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カテゴリ:科学・言語
 瀬戸智子さんの 「枕草子」 というブログに次のようなことが書いてあった。

 学校教育、とりわけ理科教育が偏向していったのは1998年改定「小学校学習指導要領」の「解説理科編」を見ると明らかです。(初等中等教育に関する提言を参照して下さい。)

 「自然の特性は人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したものであり、自然の特性は人間の創造の産物である。」と言うのです。

 このような考え方は、たぶん 『コペルニクス的転回』 とやらで有名な、かのカントさんの次のような言葉から始まっているのだと思う。

 それだからわれわれが自然と名づけている現象における秩序と規則正しさとは、われわれが自分で自然の中へ持ち込んだものなのである。もしわれわれがこれを自分のうちに持っていなかったなら、あるいはわれわれの心の自然を現象としての自然の中へもともと入れておかなかったなら、われわれは秩序も規則正しさも自然の中で再び見出すことができないだろう。
                      『純粋理性批判』岩波文庫下巻P.170

 カントさんがいったいなにを言いたかったのかということは、ややこしくて頭が痛くなる話なので置いておこう。

 問題は、「客観的法則」 とはなにか、ということだ。

 よく考えると分かることだが、自然にも社会にも、「客観的法則」 というものはそれ自体としては存在しない。実際に存在するのは、それぞれ勝手に運動している粒子や、また社会であれば人間のような実体だけである。そのような運動する実体の外に、あるいは運動する実体とは別に、人間社会の掟のように、「~しろ」 とか 「~するな」 などと命令する「規則」 としての 「法則」 が存在するわけではない(「規則」 としての 「法則」 なんてややこしい言い方をしましたが、英語やフランス語やドイツ語で言うとどっちも同じですね)。

 しかし、そのような運動を巨視的に全体として眺めれば、一定の条件の下では一定の規則的な運動をしていることが分かる。これは 「客観的に存在する法則性」 であり、これを人間が認識して一定の数式などに定式化したものが 「客観的な法則」 である。

 だから 「客観的な法則性」 は自然や社会に存在する 「事実」 だが、「客観的法則」 とは、そのような現象の研究によって、人間の頭の中に成立した 「認識」 だということになる(ああ、ややこしい)。

 こういう事実としての 「客観的法則性」 と認識としての 「客観的法則」 の違いを明確に指摘した唯物論者というのは、日本ではたぶん三浦つとむが最初ではないかと思う。

 そんなややこしい区別になにか意味があるの、みたいな声が聞こえてきそうだ。確かに普段は別にそこまで区別する必要はないし、そんなことを意識する必要もないと思う。

 しかし、人間の主体性というものを無視してただの機械のようにしか見ない客観主義的な 「俗流唯物論」(「俗流反映論」 などとも呼ばれます)を批判して、人間の実践や観念的な行為を唯物理論的に解明する 「主体的唯物論」 を提唱した三浦つとむという人の本当の凄さは、それまでの唯物論哲学者が見落としていた、こういう一見些細な違いを明確に指摘して、それまで観念論によって展開されてきた 「認識」 や 「行為」 における人間の主体性という問題をも唯物論の枠内に取り込もうとしたところにあるのだ。

 だから三浦によれば、自然法則であれ歴史法則であれ、「客観的法則」 がまるで 「モーゼの十戒」 かなにかのように、それ自体として存在すると主張するのは、実は唯物論ではなくて観念論だということになる。

 これまでのすべての唯物論(フォイエルバッハも含めて)の主要な欠陥は、対象、現実性、感性が、ただ客体あるいは直観の形式でのみ把握されていて、人間的・感性的な活動、実践として把握されず、主体的に捉えられていないことである。そのため、この活動する側面は、唯物論からではなくかえって反対に観念論のほうから展開されるというようなことになった。
                     『フォイエルバッハ・テーゼ』

 ここでマルクスが指摘している 「活動する側面」 を展開した 「観念論」 というのは、要するにカントからヘーゲルまでの 「ドイツ観念論」 のことである。マルクスが唯物論者であることは誰でも知っていることだが、これを読むと、彼がそのような観念論の成果も高く評価していることがよく分かるだろう。

 さて、最初の話に戻ろう。

 自然の特性は人間と無関係に自然の中に存在するのではなく、人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したものであり、自然の特性は人間の創造の産物である。
                 1998年改定「小学校学習指導要領」の「解説理科編」


 問題は、ここで言われている 「自然の特性」 という言葉がなにを意味しているのか不明確だということだ。

 ここまで説明してきたように、「自然の法則」 というものは、確かに 「人間がそれを見通して発想し、観察、実験などによって検討し承認したもの」 である。かりに、上の文章がそういうことを言いたいのだとしたら、それはまったくの間違いというわけでもない。

 しかし、「自然の特性」 とは普通の日本語として読む限り、「人間と無関係に」 自然の中に事実として客観的に存在する事象のことだろう。

 だとすれば、この 「1998年改定『小学校学習指導要領』の『解説理科編』」 はやっぱり変なのだ。 つまり、ここでは事実としての 「客観的法則性」 と認識の成果としての 「客観的法則」 を混同する 「機械的反映論」 と同じ誤りが、ただし反対の形で表現されているのだ。





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Last updated  2008.11.11 04:47:51
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