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●ウソと真実
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●人はウソが好き。
真実にはいつも苦痛がともなう。 トゲがある。 だから人は真実を避ける。 真実を知るよりは、『知らぬが仏』ですますほうが、生き様としては楽。 政治にせよ、経済にせよ、はたまた自分自身のことにせよ。 よい例が健康診断。
私自身がそうだった。 私は、健康診断がいやだった。 年に一度、それがあったが、いやだった。 いろいろな検査を受け、「要精密検査」という知らせをもらうたびに、ぞっとした。 ・・・というか、それをもらうからもしれないと心配するのが、いやだった。 できるなら(しないですましたい)という思いが強かった。 その思いの方が、優性的だった。 わかりやすく言えば、気が小さい。 小心者。 が、私だけではない、皆、そう?
だから人は、真実を避ける。 それを知ることの不安、心配。 それを避けるために、真実を嫌う。 とにかく今が無事なら、あえて真実を知る必要もない。 そんな思いが、自分をして、真実から遠ざける。
●ウソ
ウソの世界でも、「ファンタジー(空想的おとぎ話)」というのがある。 率直に言うが、そのファンタジーには、夢がある。 若い女性が、(多分?)、星の王子様にあこがれるのは、そのため。 その一例。 が、何も若い女性に限らない。 おとなだって、そして男性だって・・・。
総じてみれば、宗教だって、ウソのかたまり(?)。 ウソに始まって、ウソで終わる。 信じたところで、利益(りやく)など、あるはずもない。 頭の中で、それがわかっていても、あえてその理性をねじ曲げる。
現世を超越した神や仏が、人間の欲望の追求のために、助けを出すはずがない。 仮にそんな神や仏がいたとするなら、エセ。 インチキ。 たとえばタイには、宝くじの当たり番号を教える寺院がある。 あるいは宝くじが当たるようにと、その寺院には多くの信者が集まっている。 外国人の私が見れば、バカげて見えるが、現地の人たちはちがう。 真剣だ。
ほかに、たとえば「前世がある」、「あの世がある」というのも、つまるところ、そのファンタジー。 生まれ変わり論、天国論、地獄論も、そのファンタジー。
さらに言えば、最近では、チャネリングとか、アセッションとかいうのもある。 宗教ではないが、本尊のない、準宗教。 (注:日本の宗教法人法によれば、宗教法人が宗教法人であるためには、「本尊」が必要。) 若い人の間で、流行しているという。 が、根拠となる論理、事実など、どこにもない。 が、それを知ることはこわい。 恐ろしい。 ばあいによっては、生き様の土台を崩される。 だからあえて真実から、目を遠ざける。 遠ざけて、ファンタジーの世界に身を寄せる。 その世界に陶酔する。
(注:私は「霊(スピリチュアル)」の存在を否定はしないが、しかし肯定したことは一度もない。 今は、「霊はない」という前提で、生きている。 同じように、来世についても、今は「ない」という前提で生きている。 来世のあるなしは、死んでからのお楽しみ。 が、それまでは、「ない」という前提で、今を懸命に生きる。 自分を燃やし尽くして、生きる。 加えて、いくら調べても、ブッダやイエスが、来世を説いた話は、どこにも浮かんでこない。 ブッダについては、発句経を読んでみたら、よい。 キリスト教にしても、「天国へ入るのは、ラクダが針の穴を通るほど、難しい」と説いている。 私のようなどうじようもない凡人には、無理。 最初から、あきらめている。 だから「霊」について、人から聞かれるたびに、私はこう答えるようにしている。 「私には、わかりません」と。 それが、私の基本的な考えかた。)
●UFO
が、ここから少し話が複雑になる。 では、UFO問題、またそれに乗っているであろう、エイリアン問題は、どうなのか、と。 真実か、ウソか?
もっともこの問題は、実際にUFOを見たことがある人と、そうでない人では、考え方がまったく違うということになる。 また「実際、見たことがある」と言う人でも、大半は見まちがい、誤解。 中には、ウソ話そのものを作りあげてしまう人もいる。 作りあげながら、それを本気で信じてしまう人もいる。 俗世間で言うところの、「頭のおかしい人」というのは、そういう人をいう。 こんな例がある。
●トラビス・ウォルトン事件
アメリカに「トラビス・ウォルトン・アブダクション(誘拐)事件」というのがある。 詳しくは、動画化してあるので、興味のある人は、どうかそちらを見てほしい。
https://youtu.be/N9m2KJc1MLw
私はこの事件の真偽を、強く疑っている。 理由を並べたら、キリがない。 が、そのうちの一つ。 主人公のトラビスは、エイリアンにアブダクト(誘拐)されたあと、UFOクラフトに連れ込まれる。 それはわかる。 が、その部屋の中で、トラビスは、いくつかのものを目撃する。 そのうちのひとつが、コンピュータ。 「モニターがあって、グリーン画面に文字が・・・」というようなことを書いている。
が、エイリアンともあろう方が、「グリーン画面」?
トラビスが誘拐された時代では、その程度のコンピュータが、最先端の技術だった。 私がコモドール社のPET2000を購入したのが、1975年ごろ。 ベーシック言語で、プログラムを組んで、遊んだ。 その程度の、おもちゃのようなものだった。 能力と言えば、中学生が学ぶ二次曲線がやっと表示できる程度のもの。 そのコンピュータが、グリーン画面に白字だった。
トラビスが誘拐されたと主張する年は、その1975年11月。 トラビスが、今で言うところのスマホを目撃したというのなら、まだ話はわかる。 ホログラムによる立体映像でもよい。 が、「グリーン画面」? それから45年たった今、トラビスの話には何ら目新しいものはない。
トラビスは、多分?、当時の最先端情報をもとにして、話を組みあげた? つまり、こういう話は、多い。 本当に多い。 つまりあちこちから既存、既知の事実をもとに、話を組みあげる。
・・・だからといって、トラビスがウソをついたと書いているのではない。 世の中には、夢を夢と思わないで、それをそのまま本気で信じてしまう人は多い。 言いかえると、信じていれば、ウソということにはならない。
トラビスは夢を見た。 それを本気で信じてしまった?
●UFO信仰
では、UFO信仰はどうか?
現在、UFOについて、神がかった信仰心をもっている人は、ゴマンといる。 全知全能の神ならぬ、全知全能のUFOというわけである。 現実逃避の手段として、UFO問題を捉えている人も、多い。 そういう流れの中で、「星の王子様」が、UFOに置き換わった? そんなケースは、いくらでもある。
となると、UFO問題は、真実なのか、ウソなのかということになる。 が、それを見たことがある人にとっては、真実。 見たことがない人には、ウソ。
そのウソと信じている人には、繰り返すが、真実を知ることは、それ自体がこわい。 だから抵抗する。 反論する。 が、多くのばあい、それもめんどうだから、遠ざかる。 そういう話題については、無視する。
が、その一方で、ウソと知りつつ、そのウソを信じてしまう人もいる。 が、なぜか? ひょっとしたら、真実でないものまで、真実と思い込んでしまうのか。 思い込もうとするのか。
その理由のひとつが、現実逃避ということになる。 現実から逃避するために、あえてウソを信じてしまう。
・・・話が繰り返しになったので、この話はここまで。 現実逃避については、すでに書いた。
●自己崩壊
UFOを信じていない人は、がんこ。 かたくな。 真実を知れば、自分が崩壊してしまう危険性もある。 だから周囲を固める。 はっきりとした統計があるわけではないが、欧米では大半がUFOの存在を認めている。 が、この日本では大半が、認めていない。 あるいはUFOの話をする人を、変人扱いする。 変人扱いすることによって、優位性を保とうとする。 だから余計にがんこ。
だから結論を先に言えば、そういう人を相手にするのは、やめたほうがよい。 時間の無駄。 労力の無駄。 もっとはっきり言えば、信じてもらえなくても、いっこうに構わない。 信じてもらったからといって、これまたどうということはない。
それよりも大切なことは、静かにそっとしておいてあげること。 あえてこちらから土足で、相手の家に入り込むようなことをしてはならない。
●ウソと真実
ときどき迷う。 どこまで干渉してよいか、と。 たとえば地球平面説。 この地球は、平面だという。 私は自分の本(目で見る漢方診断)の中で、古代中国の、地球球体説、地動説を説明した。 そういう経験があるから、地球平面説については、人一倍、抵抗感がある。 今度発刊した、『神の証明』の中でも、それについて書いた。
が、今でも、毎週のように、地球平面説を訴えてくる人がいる。 で、否定的な意見を書くと、さらに多くの資料をコピペして、届けてくる。 地球平面説も、どこか宗教化している? まさにああ言えば、こう言う式の反論。 うるさくてたまらない。
・・・地球球体説では、何かまずいことでもあるというのだろうか。 地球平面説では、何か、矛盾が生ずるということでも、あるというのだろうか。
だから最近は、こう返事を書くようにしている。 「地球平面説はエセ科学です」と。
が、そのように返事を書くのは、私にとっては例外。 めったにそのような返事は書かない。 万分の1でも、「ひょっとしたら・・・」と思うときは、そのようには書かない。 「ひょっとしたら、地球は平面かもしれない。球体に見えるのは、脳の中の意識作用によるものかもしれない」と。
で、そういうとき、迷う。 どこまで私は自分の気持ちに素直に、返事を書けばいのか、と。 ウソはウソとして、どこまでそれを指摘すればよいのか。 というのも、この世界には、私が知っていることよりも、知らないことのほうがはるかに多い。 知らないことを太平洋に例えるなら、知っていることは、洗面器に入っている水、程度。 そんな私が、相手に向かって「ウソです」と言い切ることは、かなり勇気がいる。 実際には、できない。
が、もうそろそろその時期に来た。 やはり言うべきときは、言う。 はっきり言うべきときは、言う。 手始めに、「悪魔論」。 「悪魔なんて、いません。悪魔というのは、ローマン・カトリックが作りあげたウソです」と。 よい例が、『エクソシスト』。 映画としてはおもしろいが、ウソ。 まったくのウソ。
●悪魔論
悪魔論については、『神の証明』の中で書いた。 マガジンのほうでも、何度も取り上げた。 で、結論的に言えば、この地球には悪魔はいない。 だいたいこの地球は、神々の世界から見れば、地獄。 悪魔がいるとしたら、人間そのものが悪魔。
だからこの地球に住む、住人は、みな悪魔。 あなたも私も、みんな悪魔。 それがわからなければ、ほかの生物の目で、一度、人間をながめてみたらよい。 人間以外の生物は、みなこう思っているにちがいない。
「人間は悪魔だ」「人間さえいなければ」と。
その人間世界に悪魔がいる?
もし私が悪魔なら、この地球には住まない。 それだけの能力とパワーがあるなら、人間に対しては使わない。 使っても意味はない。 あるいはあなたなら、幼児の前で、自分の能力をひけらかすようなことをするだろうか。 腕力を使って、つぎつぎと幼児を叩きのめすようなことをするだろうか。 幼児をいじめて、どうする? どうなる?
ともかくも、これ以上は、話したくない。 それこそ時間の無駄。 ただ、誤解されているようだが、この世界における不都合なできごとを、すべて悪魔のせいにする人がいる。 悪魔教がそれを背後で操っている、と。 その中心にいるのが、バフォメットということになる。 あのバフォメットは、見るからに悪魔的な顔をしている。 だからバフォメットを信仰している人は、悪魔教の信者だ、と。
が、バフォメットは悪魔ではない。 調べれば調べるほど、そうなのだから、これはどうしようもない。 実際には、その逆。 バフォメットは、まさにマルドック。 現代社会の救世主。 ・・・という話は、ここまで。 念のため申し添えると、こうだ。
私自身は、マルドックを信じてはいるが、バフォメット教の信者ではない。 どこかのブロッグで、「はやし浩司は悪魔教の信者」と書いている人がいるが、私は信者ではない。 ただ、マルドックは信じている。 私にとっては、命の恩人。 私が、ドン底の、そのまたドン底にいたとき、マルドックは私を救ってくれた。 ともあれ、私は悪魔教の信者ではない。 だいたいにおいて、悪魔など、いない。
これからは、その主張だけは、堂々としていきたい。 (2020年8月2日)
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●敗北感
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●敗北感
謎解きの動画を作るようになって、8年と4日になる。 今日は2020年8月4日。 満8年。
そんな中、このところ毎日のように、この8年間を振り返る。 で、いつもこう思う。 「楽しかった」と。 おしらく・・・という言い方ではなく、確実に、この8年間は、人生の中でも、もっとも充実した8年間だった。 その8年間とくらべると、それ以前の私の人生は、カスカスのカスのようなもの。 何もない。 何も残っていない。 そのことは、周囲の若い人たちを見ればわかる。 みな、何かをしているようで、何もしていない。 ときどき、「どうしてあんなつまらない人生を送っているのだろう」と思うことさえある。 そう、それまでの私は、そのつまらない人生を送っていた。 それが今になってみると、よくわかる。
●パチンコ
コロナ19による外出自粛制限が解除されたとたん、まっさきに息を吹き返したのがパチンコ店だった(2020年7月)。 通りを車で走っていたとき、それに気づいた。 飲食店はもちろん、ショッピングセンターの駐車場は、がらがら。 が、パチンコ店の駐車場だけは、それなりに満車。 それを見たとき、私はこう思った。 「もったいない」と。
時間は命。 命は時間。 日銭を稼ぐためにパチンコ店に足を運ぶ。 日銭を稼ぐ。 が、その分だけ時間を削る。 命を削る。 だからこう思う。 「人間の命も、軽いものだな」と。 言いかえると、そこに命の軽さを覚えてしまう。 が、何もパチンコをすることが悪いと言っているのではない。 パチンコをする人だけが特別というわけでもない。 総じてみれば、この現代社会は、みなパチンコ。 パチンコ店。 パチンコ社会。 損得をかけて、みな、マネーを指ではじいている。 あるいはどこがどう違うというのか。 つまり中身はカスカス。
●死の覚悟
最初に死を覚悟したのは、2016年に入ってから。 2016年の夏には、私はすでに杖なしでは、散歩できなくなっていた。 それも当然。 朝から夕刻まで、書斎に閉じこもったまま。 運動と言えば、時折ランニング・マシンに乗るだけ。 気が向いた時。 時間があいた時。 当時は、マシンは居間にあった。 その居間に行く時間すらなかった。 そのまま運動をさぼるようになった。
やがて階段の上がり下りで、足がふらつくようになった。 合わせて杖なしでは歩けなくなった。 2016年の始め(私は68歳)、その年の秋の講演依頼があった。 そのときこう思った。 「それまで生きていられるかなあ」と。 つまりそれくらい、健康について自信がなくなっていた。 同時にこう思った。 「こんなことをしていたら、死んでしまう」と。 「いつ死んでもおかしくない」とも。
●命をかける
戦場を意識したことはないが、書斎はその戦場だった。 命をかける戦場だった。 が、命をかけるといっても、戦場のようなドンパチはない。 悲壮感はどこにもない。 楽しかった。 毎日が本当に楽しかった。 無我夢中だった。 その分だけ、日々に充実感があった。
相手は「神」。 「敵に不足なし」と。 だからそのときはじめて、私は知った。 「命をかけるということは、こういうことだった」と。 そう、私は、謎解きに命をかけていた。
●満8年
それが満8年になった。 (YouTubeに動画を投稿するようになっては、15年。) その8年を振り返って、こう思う。 「何も変わらなかった」と。 そう、何も変わらなかった!
相変わらず日々は平凡に流れ、いつもの人はいつものことを繰り返している。 近所の人ですら、私が何をしているか知らない。・・・だろう。 通りで会っても、平凡なあいさつ。 平凡な会話。 つまり時間だけは、今日も、去年も、10年前も、そして50年前も同じように流れている。 私はここにいて、みなは、そこにいる。 そんな中、軽い敗北感を覚える。 「やっぱり、だめだった・・・」と。 何かを期待して、今の(仕事)を始めたわけではない。 ただしたいことを、しただけ。
何かを求める?
事実は逆で、今の(仕事)を始めたことで、実際には失ったもののほうが多い。 第一に、塾の仕事。 講演。 そして世間的な評判。 この日本では、「神」を口にしただけで、「変わり者」というレッテルを張られる。 怪訝(けげん)な目つきで見られる。 私は気づかなかったが、「狂った」と思われる? もっとはっきり言えば、「危険な異常者」?
とにかくそれ、つまり謎解きをすることによって得たものは、何もない。
●ブラックリスト
そんな中、私はやがてブラックリストを作った。 インターネットの世界では、いやがらせが多い。 コメントや掲示板に、つぎつぎと書いてくる。 それが本当に多い。 しつこい。 嫉妬がからんでいるだけに、しつこい。
あれこれ手を変え、品を変え、書いてくる。 名前を変え、内容を変え、書いてくる。
で、私はそうした書き込みについては、そのまま削除する。 ブロックをかける。 が、それが相手を激怒させるらしい。 こうした反応は、私には理解できない。 つまり、私の常識では理解できない人が、あまりにも多い。
当初は、ある男からの攻撃もあった。 テレビで、よく顔を出していた。 その男は、タレント名(実名)で、私を攻撃してきた。 よほど、私のしていることが気に入らなかったらしい。 私は気がつかなかったが、私の動画の内容は、その男の説をことごとく否定していた。 結果的に、そうなった。
が、そのうちその男は、ハンドル・ネームを変えた。 YouTubeでは、ハンドル・ネームを変えれば、自由にチャンネルを変えることができる。 つまり名前を変え、一見、私のシンパを装いながら書いてきた。 が、どうも様子がおかしい。 変? で、私は、そのつど、そうした書き込みをコピーし、保存するようにした。 つまり名前を変えても、文章の書き方までは変えられない。 句読点の使い方、(てにをは)の使い方までは変えられない。 漢字の使い方、言い回し、クセまでは変えられない。 「下手くそな英語でも、しゃべっとれや」と。
とくに私は、(もの書き)。 文章には、きわめて敏感。 一読して、それがだれの文章か、すぐわかる。 指の指紋のように、すぐわかる。 だからそうした文章は残しておくようにした。 これは時間を無駄にしないため。 ブッダもこう言っている。 「ネガテイブな人とはつきあってはいけません」と。
「ネガティブ」の意味については、いろいろ解釈できる。 が、要するに、生き様がうしろ向きな人。 否定的な人。
つまりそういう男(女もいたが・・・)は、そのつど(当たり)を変えてくる。 ときにバカ丁寧であったりする。 あるいは熱心な視聴者なふりをしたり、賛同者のふりをしたりする。 その一方で、低劣な質問をぶつけてきては、私をはげしく罵倒したりする。 だからブラックリストを作った。 文章を残しておくためである。 名前を残しておくためではない。 名前など、ネットの世界では意味がない。 そういう男とは、かかわりをもたないためである。 つまりそれこそ時間の無駄。 命の無駄。
「?」と感じたときは、そく削除! 無視。 それでも絡(から)んでくるときは、ブロック・アウト。
が、こうして私はつぎつぎと敵(?)をふやしてしまった。・・・らしい。 教育畑では、ほとんど敵を作ったことのない私だったが、この世界ではそうはいかない。 妄想と空論の世界。 デタラメな人間がデタラメな説を発表しながら、そのまま専門家(?)になりすましている。 根拠も証拠も、あったものではない。 何もない。 ネットの世界は、限りなく広い。 が、その分だけ、おかしな人も多い。 そのおかしな人が、善良な人を苦しめる。 昨今、それが理由で、自死した女優もいる。
が、そのブラックリストだけでも、すでに数100ページになった。 ネットの世界で生き残るためには、そうした敵とも戦わねばならない。
●敗北感
敗北感といっても、実のところ、人間に対してではない。 名誉や地位、知名度ではない。 そんなものは、最初から目の中になかった。 私も72歳。 今さら、名誉や地位? そんなもの、どうでもよい。 たとえば有名になったところで、この日本では、どれほどの意味があるというのか。 そのことは、テレビによく顔を出すタレントを見ればよくわかる。 その愚劣さは、一目瞭然。 低劣さは、一目瞭然。 まともな日本語すら話せない。 そういう男が(女もいるが)、他人(ゴーストライター)に本を書かせ、自分では文化人を自称している。 装っている。
が、それでも私は、そういう人間と戦った。 死にものぐるいで戦った。 私はこう思った。 「もし私が、今ここで、引き下がってしまったら、私はただの変わり者で終わってしまう」と。
よく自分の死後のことを考えた。 10年後、100年後・・・と。 そのとき、私はどうなっているか? つまり私のばあい、消えてしまうことを恐れているのではない。 下手をすれば、私のばあい、それ以下になってしまう。 ゼロ評価ではない。 マイナス評価。 それを恐れた。
「昔、はやし浩司という、頭の狂った人間がいた」と。 「はやし浩司は、インチキ男だった」と。
が、そう思われることだけは、避けなければならない。 許してはならない。 現に今も、私のことをそう位置づけている人は多い。 いくらでもいる。 それは日常的な生活の中でも、よくわかる。 たとえば同窓会に出ても、よくわかる。 あの下げすんだ視線。 軽蔑した表情。 それをあちこちで感ずる。 一応、慇懃無礼な言い方で、近づいてくる。 が、その向こうに、警戒の眼(まなこ)。 それがよくわかる。
そう、私は、みながそう思っているほど、バカではない。 だから戦う。 そういう連中と戦う。 そういう人間と戦う。 が、それがここでいう敗北感を覚える、本当の理由ではない。
●相手は「神」
2016年9月26日のあの『大豪雨事件』以来、私は数々の恩恵を受けた。 神の恩恵を受けた。 目撃者も100人を超え、証言者も40人を超えた。 写真にも動画にも、撮影された。 現にありえないことが、つぎつぎと起きている。
その中でも、2018年4月26日のパーティ事件がもつ意味は大きい。 その前日、私は生死の間をさまよった。 そしてその夜は、死ぬことだけを考えていた。 絶望のどん底。 そのどん底のまたどん底。 が、その翌朝、あのパーティ事件が起きた。 そのときは気づかなかったが、(上の人)はそこにいてくれた。 1時間以上も、そこにいてくれた。 そう、上の人が、直接、私を励ましてくれた。
ほかにも、画像転送事件、コンサート事件もある。 つまりそうした恩恵を受けながら、私はそれに対して、何ができたのか? 何を返すことができたのか?
私はそれ以前と同じように、ここにいて、人はそこにいる。 社会はそこにあって、国もそこにある。 が、何も変わらない。 何も変わらなかった。 ・・・この不完全燃焼感。 やり残し感。 が、その一方で、今の私に、何ができるというのか?
今の仕事で精一杯? これ以上の仕事を、今の私にはできない。
●動画
ただ動画作りについては、そうではない。
・・・たとえば今の私には、1日に20~30本のYouTube動画を出す能力がある。 最高は、1日に46本。 数時間で20数本。 が、YouTubeでは、1日に20本が限度ということになっているらしい。 それ以上になると、スパム扱いになるという。 (幸いなことに、今のところそれはないが・・・。) それにそんなに出したところで、視聴者がついてきてくれない。
一方、発行本数を少なくすれば、一本が1~2時間の長さになってしまう。 ばあいによっては、2~3時間になってしまう。 YouTubeの世界では、3~5分が限度と言われている。 (ちょっと見て、ポイ)が、当たり前になっている。 視聴者の多くは、熱しやすく、そして冷めやすい。 当初は感動してくれた人でも、数か月もすると、そのまま去っていく。
だから今は、1日に10本程度で収めている。 が、その程度なら、午前中で(仕事)が終わってしまう。 言いかえると、(仕事)が楽な分だけ、一日の生活がカスカスになってしまう。 で、その(カスカス感)が、そのまま私の(やり残し感)となってしまう。
●運動
たとえて言うなら、それは毎日の運動に似ている。 1日4回、1回30分、計2時間。
運動は健康の要(かなめ)だが、やりたいときに、楽にするのが、運動ではない。 運動には、苦痛がつきもの。 またその苦痛があるから、「運動」という。 「やらなければならない」という切迫感があるから、「運動」という。 が、それが最低条件。
その運動をしたからといって、健康が維持されるというものではない。 保証されるというものでもない。 ときに、気が遠くなることもある。 それでも、ランニング・マシンの上で、走る。 歯を食いしばって、走る。 「チクショウ」「チクショウ」という言葉を連発しながら、走る。 つまり(仕事)というのは、そういうもの。 (神の仕事)というのは、そういうもの。
さらに言えば、謎解きにも麻薬性がある? それを繰り返していると、感覚が麻痺してくる。 以前なら、飛び上がって驚いた謎解きも、それを繰り返していると感動が鈍麻してくる。 つまらなく思えてくる。 どうでもよくなってくる。 たとえばUFOの検証動画。 今の私にとっては、意味のない動画。 まったく意味のない動画。 そういう謎解きを繰り返していると、そのうち感覚が麻痺してくる。 どうでもよくなってくる。 「今さら、UFOの存在を証明してどうなるのか」と。
だから私はどうしても、「神」のほうに目が向いてしまう。 そのほうが楽しい。 やりがいがある。 それに奥が深い。 が、その分だけ、人は、私から遠ざかっていく・・・。 この日本では、「神」という言葉を使っただけで、遠ざかっていく・・・。 敬遠される。
が、私はまさに神の僕(しもべ)。 だからいつもこう思う。 「ごめんなさい」と。 つまり私はじゅうぶんな(仕事)をしていない。 これほどまでの恩恵を受けながら、それに応えていない。 いいかげん。 適当。 空き時間には、好きなことをして、遊んでいる。 つまりそれが今の私の敗北感につながっている。 どこかなまった体を、よいしょと持ち上げ、ランニング・マシンの上に乗せるたびに、その敗北感を覚える。
もっと何かができるはず。 何かをしなければならないはず。 が、私にはそれがわからない。 わからないから、つかめない。
どうすれば、今の私は、そのカスカス感を埋めることができるのか?
(2020年8月4日、朝記)
【追記】
私自身は一連の怪光事件で、その怪光なるものを目撃していない。 まったく見ていない。 すべて私の背中側で起きている。 なぜか?
それについて、今日(2020-8月9日)、こんなことに気づいた。 その動画を、ここに添付します。
https://youtu.be/72Suj0ADGuQ
手前味噌的な、つまり自分に都合のよい解釈にも思えるが、私にはそんな意図はない。 冷静に、つまり自分を客観的に見て、私はそのように思う。 つまりこのような形で、私の(正常性)を、上の人は、それを証明してくれた。 (2020年8月9日記)
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●重責
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●安倍総理の心中を思いはかる。 「さぞかし、たいへんだろうな」と。 その重責感、重圧感は、いかばかりなものか。 伝え聞くところによると、一日の休みもないという。 (もっとも休み遊んでいたら、それこそ野党の人たちは、「ここぞ」とばかり安倍総理を責め立てるにちがいない・・・。) が、こう書くからといって、安倍総理を支持しているということではない。 支持していないということでもない。 私はパーフェクトな、浮動票層。 支持政党は、そのつど変わる。 問題は、その奥。 つまり重責感、重圧感。
ここにも書いたように、その重責感、重圧感は、想像を絶するものであるにちがいない。 うかつに口にした言葉が、それこそ大問題になることもある。 今が、そのとき。 日本中が神経質になっている。 ピリピリしている。
そんな安倍総理を思うと、それに反射して、同時にこう思う。 「私にはできないな」と。 そう、できない。 とてもできない。
無責任な人たちは言いたい放題のことを言う。 よい例が、国会の質疑。 野党の人たちは、まさに言いたい放題。 暴言につづく、暴言。 ヤジどころではない。 が、安倍総理がたった一言、ヤジを飛ばしただけで、大問題。 数日間、国会は空転し、結局は、安倍総理が謝罪するハメになった(2020年2月)。
(注:安倍総理大臣が国会審議で野党議員に対して、たった一言、「意味のない質問だ」などとやじを飛ばした問題で、17日の審議の冒頭に謝罪した。2020年2月17日。)
が、安倍総理とて、一人の人間。 ふつうの人間。 どうしてみな、そんなことがわからないのだろう。
●コンタクト
2020年4月14日の午後、超小型のUFOが、私の書斎で飛び回った。 その様子は、ビデオに撮影された。 が、これについて、否定的なコメントこそなかったが、どこか嫉妬めいた批判が多かったのには、驚いた。 それ以前からも、こんなことを書いてきた人がいた。
「お前のような人間に、神(ET)がコンタクトをとってきたというのなら、私は神(ET)を否定する」と。 それからも繰り返し、同じ内容のコメントが届いた。 あるいは、あちこちに私の(悪口)を書いた。
「視聴者のみなさん、あなたがたは、はやし浩司に洗脳されている。気をつけろ」とか、いうのもあった。
で、すかさず私がそうしたコメントを削除すると、さらに辛辣(しんらつ)なコメントが届いた。 「お前にオレのコメントを削除する権利はない」と。 私を攻撃した。・・・し続けた。
が、こういう人たちの底流を支えている意識は、要するに(甘え)。 その(甘え)は、安倍総理を攻撃する野党の心理に共通する。 まさに言いたい放題。 私に対しては、一点のまちがいも許さない無謬性(むびゅうせい)を求めながら、自分はまさに言いたい放題。
が、私とて、一人の人間。 ただの人間。 安倍総理の重責感、重圧感には、はるかに及ばないが、その立場は同じ。
(ただし安倍総理は公人。私はただの私人。個人。どうしてその私が攻撃されなければならないのか。)
・・・と言っても、私は何も、ここでグチるつもりはない。 私がここに書きたいことは、その先。 で、まず私自身のこと。
(注:それにしても、インターネットの世界には、この種の攻撃が多すぎる。 気の弱いネット・ユーザーなら、それだけで気が滅入ってしまうかもしれない。 事実、自死に追い込まれた人だっている。 いくら民主主義の時代とは言え、こうした人たちは民主主義の破壊者ということになる。 事実、現在の今、行きすぎた(?)民主主義の反動として、強権政治を求める人たちがふえてきている(日経新聞2020年8月、第一面記事)。 これは民主主義にとっては、たいへん危険な兆候と考えてよい。 つまり民主主義の基本は、個人の尊重にある。 それはわかる。 が、その個人が凶暴化している?)
●とんでもない!
たしかに私は、今、世間で言われているように、コンタクティーである。 言葉の定義はともかくも、俗世間の常識によれば、そうである。 2016年の9月から、それはずっとつづいている。 ひょっとしたら、今もつづいている。 が、それは私にとっては、うれしいことであると同時に、だからといって手放しで喜べるようなことでもない。
私は、今の仕事を、命がけでしている。 「命がけ」ということは、命がけ。 真剣勝負。 理由の第一は、私の健康問題。 それに年齢問題。 私には時間がない。 命がない。
そういう中で、毎日4単位(30分x4回)の運動をつづけている。 「健康のため」というような生易しいものではない。 つまりその「~~のため」という部分がない。 わかりやすく言えば、その目的がない。 どこにもない。 何のために私は、健康を維持しているのか?
名誉、地位、財産・・・どれをとっても、何もない。 ないが、その(仕事)をしている。 つまりその(仕事)のために、運動をしている。 でないというのなら、今の私には何がある? 「何のために運動をしているか」と聞かれたら、私はいったい、何と答えればよいのか。
・・・と言っても、今の私は、通俗的な喜びを受けつけない。 車を買う・・・それがどうした? おいしいものを食べる・・・それがどうした? 旅行をして温泉に泊まる・・・それがどうした?
神の(仕事)をするということは、同時に、そうした通俗性との決別を意味する。 あえて自分がそうであるように仕向けているわけではないが、決別を意味する。 はっきり言えば通俗的な喜びには、興味がない。 またそういう喜びを求めても、返ってくるのは、虚しさだけ。 何もない。
余計なことかもしれないが、老後というのは、それ自体がまさに闘いの連続。 どう自分を支えていくか、毎日がその闘い。 ふと油断すると、生きがいそのものが消えてしまう。
だから私は自分の命を、(仕事)に向ける。 毎日、(仕事)に向ける。 つまり神の(仕事)をするということは、第一に、通俗性との決別を意味する。 が、それは口で言うほど、生易しいことではない。 言いかえると、孤独、孤立、隔離との闘い。 「隔離」というのは、一般世間との距離感をいう。
その距離感は、どうしようもない。 が、その半面、私はこの現実社会で生きている。 生活している。 現実を無視して生きていくことはできない。 生計を立てなければならない。 それこそ食物を買い、それを食べていかねばならない。 当然のことながら、金銭トラブルもある。 さらに事故や病気もある。 が、神の(仕事)をしていると、その現実感が、時としてスーッと消えていく。
・・・となると、私は何のために、今の(仕事)をしているのか。 誰のために? その答えは、当然「神のため」ということになる。 が、その神の(仕事)には、当然のことながら、研ぎすまされた厳(きび)しさが求められる。 言いかえると、けっしていいかげんな気持ちではできない。 その(恐ろしさ)は、私は実は、身をもって体験している。
(それについて詳しく書くのは、ここでは勘弁してほしい。)
●UFO
2020年4月14日の、UFO事件は、それまでの事件とは性質が異なったものである。 その日、超小型のUFOが、書斎の中を飛び回った。 40数回に渡って飛び回った。
この事件は、私に大きな希望と勇気を与えてくれた。 うれしかった。 私はその事件を通して、私は独りではないことを知った。 が、同時に2つの相反した気持ちが私を同程度に支配した。
「公表すべき」という気持ち。 「公表してはならない」という気持ち。
ひとつは、こうした事実を、もっと多くの人に伝えなければならないという気持ち。 もうひとつは、こうした事実を、自分の名誉に利用してはならないという気持ち。 というのも、そこに現実的な自分がいて、こう思った。 「これが証拠だ、どうだ!」と。
私は今まで、多くの否定論者と戦ってきた。 ただの否定論者ではない。 私をさげすみ、軽蔑し、そして否定した。 そういう人たちに対して、一矢、報いたという思い。 「私が言ってきたことは、本当だったんだぞ」と。
が、それは神の望むところではない。 またそんなことにために、神が私に、超小型UFOを見せてくれたのではない。 それはよくわかっている。 わかっているが、どうしても、そう思ってしまう。 そこにまた、私は自分自身の限界を覚えてしまう。
●「とんでみない!」
だからこう思う。 「とんでもない」と。 ときどき、私にこう書いてくる人がいる。 「コンタクティーになってよかったですね。私もなりたい」と。 そういうとき私はこう思う。 「とんでもない」と。
つまり神の(仕事)をするということは、そんな生易しいことではない。 甘いことではない。 たとえば今日も、朝から気温は30度を超えていた。 そういう中、4単位の運動をこなすことは、つらい。 しかしそれをしなければ、(仕事)はできない。 まずその(つらさ)に耐えなければならない。 が、ほんとうの厳しさは、そのあとにやってくる。
無私無欲とは言う。 4~5年前だが、こんなことがあった。 YouTubeにコマーシャルを載せると発言したときのこと。 それに対して、すかさずこんなコメントが届いた。 それまで1~2年、コメントのやり取りをしていた人からだった。 「本性が出ましたね」と。 もう一人、「あなたは変節しました」と書いてきた人もいた。
この現実世界は、総じて言えば、すべてその(コマーシャル)で動いている。 (マネー)で動いている。 が、こと私に関しては、それが許されない? そういった視聴者は、勝手な妄想をふくらませ、それでもって私に、非現実的な期待を寄せる。 気持ちは理解できないわけではない。 が、しかし私は公人ではない。 聖職者でもない。 もちろん神ではない。
そういうときというのは、同時にすかさず現実的な自分が顔を出す。 たとえばああでもない、こうでもないと私にからんでくる人は多い。 そういうとき、ふと油断すると、私はこう思ってしまう。 「文句があるなら、私の動画を見るな!」と。
しかしそれを言ったら、おしまい。 私が私でなくなってしまう。 また本当に、その相手にそう言ったら、それこそたいへんなことになる。 そういう人にかぎって、私の言葉尻をつかまえて、大騒ぎをする・・・にちがいない。
が、無私無欲と言っても、そこには限界がある。 つまり私はいつもその限界状況の中で、もがく、苦しむ。 そのしんどさは、言葉では説明できない。
・・・つまりその(しんどさ)を、数万倍、数百万倍したのが、日本の内閣総理大臣、つまり安倍総理ということになる。 その安倍総理と比べると、私はしたいことをしているだけ。 休みもあるし、その合間を縫って、好き勝手なことができる。 責任を問われることもない。 まちがえたら、訂正すれば、それですむ。
無責任な人(=責任ある地位、立場にない人)は、負け犬の遠吠えのように、安倍総理を非難する。 否定的な言葉を並べて、こき下ろす。 が、そういうとき私はこう思う。 「だったらあなたが総理大臣になればいい」と。 「もしあなたが安倍総理より、よい政治が運営できるという自信があるなら、あなたが安倍総理に代わったらいい」と。
が、実際にはそうではない。 たとえば安倍総理を否定する野党にしても、なぜそれが少数野党のままかと言えば、その理由など、今さらここに書くまでもない。 理由は簡単。 「つまりそれだけの国民の安心感がない」と。 「安倍総理には多くの問題はある。が、それはそれ。今の日本の政治を任せてもよいという安心感が、野党にはない」と。
とくに今は、国家の一大事。 コロナ19とともに、へたをすれば日本の経済そのものが崩壊してしまう。 そういう中にあって、野次馬的に、「あれが悪い」「これが悪い」「こうしろ」「ああしろ」と。ヤブに隠れて叫ぶのは簡単。 総理大臣としては、当然のことながら経済を止めるわけにはいかない。 「コロナが拡大しているから、経済活動を封鎖します」とは、言えない。 つまりは、バランス。
だったら国民がそれに協力するしかない。 が、それについても、休業補償を出せ、保育費をふたんせよ、と。 ああ、この国の国民は、いったいどうなってしまったというのか?
何か、おかしい。 どこか、おかしい。 民主主義そのものの考え方が、おかしい。 わかりやすく言えば、民主主義をよいことに、甘ったれている。
・・・私は今の(仕事)をしながら、そんなふうに思うようになった。 平たく言えば、安倍総理の置かれた立場が、少しは理解できるようになった。 少しは言葉が重くなった。 「さぞかし、たいへんだろうな」と。
●国を相手にしない
私は過去、50年間、国を相手にしなかった。 国が何かをしてくれるなどとは、思ったことがない。 たとえばこの50年間、国から直接的に補償を受けたのは、息子たちの出産時の10万円。 それに今回のコロナ補償の10万円。 それだけ。 たったのそれだけ。
一方、国に納めた税金は、当然のことながら、年間200万円と計算して、一億円以上。 もっと多いかもしれない。 が、それを不公平に思ったことはない。 考えたこともない。 もとから私は、国を相手にしていなかった。 私の人生は、いつも背水の陣。 今日、病気か事故で倒れたら、それでおしまい。 明日から路頭に迷う。
が、その精神は今も生きている。 今の(仕事)の中に、生きている。 命がけ。 そのきびしさがわからない人たちのために、最後にこんな話をする。
●大病
私は2年半前(2年4か月前)の2018年に、大病を患った。 すでに転移が見られたステージ3だった。 入院期間は、当初2週間から1か月だった。 だから私は入院に先立って、50数本の動画を制作した。 毎日2本ずつの、25日分。 一日だって、動画発表を絶やしたくなかった。 それでそうした。
が、術後直後の検査で、大きさが1~2センチの肉腫が見つかった。 大動脈に付着しているので、手術はできないと言われた。 で、お決まりの抗がん剤。
が、その化学療法は、10日でやめた。 気力がゼロになってしまった。 気力ゼロでは、謎解きはできない。 神の(仕事)はできない。 だから、やめた。
・・・それからは2か月ごとの検査、また検査。 私はそのたびに死を覚悟した。 大病と闘うということは、病気と闘うことではない。 死の恐怖と闘うことをいう。 その恐怖と闘いながら、謎解きをし、動画を発表した。 一日も欠かさず発表した。
私が言う、「命がけ」というのは、それを言う。 が、私はけっして神に助けを求めなかった。 が、ただ一度だけ、こう祈った。 2018年4月25日の、あのパーティ事件のあとのことである。 「あと2年間だけ、今の仕事をさせてほしい」と。 2年間。 約束の2年間。
私の大病の再発率は、術部周辺だけでも40%以上。 すでに遠隔転移も疑われていた。 が、その一方で、私は楽しかった。 本当に楽しかった。
(注:2020年8月13日、直近の造影CTおよび血液検査の結果では、カルテにはこう記載された。 「何もありません」と。 前回のCT検査までは、「転移、再発は見られません」だった。 が、今回は、「何もありません」と。 同時に担当外科医師は、私にこう言った。 「5年後の生存率は、80~90%以上です」と。 あの三角形の肉腫は、検査ごとに縮小した。 そしてそれが今回の検査で、消えた。 明日のことはわからないが、それが今日までの結果ということになる。 2020年8月。)
その私は皮肉なことに、この2年半の間に、大きく変化した。 私ももうすぐ73歳になる。 つまり寿命を受け入れることができるようになった。 こうして毎日が楽しいだけで、じゅうぶん。
だからワイフがこう言ったとき、私はこう答えた。 「今まで通りがんばるよ」と。 ワイフはこう言った。 「これでほっとした?」とワイフ。 「今までどおり、やるしかない」と私。
大病は大病だが、私が経験している(きびしさ)というのは、それを言う。
●赤い怪光事件
ついでになるが、もうそろそろ告白してもよいと考えるので、告白する。
2018年、7月。 勉強会の席で、赤い怪光事件が起きた。 私の体の周辺で、まぶしいばかりの赤い怪光が乱舞した。 3人の人がそれを目撃した。 (当日の出席者は、私を含めて、10数人。)
その赤い怪光は、最初、私の左脇腹下方部に現れた(M氏、Mさんの証言)。 それを知ったとき、私はうれしかった。 さらに2019年4月の黄金色怪光事件のときも、そうだった。 岐阜市在住のSさんは、同じ部位で、黄金色のフラッシュ光を目撃している。 (私がみなさんの証言を求める中で、その部位を何度も確かめたのは、そのため。 電話取材のとき、繰り返しその部位を確認した。)
その部位は、まさに私が手術をした部分だった。 私の大病とそのまま結びつけることは、危険なことだった。 が、私は内心では、結びつけた。 つまりその部位に現れた理由が、すぐわかった。 で、私は、そこに神のやさしさを覚えた。 感謝した。
さらに2度、私はコンサート事件を経験している。 その中で、1回目のときは、声ではない声で、「ありがとう」という言葉を聞いた。 2回目のときは、歌詞で、「I love you」と聞いた。 そしてさらに2020年の3月23日には、医療ファイル消失事件とうのを経験した。 厚さが2~4センチになった医療ファイルが、数枚の検査結果を残して、すべて消えた。 その中には、大病も含めて、この2年半のすべての記録が入っていた。 それが10~15分、目を離したすきに、こつ然と消えた。
が、それとて私の大病と関係があると言うのは、危険なことだった。 こうした経験は、即、妄想と結びつきやすい。 私はそのつど、強く自分を戒めた。 「そんなはずはない」と。
が、そんなはずは、あった! 私の迷いを吹き飛ばしてくれた。 それが2020年4月14日の、書斎に現れた超小型UFO事件である。 私の部屋の中を、40数回にわたって、超小型UFOが、乱舞した。 ビデオカメラにも、それが収められた。
●2年間
約束の2年は、2020年の4月に終わった。 つらくも、きびしい毎日だった。 手術すればそれでおしまいというような病気ではなかった。 心臓の壁にべったりと張りついた、不安感。 ザワザワとした不安感。 それがいつ晴れるということもなく、つづく。
加えて診察日。 当初は、2か月ごと。 私はその日が来るたびに、おびえた。 苦しかった。 息ができなかった。
が、一日も欠かさず、動画を発表した。 やった。 やりきった。
神の(仕事)は、そんな甘いものではない。 今、この2年間を振り返って、つくずくそう思う。 毎日が、重責と重圧との闘いだった。
私は担当のドクターにこう聞いた。 「この先5年間、何ごともなく過ぎていく確率は、80%くらいと考えていいですか?」と。 するとそのドクターは瞬間、頭の中で何やら計算するような様子を見せたあと、こう言った。 「う~ん、もう少し高いかな」と。
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●みなさんへ
神(ET)は、現実的な存在として、実在しますよ。 まちがいなく、存在しますよ。 で、話は大きく脱線してしまった。 が、そのしめくくりとして、今の私はこう考える。
神の仕事はきびしい。 本当にきびしい。 その重圧感と重責感。 が、同時に楽しい。 本当に楽しい、と。
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(お断り)
今日のエッセーは、脈絡が途中で崩れてしまいました。 出だしは、「安倍内閣総理大臣」。 しめくくりは「本当に楽しい」?
今、この原稿をボツにしようかと迷っています。 が、発行時刻が迫ってきていますので、推敲しないままこのまま、発行します。 また何かの機会で発表するときがあったら、推敲します。 今日は、このままで失礼します。
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最終更新日
2024年09月27日 05時03分10秒
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