと執拗ないやがらせを繰り返す人もいる。

 

 なぜだろう?

私には、わからない。

この世界は、不思議な世界だ。

 

●ナルシスト

 

 ときどき私は自分をかわいそうに思う。

言うなれば、鼻の先ににんじんをつり下げられた馬のようなもの。

いくら前に向かって走っても、そのにんじんを食べることはできない。

今の私はそれに似ている。

で、そんな自分がかわいそう。

が、ワイフは、それについてこう言う。

「ナルシズム(自己愛)ね」と。

 

 ・・・いつかは、私は、そのにんじんを口にすることができるのだろうか。

 

●高邁(こうまい)な精神 

 

 その一方で、私には高邁な精神性はない。

あっても、平均的。

ふつう。

バイロンやハイネのような熱はない。

ただの凡人。

 

 世界平和?

人類救済?

神の愛を説く?

 

 そんなこと、私に、できるわけがない。

そんな器(うつわ)ではない。

度量もなければ、能力もない。

力不足。

それに年齢も年齢。

体力も気力も、あと数年も、もたない。

自分でも、それがよくわかっている。

 

 ああ、私には、その目標がない。

今日の命を燃やすだけの目標がない。

あのマーク・ツウェインは、こう書いた。

『自分が他人と同じことをしていると感じたら、そのときこそ、自分を変えるべき時』と。

その言葉を借りるなら、こうなる。

『今日も、昨日と同じことをしていると感じたら、そのときこそ、今日を変えるべき時』と。

 

 が、何をどう変えるべきなのか?

 

(2020年7月19日、朝)

 

 

+++++++++++++++++++++++++※

 

現実と妄想のはざまで

 

+++++++++++++++++++++++++

 

●自己愛者

 

 自己愛について、よく考える。

だれしも「私は特別」と考えている。

それはそれだが、そうした思いが肥大化すると、自己愛者となる。

精神疾患(パーソナリティ疾患)のひとつになる。

私には特別な能力がある。

私は特別に選ばれた人間である。

私には使命がある、と。

 

 とくにこの世界ではそうで、そういう意味での自己愛者が多い。

「この世界」というのは、つまりはUFOがらみ、宇宙人がらみ、そして神がらみの世界をいう。

さらに一歩進んで、「頭のおかしい人たちの世界」を言う。

 

●頭のおかしい人たち

 

 私も、その頭のおかしい人に、誤解されている。

・・・頭のおかしい人に、なっている

それもそのはず。

明けても暮れても、UFOがらみ、宇宙人がらみ、神がらみ。

一般世間から、たしかに遊離している。

ずれている。

自分でもそれがよくわかっている。

自覚している。

 

 もし私の近辺に、私と同じような人がいたら、私だってそういう人を避けるだろう。

こわい。

いかがわしい。

不気味。

が、こういう(仕事)をしていると、皮肉なことに、そういう情報がどんどんと入ってくる。

否応なしに入ってくる。

 

「先日、十字架の形をした雲を見た。神の印(サイン)ではないか」

「半年前、UFOに追いかけられた。こわかった」

「神社へ行ったら、白いネコが私をじっと見つめていた。神に招かれた」などなど。

 

 つまりはこうした事例は、その人の(思い込み)にすぎない。

というのも、仮に神がいるとしても、神はいちいちそんなことはしない。

しても意味はない。

だいたいにおいて、その目的もない。

もっとはっきり言えば、(上の人)は、そこまでヒマ(暇)ではない。

 

●非現実性

 

 この世界には、(わけのわからないもの)は、いくらでもある。

その第一が、電子機器。

コンピュータ。

少なくとも、私にとってはそうだ。

ときどき、そのコンピュータが狂うときがある。

フリーズする。

同時にそのとき制作していたファイルが消えてしまう。

 

 その瞬間、私は言い様のない恐怖感に襲われる。

が、相手はコンピュータ。

対処のしようがない。

複雑怪奇。

 

 つい一か月前にも、こんなことがあった。

もう20年以上も前から、ホームページのソフトとして、N社のソフトを使っている。

もともとはアメリカで開発されたソフトらしい。

それをN社のソフト社が日本語版に翻訳し、日本で発売した。

が、WINDOWが、「7」から「8」、さらには「10」とアップグレードをするたびに、故障が多くなった。

もしそのN社が健在なら、そのつど会社に相談することもできる。

が、倒産してしまった。

手の打ちようがない。

 

 一方、ホームページというのは、どんどんと更新していく。

途中で、ソフトを変えるということは、できない。

だから私のばあい、現在の今も、N社のソフトをそのまま使っている。

が、問題はここから。

 

 20年以上も使っていたため、データが膨大になっている。

ソフトの立ち上げだけで、10分以上、セーブするだけで、40分以上かかる。

その間にいろいろ仕事をしていると、瞬間的にパソコン自体がオーバーヒート。

とたん、そのソフトがフリーズしてしまう・・・などなど。

 

 こういうことがつづくと、(仕事)もいやになる。

コンピュータをのろいたくなる。

が、そんなときふと、私の心の中に、非現実性が生まれる。

「これは(上の人)のしわざではないか」と。

 

 つまりは、被害妄想。

 

●被害妄想

 

 こんなことがあった。

その人物をA氏(50歳)とする。

そのA氏には、ひとつの秘密があった。

A氏自身が経験した、超常現象である。

が、その内容は問題ではない。

そのA氏が、私にその経験を話した。

で、私はそのA氏の経験を、2020年に発刊した本の中で、書いた。

本の中では1ページ程度の内容だった。

が、それが原因だった。

 

 A氏は、「これでぼくは、おしまいだ」と。

 

 A氏の話によれば、こうだ。

つまり「人に話してはいけない話をしてしまった。エイリアンが激怒している。私は地獄へ落とされる」と。

 

 ふつうの怯(おび)え方ではない。

心療内科で処方箋を出してもらうところまで、症状が悪化してしまった。

私はそのつどA氏を説得し、安心させようとした。

一方、A氏はそのつどそれに怯え、私に相談してきた。

 

 が、そういうA氏を、だれが責めることができるだろうか。

そこに(わけのわからないもの)があれば、だれだって恐怖感を覚える。

それは私が、コンピュータに感ずる恐怖感と同じ。

形は違うが、中身は同じ。

歯車で動くような機械であれば、まだ対処できる。

が、コンピュータとなると、そうはいかない。

同じように、超常現象(?)となると、そうはいかない。

闇の中であたふたするだけで、何もできなくなる。

 

 つまり私もA氏も、同じ。

どこも違わない。

 

●超小型UFO事件

 

 そんな中、2020年4月14日、私の書斎で、超小型UFO事件が起きた。

私の背中側で、超小型のUFOが飛び回った。

それについては何度も検証し、動画化してきた。

私にとっては、まさに大事件。

ひょっとしたら、世界的にも大事件。

 

 が、世間の反応は、まったく違った。

冷静というより、パーフェクトに無視。

無反応。

私には、むしろそちらのほうが不思議だった。

なぜか?、と。

 

 というのも、それを超常現象というなら、その種の超常現象は、私の周辺では連続的に起きている。

2016年9月の大豪雨事件から、である。

が、今回は、その様子が、ビデオカメラで撮影された。

証拠と言えば、これ以上の証拠はない。

しかも私の部屋。

私のカメラ。

個人的には、これ以上の信ぴょう性のおける動画はない。

 

 が、反応はない。

まったく、ない。

 

 人間というのは、そこにあまりにも信じがたい事件が起きると、最初にすることは、それを否定すること。

心理学の世界でいうところの「防衛機制」である。

2016年の11月28日に、V字型UFOを見せてもらったときが、そうだった。

私は心の中で、「これは頭のないカラスだ」と。

 

 たぶんそれと同じような心理操作が、起きたのではないか。

中に、「CG(コンピュータ・グラフィック)でもできる」と、コメントを書いてきた人もいた。

現実に近ければ近いほど、人は、まずそれを否定する。

が、それはそれとして、その超小型UFO事件は、起きた。

現実的に、起きた。

そして私の立場で言えば、それは疑いようのない大事件ということになる。

というのも、その一か月前、私の近辺では、あの『ファイル消失事件』というのが起きている。

私の20年分の医療ファイルが、そのとき、こつ然と目の前から消えてしまった!

つまりありえないことが起きた。

 

●自己愛

 

 が、こうした事件を強調すればするほど、当然のことながら、私は自己愛者と誤解される。

されてもしかたない。

私自身が、世界に向けて、「私は特別だ」と主張しているようなもの。

いくら私はそうでないと思っていても、世間一般ではそう思う。

思われても仕方ない。

 

 が、事実として、私にはそういう思いは、ほとんどない。

全くないとは思わないが、しかし、ほとんどない。

私は今までも、そして今も、現実主義。

動画作りについて言えば、証拠に基づく、現実主義者。

またそうでなければ、価値を認めない。

価値を評価しない。

もっとはっきり言えば、根拠のない話は、受けつけない。

相手にしない。

これについては、自分とか、他人の区別はない。

 

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++++++++++++++++++

 

【生きる目標】

 

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(あらすじ)

 

 1975年の夏の夜。

私とワイフは、夜中の散歩中に、巨大なUFOを目撃した。

以後、25年間、その経験は、私とワイフの間だけの秘密だった。

が、2000年ちょうどに、地元の新聞社(中日新聞)で、それについてのコラムを書いた。

そのときのことだった。

「死ぬまでに、あの夜見た、あのUFOの正体を暴いてやる」と。

 

 で、64歳になったとき、つまり2012年の夏(8月1日)から、その謎解きを始めた。

つまりそれが私の目的だった。

謎を解く目的だった。

が、その謎は解いた。

2016年の11月28日、早朝。

「今、行くよ」の声で、私は家の外に飛び出た。

全体で20歩、歩くか歩かないかのうち、ぐるりと頭を回し、頭上を見ると、そこにV字型のUFOが、ホバリングしていた。

1975年に見た、UFOと同じものだった。

 

・・・以来、もうすぐ満8年になる(2020年7月19日)。

で、気がついてみると、その私から、目的が消えていた。

少なくとも、当初の目的は達した。

その正体はわかった。

 

が、その私は、今の今も、上(神)の仕事をしている。

謎解きをしている?

で、振り返ってみると、その目的がない?

目的そのものが、消えてしまった。

そこで自分に問いかけてみる。

「なぜ、私はこんな仕事をしているのか?」と。

が、その答えが返ってこない。

ふと気がついてみたら、そこに何もない。

 

 私は何を目的に、今の仕事をしているのか?

 

+++++++++++++++++++++

 

●目的

 

 若いころは、楽だった。

そこにあるものが、すべて、目的になった。

車を買う、家を買う、あるいは子育てをする、など。

名誉や地位は求めなかったが、人からは認められたかった。

懸命に努力した分だけ、それを人に認められたかった。

が、そのうちすぐ、懸命に努力していない人など、いないことを知った。

みんな努力していた。

懸命に努力していた。

努力している人は、私だけではなかった。

 

 認められるようになるためには、まず人を認める。

言いかえると、自分だけが認められようと願うのは、あまりにも身勝手。

この世の中には、特別な人はいない。

同時に、特別でない人もいない。

やがて私は自分が、特別な人間ではないことを知った。

 

 ・・・が、それでも目標はあった。

それは私の子どものころから夢でもあった。

つまり山の中に住むこと。

森に囲まれた、山の中に住むこと。

私は若いころから、町の中が苦手だった。

人の往来を見ているだけで、すぐ疲れた。

町の騒音や、臭いはいつも不快だった。

 

 一方、「山」というと、そこには楽しい思い出がいっぱい詰まっていた。

そう、私は子どものころから、山が好きだった。

一年のうち、4~5回は、母の実家で休みを過ごした。

そしてそのたびに、山の中を走り回って日々を過ごした。

そんな思い出が、今でもすぐ蘇(よみがえ)ってくる。

私にとっては、「山」というのは、そういうところ。

 

 だから、結婚をしてからも、すぐ私はワイフにこう言った。

「田舎に住もう」と。

が、ワイフは、根っからの都会型人間。

「山」というものをまったく知らなかった。

「山に中に家を作ろう」という私。

「そんなところはいや」というワイフ。

 

●山の家

 

 結果的に、なんだかんだといって、私は夢を果たした。

ちょうど40歳のときに、今の山の家を手にすることができた。

土地づくりに、6年をかけた。

小さな山を買い、毎週土日はユンボを借り、それで山を平らにした。

石垣も組んだ。

水も引いた。

が、家だけは、地元の建築業者に頼んだ。

ワイフに来てもらわねばならない。

ワイフに気に入ってもらわねばならない。

 

 ・・・よく野鳥の動画がテレビなどで紹介される。

雄はその時期になると、懸命に巣作りを始める。

その「巣」の善し悪しで、雌がやってくる。

巣のできが悪いと、雌はやってこない。

それと同じ?

多分?

当時、いちばん仲がよかったT氏がいる。

同年齢。

趣味も同じ。

T氏は、自分で山荘を建てた。

が、そのT氏の山荘は、言うなれば、バラック。

建築廃材を使って、山荘を建てた。

そのためか、T氏の妻も、娘も、その山荘を嫌った。

だからときどき、こうこぼした。

「家内に気に入ってもらわなければ、どうしようもないよ」と。

 

 T氏の山荘へ遊びにいっても、いつも独(ひと)りだった。

それもあって、家だけは建築業者に頼んだ。

そしてワイフには、こう約束した。

「山の家では、家事はすべてぼくがするから」「お前はいつもお客さんにするよ」と。

 

 ・・・こうして私はひとつの夢を自分のものにすることができた。

つまり目的を果たした。

が、今の私には、その目標がない。

 

●希望と目標

 

 希望と目標は、違う。

若い人には同じかもしれないが、60歳をすぎると、違う。

「希望」は、生きることそのものに直結する。

「目標」は、要するに、欲望の完遂(かんすい)。

『希望だけは人は生きていかれない。しかし希望なくして、人は生きてはいかれない』(ある賢者)。

 

一方、目標というのは、その前にぶらさがっているものを、手でつかむこと。

それに向かって、行動すること。

わかりやすく言えば、充実感。

それを得るために行動すること。

・・・と、私は考えていた。

 

 もっとわかりやすく考えると、こうだ。

 

 たとえば今。

2020年7月19日、午前5時45分。

こうして原稿を書いている。

夕方までには電子マガジンを発行したい。

昼頃までは、仕事をすまし、夕方からは山の家に行きたい。

梅雨時は雑草が伸びる。

除草剤もまかなければならない。・・・などなど。

つまりそれが今日の目標。

 

 が、その目標は、一日単位だけのものではない。

一週単位にもなり、一か月単位にもなる。

さらに一年単位のものもある。

「今年中に、~~しよう」とか。

 

●虚しさ

 

 このところそうした目標に、どこか虚しさを覚えるようになった。

その一方で、焦(あせ)りを覚えるようになった。

「こんなことしていて何になるのだろう」という虚しさ。

「早く、何かをしなければならない」という焦り。

 

 老後は、おしなべて言えば、その虚しさと焦りとの闘いということになる。

俗欲的な目標は消え、その一方で、命は日々に短くなる。

「命」というより、「健康」。

毎日とまでは言わない。

しかし毎月、体のどこかしこが、何かの不調を訴えるようになる。

今年は、たしかに去年より、体がガタつき始めた。

来年は、もっとガタつくだろう。

そんな思いが、焦りとなって、はね返ってくる。

だから私は毎朝、自分にこう言って聞かせる。

 

「ようし、今日もがんばろう。がんばるしかない!」と。

そう言って、書斎へ入る。

それが日課になっている。

 

 が、このところ、その声も弱くなった。

「何をがんばればよいのか?と。

 

●謎解き

 

 この一か月、大きな謎をいくつか解いた。

その中には、世界の常識をひっくり返すようなものもある。

が、世間の反応は、ほとんど、ない。・・・なかった。

思ったほど、ない。・・・なかった。

理由や原因を考えれば、どうしてもグチになる。

だから考えない。

気にしない。

 

 それはそれだが、充足感が、急に薄れてきたのも事実。

「神の仕事」とは言うが、「だからそれがどうしたの?」と問われると、そこには何もない。

恐ろしいほど、何もない。

言うなれば、そこは限りない自己満足の世界。

目標のない、自己満足の世界。

 

 ・・・これには、今度の、コロナ19問題が絡んでいるのかもしれない。

何かにつけて、暗い。

さみしい。

近所の商店や飲食店が、店を閉めている。

事務所も、会社も、閉めている。

こういうときというのは、気が滅入る。

さらに、なんでも今度、JRが半額切符を売り出すという。

そういう話を聞いても、さみしい。

つらい。

世界が元気なときには、笑顔でそれを喜ぶはずだが、その笑顔もない。

近くのホテルも、宿泊半額を打ち出した。

が、いくら半額でも、行く人は少ない。

楽しめない。

かえって、そんなホテルに止まれば、気が滅入る。

申し訳ない気分に落とされる。

 

 ・・・こんな気分を振り払うように、「がんばるぞ!」と。

空元気で、そう叫ぶ。

 

●目的

 

 数日前、私はつい、ワイフにこうこぼした。

「今のぼくには、目標がない・・・」と。

するとワイフは、こう言った。

「そうねえ」と。

しみじみと、そう言った。

 

 毎日、書斎へ入っても、その目標が浮かんでこない。

あるとすれば、一日、最低でも3本の動画を発表すること。

視聴者の人からの情報を、しっかりと受け止め、それを動画化すること。

それだけを心に決めること。

それを決められた時間内ですますこと。

が、その先がない。

 

●心細さ

 

 だからときどき私は、ワイフにこう聞く。

「ぼくは何のために、こんなことをしているんだろう・・・」と。

同時に、こんなことも聞く。

「お前は、本当にあの黄金の光を見たのか」「緑の怪光を見たのか」と。

で、そのつどワイフはこう言う。

 

 「見たわよ」と。

そして「あなただって見たでしょ」と。

 

 黄金の光というのは、2019年4月14日の勉強会で起きた事件をいう。

緑の光というのは、2019年9月29日の勉強会で起きた事件をいう。

ついでに言えば、ワイフは2019年10月27日の、横浜会でのUFOも目撃している。

が、すべて私の背中側で起きた事件で、私は見ていない。

 

 だからワイフはこう言う。

「上の人は、いつもあなたを見ているわ」と。

そうかもしれない。

そうでないかもしれない。

が、だからといって、それがどうしたというのか?

 

 2020年の4月14日には、超小型のUFOが、書斎の中を飛び回った。

それはしっかりと動画の中に映り込んでいた。

が、それについても世間の人たちは、「画像合成だ」「合成写真だ」「CGでもできる」と。

堂々とケチをつけてくる。

 

 以前の私なら、ひとつずつていねいに説明した。

が、今はちがう。

「どうぞご勝手に」とつぶやいて、そのまま削除。

ついでに書き込みをブロック。

 

世間の愚評など気にしない。

が、「気にしない」と言うこと自体が、気にしているということになる。

どうしようもないほど、つまらない雑音。

それはよくわかっているが、言うなれば、都会の雑音。

そういうものを知るたびに、今の仕事の虚しさを覚える。

いくらそこにある事実を話しても、それが人々の心には届かない?

 

 あとはその繰り返し。

今日もその繰り返し。

 

 それにしても、私がブロックをかけると、たいていの視聴者は怒る。

猛烈な抗議をかけてくる人もいる。

そのあと執拗ないやがらせを繰り返す人もいる。

 

 なぜだろう?

私には、わからない。

この世界は、不思議な世界だ。

 

●ナルシスト

 

 ときどき私は自分をかわいそうに思う。

言うなれば、鼻の先ににんじんをつり下げられた馬のようなもの。

いくら前に向かって走っても、そのにんじんを食べることはできない。

今の私はそれに似ている。

で、そんな自分がかわいそう。

が、ワイフは、それについてこう言う。

「ナルシズム(自己愛)ね」と。

 

 ・・・いつかは、私は、そのにんじんを口にすることができるのだろうか。

 

●高邁(こうまい)な精神 

 

 その一方で、私には高邁な精神性はない。

あっても、平均的。

ふつう。

バイロンやハイネのような熱はない。

ただの凡人。

 

 世界平和?

人類救済?

神の愛を説く?

 

 そんなこと、私に、できるわけがない。

そんな器(うつわ)ではない。

度量もなければ、能力もない。

力不足。

それに年齢も年齢。

体力も気力も、あと数年も、もたない。

自分でも、それがよくわかっている。

 

 ああ、私には、その目標がない。

今日の命を燃やすだけの目標がない。

あのマーク・ツウェインは、こう書いた。

『自分が他人と同じことをしていると感じたら、そのときこそ、自分を変えるべき時』と。

その言葉を借りるなら、こうなる。

『今日も、昨日と同じことをしていると感じたら、そのときこそ、今日を変えるべき時』と。

 

 が、何をどう変えるべきなのか?

 

(2020年7月19日、朝)

 






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最終更新日  2024年09月27日 05時01分58秒



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