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カテゴリ:神話・伝承・民俗
今さらのような話で恐縮だが、先日、近所の交差点で信号が青になるのを待っていたら、青になると同時に、例のわらべ歌が流れ出した。言うまでもなく、「行きはよいよい」 でおなじみの 「とおりゃんせ」 である。歌詞の全文は、次のとおりである。 とおりゃんせ とおりゃんせ
この歌のメロディが、視覚障害者用の音響信号としてあちこちで使われるようになった経緯というのはよく分からないが、だいたい昭和50年代頃から、スコットランド民謡の 「故郷の空」 などと一緒に使われるようになったらしい。たしかに、「とおりゃんせ、とおりゃんせ」 という出だしの歌詞は、信号が青になったので渡ってもいいですよ、ということを知らせるには適している。 しかし、「行きはよいよい、帰りは怖い」 という歌詞を、目の悪い歩行者に対して、「行きはいいけど、帰りは怖いから気をつけなさいよ」 というような意味で使っているのであれば、これはまたずいぶんとお節介な話のような気がする。車や自転車が行きかう、危険がいっぱいの街の中を日頃から歩いている視覚障害者からすれば、そんなことは言われなくても分かっている、という話だろう。 ましてや、最後の 「怖いながらも、とおりゃんせ、とおりゃんせ」 などというところなどは、「いちおう危険についてはお知らせしましたから、あとは渡る人の自己責任でお願いします」 などと言っているようにとれなくもない。 むろん、これはことさらに意地悪な見方であって、この曲を採用した人らもそこまで考えていたわけではないだろう。それでも、やっぱりこの歌については、歌詞のイメージがよくないという苦情もあるらしく、最近では鳥の鳴き声などの信号に代わってきているらしい。 そう言われれば、たしかにこの信号が残っているのは、主に田舎や郊外などであって、繁華街などの大きな交差点や新しい信号機などでは、すでにピポッ ピポッというメロディなしの信号に代わっているようだ。 童話というものが本当は怖いというのは、有名な話である。毒リンゴを吐き出して生き返り、めでたく王子様と結婚することになった白雪姫は、婚礼に呼んだ継母 (実母というバージョンもあるらしい) に真っ赤に焼けた鉄の靴を履かせて、死ぬまで踊らせたというし、シンデレラの最後では、やはり婚礼に呼ばれた二人の姉は鳩に目を潰されてしまうのだそうだ。 それは日本の童話とされるものも、やはり同様であり、森鴎外の 「山椒大夫」 で有名な 「安寿と厨子王」 の説話でも、姉弟を人買いから買いつけて虐待した山椒大夫は、最後に鋸で首をぎこぎこ切られるということになるし、冥土から餓鬼の姿で蘇り、熊野権現のおかげで人に戻った小栗判官の話でも、妻が命乞いをした、自分に毒を持ったその父を除いて、やはり悪者はみな処刑されるのである。 こういう童話がはらむ残酷性については、フロイトやユングだとかが、昔からいろいろ分析しているのだろうが、考えてみればわらべ歌というのも、歌詞をよくよく吟味してみるとなかなか怖ろしいものがある。横溝正史ではないが、各地各地に伝わる手まり歌などもそのようだ。 むろん、童話もわらべ歌も作ったのは、いうまでもなく大人たちだろう。まだ言語経験の浅い子供らには、そのような説話やわらべ歌を聴かされても、その意味についてそれほど深く考えるということはなかったものと思う。そういう残酷さについては、「因果応報」 という教訓を教えることが目的だというような説明もあるが、やはりそれだけではあるまい。 それはともかく、昔の人らは、子供というものを、そういう残酷な話や陰惨な話などを聞かせたりしてはならない、傷つきやすい 「純真無垢」 な心を持った存在などと考えてはいなかったことだけは確かである。それに、現代人であるわれわれは、とてもそのような話を子供らに平気で聞かせられような心を、もはや持ち合わせてはいない。 四年前に大牟田で起きた、暴力団一家による4人連続殺人事件について、福岡高裁は父親と長男に対する一審の死刑判決を支持して、控訴を棄却した(参照)。すでに、母親と次男についても、同様に控訴が棄却されている。まだ、最高裁が残っているので判決が確定したわけではないが、一家全員に死刑判決が下される可能性はきわめて高いだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.11.29 23:59:36
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